龍之介 打ち明け話1
龍之介は、最初から話すつもりだった。
「雪江が「あかり」の離れに行ってからというもの、屋敷が静まり返って、寂しい夜を過ごしていた。それで、小次郎のところへ行った。弥助もいたから」
「うん、聞いてる。お絹に負担をかけるからって、薫ちゃんがお酒の用意をして持っていったって」
「うむ、世話になった。弥助が江戸に来て数日がたっていた。その訳も聞いてはいなかったし、いつ甲斐大泉へ戻るのかもわからなかったから。だが、弥助の事情は、弥助だけのことではなく、込み入ったことだったのだ」
********小次郎の屋敷での三人の会話・回想**********
そのことを知ったのは、最初の晩だった。弥助がお葉のことを話し始めた。龍之介も、その忘れようとしても忘れられない女人のことを思い出していた。そして、さらに今、どうしているかを知りたいと思った。 あれから数年がたっていた。まだ、龍之介の目には、あの頃のお葉の笑顔が焼き付いていた。
あのお葉が・・・・・・、あの屈託のない顔で笑うお葉が、今は吉原の花魁になっていた。龍之介の初めての女人が、今は見知らぬ男たちにあの肌を許しているというのだ。できれば、誰かのお内儀になっていてほしかったと思う。
龍之介がしんみりとし、冷えてしまった酒を飲んだ。
さらに弥助は言った。
「今回、あっしが江戸に出てきた訳は、お葉の身請けをするためでした」
龍之介が弥助を見た。
「身請け・・・・・・。弥助、女房殿はそのことを知っているのかっ」
龍之介はそう叫んでいた。
嫁がいる身で、吉原の花魁を身請けできるのは、よほど大きな商家か、大名のような身分の者しか聞いたことがない。一介のまだ若い職人が、別の所へ花魁を囲うほどの財力があるのか。
弥助は、龍之介が思っていたことを悟ったらしい。
「はい、あっしはまだ、修行の身、とてもお葉を囲うほどの余裕はございません。けれど、このままでしたら、あまりにもお葉が哀れでならないのです。何とかして、お葉をあの吉原から、自由の身にしてやりたかったんで……」
「なぜ、そこまでするのだ」
そう、確か、弥助とお葉は幼馴染みでしかないはず。弥助は少年の時からあの村を出て、師匠のところへ弟子入りをしていた。村での知り合いとだけしか思っていなかった。
「実を申しますと、あっしは、幼いころからずっとお葉のことが好きでした。大きくなったら、嫁にもらいたいと考えておりました。けど、修行のためにあの村を出てしまい、その思いを告げることのないままになっておりました。そして、師匠に勧められるままに、嫁をもらっていました。お葉は大切な妹のような存在なのです。不憫な妹を何とかしてやりたいという思い、それだけでございます」
「弥助・・・・」
龍之介の中には複雑な思いがあった。その当時、龍之介もお葉が好きで、会いたさにずっと通い詰めていたからだ。そのことは村中の人々が知っているほどに。
あの当時、そのことを知っていたら、龍之介も弥助のことを意識して、勝手な嫉妬をしていたかもしれない。しかし、もう昔のことだった。
弥助は、はにかむようにして龍之介を見る。
「ああ、存じております。龍之介様とお葉のことは。いまさら、こんなことを言うつもりはありませんでした。お許しください」
弥助はそのまま続ける。
「お葉には、もっといい人が現れると思ったし、きっと江戸で、おっ母さんと幸せに暮らしているんだとばかり思っておりました。自分が満ち足りた生活をしていると、きっと他人もそうだろうと勝手に想像するもんですね」
三人が押し黙った。
それぞれが、自分の過去を振り返っていた。
龍之介も、自分のことを調べるために、江戸へ出てきていた。それから、雪江と知り合い、連れ添うことになった。それに比べて、吉原という籠に閉じ込められ、身を削って借金を返しているお葉。運命の悪戯というには、あまりにも過酷すぎていた。
「あっしはそれから一度、吉原へお葉に会いに行きました。座敷には上がらずで、そんな金はありませんでしたから」
弥助がそんな自分を笑った。
「そっと、その妓楼の前で待っていました。待ち伏せして・・・・。お葉はつらいはずなのに、にこりと笑いかけてきたのです。その生活はそれほど不幸ではないと言いました。吉原にいれば、とりあえず生きていかれる。借金取りにおびえずに、お天道様を拝むことができると言ったのです」
そんなに貧しく、つらい経験をしたのだと悟った。それは龍之介の胸をも締めつける。
「その時、楼主に会わせてもらいました。いくらあれば、お葉を身請けできるのか、それだけを聞きたくて。それから、一生懸命に金を貯めました。一日も早く、お葉を吉原から解放してやりたかったんです。寝る間も惜しんで、仕事に打ち込んだのです。自分のところへ囲う気なんてありませんでした。身請けをして自由にしてやりたかった、ただそれだけです」
その当時の弥助の必死さが伝わってきていた。
「でも、そんなあっしを見ていて、誰もがおかしいと気づいたんでしょうね。師匠には、そんな金儲けのための刀研ぎではいい仕事はできないと制され、しばらく、仕事らしい仕事を任せてもらえませんでした。嫁も疑問の目をぶつけてきました。それで嫁にはすべて、胸の内を打ち明けました。怒鳴られ、泣かれました。けど、別れるとは言いませんでした。あっしはそう言われても仕方がないと覚悟を決めておりましたが・・・・・・」
女房も複雑なのだろう。夫が他の女のために、一生分の借金をなんとかして払いたいというのだ。それだけ弥助にとってはお葉は、大切な存在だったということになる。
「身請けならば、それには百両以上の金がいるのであろう」
その花魁の借金と、将来の可能性までを計算に入れて、金額が出されると聞いた。
「はい。かなりの大金が必要でした。女房には毎日泣かれました。けれど、ある日、ポンと八十両もの金をくれました。女房が実家に行って、何も聞かずに貸してくれと、手を突いて頼んでくれたそうです」
「女房殿が許したということか」
「さあ、・・・・・・。それはわかりません。ずっと口をきいてくれませんから。ただ、助けてやってと紙に書かれていました。あっしのことは許せなくても同じ女として、お葉の身を憐れんでくれたのでしょう」
もしも、お葉が幼馴染でなく、血のつながった妹や従妹のような存在だったら、妻ももう少し気が楽だったかもしれないと想像していた。
「嫁がそこまで・・・・」
「はい、あっしには出来過ぎた嫁でございます。足りない分は、訳を話して、師匠に頼みました。もうこうなったら、恥も外聞もございません」
弥助は、自分の力のなさを恥じらうように力なく笑った。
「それで、どうなった。お葉には会えたのか。身請けは・・・・」
そこが気になるところだ。しかし、うまくはいかなかったことは、これまでの弥助の様子から見当はついていた。
吉原というその場所は有名だ。
明暦三年(1657年)に人形町から吉原の地へ移り、昭和三十三年(1957年)の四月一日、買春防止法で禁止されるまで、三百年続いた歴史がある。
寛保(1741年~44年)までは、太夫と呼ばれていた高級遊女がいたが、大勢の中の三人から十人ほどしかいない。選りすぐれた存在。
宝暦(1751~64年)を境に変わり、高級遊女のことを呼出、昼三、付けまわし、そのランクの遊女たちのことを花魁と呼んだ。
今、雪江がいる時代、安永(1772~81年)の頃には、花魁で定着し始めていたそうだ。
特に「呼出」は三千人の遊女の中で、四、五人ほど、選りすぐれた存在。一晩遊んで十五両ほどかかったらしい。それには周囲への気配り、裏祝儀や床花代、料理、花魁への小遣いなども含まれている。
「あいつら、あっしの足元を見やがって、二年前に聞いた身請けの金額を急に吊り上げたんです。初めは百三十両と言ってました。けど、今回は百八十両だと」
「百八十、そんなに」
よほど悔しかったのだろう。それほど感情を顔に出す男ではないが、歪んだ表情を見せていた。
「二年前は、それだけあれば、身請けできると言っていたんです。当時は付けまわしでした。もう二年くらいは、お葉もそのままでいると、考えられていたのでしょう。それにその間にお葉自身も、借金を返しているのです。だから、それを信じていたんです。けど、今は昼三になっていました。それに物価があがり、衣装代の借り金や、細かい金のことがたくさんたまっていて、その金額でないと身請けはさせないと言われました。それに楼主への御礼金などは含まれてはいないから、二百両くらいまとめて払えないと、と笑っておりました」
花魁ほどになると、妓楼の名に恥ずかしくないほどに華々しく出ていかなくてはいけないのだろう。
「その楼主も、そのお内儀まで、あっしのことをせせら笑っていました。なにしろ、普通なら花魁を身請けする場合、何度も通い詰めて、常連になり、十分に大金を振る舞ってから、身請けの金を出すのです。あっしのように座敷にも上がらず、いきなり身請けをしたいという者に頭を下げる気も起こらず、鼻で笑うしかないと呆れかえっていました」
散々な扱いを受けたらしい。
「あっしは追い出されるようにして、廓を出ました。吉原の町を茫然として歩いておりました。あの時のあっしは、これからどうすればいいのかわからず、ぶらぶらと歩いていたのです。あれほど必死になって、金をかき集めたのに。嫁を泣かしてまでです。どのツラ下げて、帰ればいいのかわかりませんでした。もう、お葉を助け出す機会はないと途方に暮れておりました。そんな時でした。急に現れた男に捕まれて、懐に入っていた有り金、全部盗られたのです」
それを聞いて、思わず握りこぶしに力が入る。
龍之介にはなんといって慰めればいいのかわからない。そこまでして貯めた金を全部盗られたという。弥助の無念が伝わってきていた。
「すぐ、その足で吉原の番屋には届けました。一応、探してみるから、しばらく江戸に留まるように言われたのです」
「そうか、それで小次郎の所へ身を寄せたというわけなのだな」
「はい、おこがましいとは思いましたが、あっしには正和様と小次郎様しか頼るお方はございませんでした」
弥助はそこまで言うと、がっくりと肩を落とした。
「けど、あっしはもうあきらめております。あの吉原で、百両や二百両の金を使うのに、そう難しいことはありません。たとえ、その下手人が捕まったとしても、盗られた金は殆ど戻らないだろうと思っています」
龍之介も口には出さないが、そう思っていた。吉原に繰り出す男たちは、一応、それなりの金を持って出かけていた。二、三日豪遊すれば、あっという間に小判が飛ぶ。身分を隠して吉原にやってくる人もいる。普通の人のようにしている人でも大金を持っている可能性は高いのだ。
ぼうっとして歩いていた弥助を襲い、金を巻き上げようとする盗人がいたとしてもおかしくはない。その夜、ぱあっと派手に遊んで、翌日、吉原を出てしまえば、その足取りを追うことは難しい。
「その時、お葉と会ったのか。元気だったか」
少しでもその重苦しい場を変えようとした。
「はい、楼主との話し合いで、お葉も呼び出されました。けど、まさかあっしが身請けのためにと思っていなかったようです。そんな大金を持って、本当にくるなどと。でも、金が足りないとわかったあとはもう、惨めで、まともに顔がみられませんでした」
それが、弥助が江戸に来てからの経緯だった。懐かしい顔に会い、楽しい話に花がさくことにはならなかった。
その夜遅く、気鬱になった龍之介が、自分の居室に戻った。
お葉のこと、そして弥助の必死の心。大金を奪われたこと、それらがずっと頭の中を巡り、なかなか寝付けなかった。
弥助をなんとかしてやりたい、そしてお葉のことも。しかし、いくら大名家の跡取りという身分でも、自分の一存で自由になる大金は持ち合わせていなかった。桐野の金は、甲斐大泉の領民のための金。公に言えぬようなことに使うことは許されないのだ。




