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龍之介 打ち明け話4

 龍之介と雪江は加藤家を出て、そのまま桐野の中屋敷へ帰ってきた。


 雪江が久しぶりに自分の部屋へ戻った。急なことだったが、皆がその帰宅を喜んでいる。お絹も百を連れて顔を見せてくれた。


 その夜、龍之介が雪江と寝所を訪れる。しかも夕餉が終わり、少しくつろいだころだ。雪江が疲れて寝てしまう前に、龍之介の吉原話をするためだった。


「ねえ、龍之介さん、私が寝ちゃったら、あっち(中奥)へ戻る? それともここで寝てくれる?」

 その問いかけには、龍之介にここにいて欲しいという思いが込められていることを知っていた。

「ここで寝よう。その代り、明日の朝は早くあちらへ戻るぞ。それでもよいか」

「うんっ。それでいい」


 雪江が布団に入った。その横に龍之介が、添い寝をするようにして、体を入り込ませる。久しぶりの感触だ。雪江の、落ち着く匂いだった。

 雪江を包みこむように、龍之介は肘枕をし、手を腹に添える。


「疲れたであろう」

「疲れてないって言ったら嘘になるけど、自分の家に帰ってきたんだもん。疲れてても大丈夫。一晩寝れば、落ち着く。それよりも安寿姫たちには悪かったなって思う」

 龍之介は、もう加藤家にかなり頭を下げていた。しかし、向こうは明知と安寿、しかも安寿も身重なのだ。理解をしてくれていた。


「後日また訪れて、よく詫びをいう。もうそのことは心配せずともよい」

「わかった。私も安寿姫に手紙を書くね」


「寝るか、それとももう少し話を聞くか?」

「話、聞かせて」

「わかった」


 そして龍之介は再び、吉原へ行った話の続きを始めた。


**********


 普通、吉原の客は、馴染みと呼ばれるまでには三回、足を運ばなければならない。そして、初回から三日とあけずに来ないと、花魁に顔を忘れられてしまうので、すぐに訪れることが常識なのだ。なにごとにも段階があり、その手順をふんでいかなければ野暮と呼ばれる世界だった。

 中には、初回でその花魁を気に入り、ウラ(二回目)の金を払って飛ばし、すぐに馴染みとなる誓いをたてろという客もいるそうだった。


 龍之介たちは、そのウラ、二回目の近江屋の珠緒の座敷に上がっていた。もちろん、二回目も花魁は黙って座ったきりだ。龍之介たちは初回のように、台の物に舌鼓を打ち、ただ、世間話をしていた。


 珠緒は前回よりも穏やかな顔をしていた。なぜ三人がここを訪れているのかというその理由がわかっているからだろう。たぶん、渡した文の返事をくれると思う。それを待っていた。それによって、番所に訴えでて、その下手人を捕まえてもらうつもりでいた。


 小次郎が珠緒つきの禿、二人に菓子を手渡す。まだ六、七歳ほどの少女だった。あどけない笑顔で礼を言う。もうこんな年齢で、吉原で生活をしているのだ。

 その少女たちの、これから待っている過酷な運命を考えると、なんともやり切れない思いになった。


 幕府はなぜ、このような吉原を公認としているのだろう。ここは飢えている両親が一時の金を求めて、子供を売るところのようになっていた。ここがなければ、もしかしたら生きていく他の手段を考えていたかもしれない。


 そのような貧困の集落へ、女衒ぜげん(女を遊女屋へ売る周施を仕事にしている者のこと)が出かけていく。娘を吉原へ売れば金がもらえるとなれば、心を動かされるであろう。それか、親が首を振っても娘の方が家族を助けるために、身を売ることもあるのだ。


 その女衒という人買いは、吉原では≪善兵衛≫または、《源平衛》と呼んだらしい。女衒の「ぜ」の善兵衛に、「げん」の源平衛だから。


 本人が吉原という所がどういう所なのかをわかっていて、行くことを承諾したのなら仕方のないこと。しかし、なにも知らない少女を、自分たちの生活のために、このようなところへ売ることだけは許せなかった。


 こんなことはきれいごとだと言われるかもしれない。しかし、この目の前にいる少女たちは、ここでの生活しか知らないことになる。この吉原で成長していくのだ。

 遊女は足袋をはかない。冬でも裸足で過ごす。遊女がここを出て、新しい足袋を履こうにも、自分の足の文数もんすうを知らないという。


 二十八になって、もう遊女でなくなったとしても、外に出て普通の女性のように暮らして行くことができるのだろうか。誰か金持ちに身請けされればよいが、この吉原の中では、外で暮らしていくことができず、自由の身になったのにもかかわらず、この吉原で下働きをしたり、さらに格が下の小見世や宿場町の飯盛り女としてやっていくしかなかった。多くの遊女たちは、二十代前半ほどで体を壊し、死んでいったという。また、彼女たちの遺骸を引き取る者がいなければ、近くの寺に無縁仏として、葬られたという。

 (テレビドラマでの吉原花魁たちは、美しく華々しいが、その背景には酷く、悲しい現実があったと思う。)


 その少女が、思いつめた顔をしていた龍之介を見て、にこりと笑いかけた。その笑顔に、龍之介も思わず、綻ばせる。人を笑顔にしてくれるこのような少女を、遊女として買った、ここの近江屋の楼主が鬼畜に思える。最も、妓楼の主人のことを≪亡八ぼうはち≫という。仁、義、礼、智、信、忠、孝、悌の八つの徳行を失った者という意味だ。


「ここが好きか?」

 思わず、そんなことを尋ねていた。


 その少女はきょとんとした顔をしたが、すぐに破顔する。

「あい」

 その表情には嘘はなかった。

 思わず龍之介は、なぜ?という言葉が出そうになった。


「そうか。それはよかった」

 笑ってみせるとその禿もあどけない顔をして笑った。


 人の感じる幸せに、それは違うとは誰にも言えないのだと気づいた。その少女が貧困で、親に放り出された身の上だったのかもしれない。毎日を飢えて、寒さに震えていたのかもしれなかった。親にも優しくされることもなく、そのままだったら、野垂れ死にしていたかもしれない。或は虐待されていたかもしれなかった。

 そんな少女にとっては、屋根のあるところで雨風をしのぎ、毎日おまんまが食える、きれいな着物を着せてくれる。ここでの生活はそんな所よりより、ずっといいのかもしれなかった。

 珠緒は、そんな龍之介を見ていた。


 やがて、引き上げる時がきた。

 珠緒からはなにも受け取ってはいなかった。だめだったのか。なにも手掛かりがなかったのだろう。しかたがなかった。

 龍之介たちは、珠緒に会釈をした。もうたぶん、会わないだろう。掛ける言葉が見つからなかった。


 龍之介たちは、そのまま階下へ降りた。預けていた刀を受け取り、草履を履いていると、先ほど龍之介に笑いかけたあの禿が走ってきた。なにか忘れ物をしたのかと思った。

 禿は、龍之介を見つけると破顔した。かわいらしい笑顔だ。

「これを珠緒姐さんから、預かりました。この間、いただいたお花代の御礼状でございます」

 差し出された紫色の袱紗は、確かに先日龍之介が珠緒に渡したものだった。それを返してくれるという。

 中に文が入っていた。珠緒からの返事だった。そう、これをもらいに来たのだ。


「そうか、かたじけない。珠緒には達者でと伝えてくれぬか。そしてそなたもな」

 そういうとその禿は元気な返事をした。

「あい」

 そして二階へ駆けあがって行った。


 龍之介は何事もなかったように、再び草履を履く。そして小次郎と弥助と共に近江屋を出た。

「そこの茶屋で休みましょうか」

 小次郎が真っ直ぐに前を向いて、無感情のように言う。その文を読むためだ。

「うむ」

 弥助がはっとして龍之介を見た。


「とりあえず、このまま吉原を出ることにする。外の茶屋で文を読もう。ここでは人目があるかもしれぬ」

「はっ」


 すぐに吉原の大門を出た。そしてすぐ近くの茶屋へ入る。早速、文を取り出した。


 珠緒からの文だった。

 そこには、達筆で、再会の驚きと弥助の身請けなどという心づかいに感謝すると、お礼を綴っていた。

 そして、弥助の金のこと。


 珠緒の妓楼では、金回りが良くなった者や不審な行動をとる者、取った者の心当たりはないということだ。弥助の金が奪われたその日のうちに、番所からの調べを受けていた。妓楼のほとんどの者が呼ばれていた。しかし、弥助は二階には上がらず、お内所だけしか入っていなかった。ほとんどの遊女たちが弥助の存在を全く知らなかったと首を振った。

 当初、珠緒はかなり疑われたらしい。けれど、そのすぐ後に珠緒は客を取っていた。人の金を盗ろうと企む余裕さえなかったのだ。


 一応、そこには弥助が妓楼に来ていた当時、見世にいた者の名前が書かれていた。そして、その行動もできるだけ事細かに書かれていた。驚くことに、そこには楼主の名と印までがされていた。

 近江屋には、人様の金に手を出すような者はいない、疑うのなら、これを考慮にいれて、きちんと調べてくださいという証明のようなものだった。これと同じものを番屋に届けてあるとのことだった。


 見世の信用にかかわるからだ。妓楼としたら、使用人の中にお縄になるような者は出したくはない。人を信用し、信用されて、客は通ってくれているのだ。

 それに弥助が持っていた金は、遊女を身請けしようとしたもの。それを聞いた遊女たちは、怒りを露わにした。

 珠緒からの文はまだ続いていた。たぶん、途中までを書き、後の半分を数日後に書いたのだろう。墨の色もその筆の流れも違うという印象を受けた。

 その文の半分はまだ、雪江には言わないでいた。

 龍之介は吉原を出たその足で、桐野の上屋敷へ行った。

 それは夕べのことだった。

**********

「そうか、じゃあ、まだわからないんだ。犯人」

 そこまで話して、雪江の問いに我に返る。

「そうだ。なかなか一筋縄では行かぬ」


「こっちの警察って、ちゃんと調べてるのかな? 一人一人のアリバイを聞くとかさ」

 再び、雪江の未来言葉が始まった。しかし、大体の見当はつくから、適当に返事をしておく。

「こちらの十手持ちも捨てたものではないと思うぞ」

 一応、かばっておく。


「弥助さん、どうするの? もうあきらめて帰っちゃうの?」

「ん、もう少しここにいるそうだ。刀研ぎの仕事はいくらでもある。ここにとどまっている間、稼げるだけ稼いで帰ればよいとわしは言った」


 ふう~んと伸びきった返事が返ってきた。もう雪江は眠くなったのだろう。

「もう灯りを消そう」

 そう言って、部屋の端にある行灯を消す。


 雪江が、暗闇の中で龍之介の手を取る。

「ねえ、そのお葉さんって人、久しぶりに会ってどうだったの? きれいだった?」

「ん? ああ、まあ。そうだな。きれいだったかもしれぬ」


 暗くてよかったかもしれない。かなり返事に困る質問だったからだ。お葉は美しくなっていた。しかし、それをあからさまに言い、褒めてはまた雪江の機嫌を損ねてしまうかもしれない。


「惚れ直した?」

 雪江の問いに、心を揺さぶられる。

「え、いや、そのようなことはない」


「会って、ドキってしたんじゃないの?」

 次から次へと向けられる問いかけに、きちんと用心して答えないと大変なことになりそうだ。

「美しくなったと思っただけだ」


「本当に、本当にそれだけかな」

 しつこい。

「本当だ」


「どうしてお葉さんを好きになったの?」

 雪江が質問攻めにしていた。

「あ、あの時はな、わしもまだ子供で、お葉には親切にしてもらった。それで心を通わせるようになった、それだけのこと」

「へえ」


「十三歳で、初体験って早くない?」

「そ、そのようなこと、他の者たちと比べたことなどないから知らぬ」


「でさ、もし、お葉さんが普通に暮らしていて龍之介さんと再会したとしたら、お嫁さんにもらってた?」

「いや、そのようなことはないであろう」


「でも、一度、関係を持ったわけだし」

「そうだが」


「身分が違っても側室になれるわけでしょ」

 雪江の質問攻めは続く。キリがない。これも悋気の内に入るのだと気づいた。きっと雪江の中で、消しても消してもぬぐいきれない心の内なのだろう。


「たとえ、お葉が雪江よりもきれいで、遊女ではなかったとしても、今はここにいる、夫を困らせてやろうなどと考えている妻女の方が好きだし、大切に思う」

 そういうと雪江はしばらく黙っていた。


 ごそごそと動いてきて、雪江が龍之介の腕の中に入り込んできた。

「それが本当ならすっごくうれしい。だから、もう質問はやめてあげる」

「そうか、かたじけない。いずれも誠のこと。それほどありがたいことはない」

 こうして体を寄せ合って眠るということは久しぶりだった。なによりも心が落ち着き、誰かを守るということが嬉しく感じたのだった。


女衒という人があちこちの村をまわり、娘たちの買い付けをしていたらしいです。その話が、「親のいうことをきかないとおじさんに連れていってもらう」とか「人さらいに連れていかれる」などという話だと気づきました。

それは、ただの子供を嚇す言葉で、意味はないのかと思っていましたが、こんなところで、この女衒に、いらない子供を売るということだったのですね。


吉原は、昭和33年3月31日まで続いていたそうです。


この吉原の話を書く上で、いろいろな資料を集め、読みました。ドラマなどでは吉原の太夫、花魁などは美しく、粋で華々しい女性の世界のように表現されています。けれど、本当はひどく悲惨で、悲しい所だったと思います。

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