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明知と安寿の所へ行く3

 龍之介は加藤家の奥向きへ案内される。雪江は、奥向きの安寿の居室に寝ていた。本来なら、他家の武士など絶対に入れないところだが、緊急時であると同時に、龍之介が明知とそっくりだったので、すんなりと受け入れられていた。


 龍之介が入っていくと、雪江の布団の傍らにいた安寿と久美子が顔をあげる。二人は不安そうにして、こっちを見た。そこには、いつもの笑顔あふれる雪江ではなく、しおれた花のような、はかなげな雪江が横たわっていた。


「雪江っ」

 龍之介がよほど切羽詰った声をだしていたのだろう。目を閉じていた雪江自身もパッと目を開けて、驚いた顔をしていた。


「大事には至りません。お疲れになったのでしょう。夕べはあまり眠れずにいたとのこと。それに最近では、お腹の子供の成長が著しく、母体もそれだけ負担がかかります。もう少しこちらでお休みさせていただければ、大丈夫だと存じます」

 久美子の説明に、雪江も安心した顔を見せる。龍之介が枕元にすわった。


「では、わたくし共は隣におりますので、失礼いたします」

 皆が部屋から出て行った。気をきかせてくれたのだとわかった。

 龍之介は、雪江の手を取る。

「苦しくなったのか。それとも腹が痛かったのか」

 そう問うと、雪江が慌てて首を振った。


「あ、ほんの少し座っていることが窮屈で、息苦しくなりました。それほど騒ぎ立てるようなことではございません」


 少しほっとしていた。だが、まだ雪江の仮面ははがれてはいない。

「久美子先生が、次の戌の日に腹帯をとのことです」

「腹帯、もう、そのような時期なのか」

「はい」


「わかった。神社で帯祝いをしてもらおう。そうか」

 身ごもったと言われても、今までそれほど実感はなかった。外見からは、雪江の腹はそれほど変わってはいなかった。しかし、腹帯をつけると、それらしく見えることだろう。

 父親になるということは、母親と比べてその生活に変わりはないし、実感がわかない。そうした妻の変化から、やっと徐々にそう実感する。

 それでも子の成長に合わせて、龍之介もなにかしてやりたいと思う。改めて思ったことは、雪江が着実に母になっているということだ。


 そこに横たわる雪江は、再び目を閉じていた。口では大事ないと言っていたが、やはり、体がつらいのだろう。雪江の、このような切なそうな様子は、利久の死以来だった。

 あの時も心配していた。このまま雪江がどうにかなってしまうのではないかと怖かった。

 そんな龍之介の不安を感じ取ったのか、雪江がまた、かしこまった口調で言った。


「正和様、本当に申し訳ございません。他の家への訪問中にこのようなことを」

 二人だけの時は、まだ龍之介と呼んでいたのに、なぜ。

 雪江との間に、距離があることを実感していた。明知の言うように、これが二人の距離だと気づいた。雪江を失わないように、その距離をもうこれ以上、広げないために、龍之介は必死になっていた。


「よい。そのようなことは心配しなくてもよい。雪江とやや子が何よりも大事。あとで明知殿と安寿殿には、いくらでも詫びを入れる」

 そういうと、些か大げさすぎたのか、雪江がかすかに笑った。


 龍之介は、そんな雪江が愛おしくて、体の熱がぐっと上がった気がした。寝ている雪江に覆いかぶさる。そして、その、歯を食いしばるような、一文字に閉じている頑なな唇に、そっと口づけをした。雪江は、龍之介がそんなことをするとは思ってもみなかったらしく、意外そうな目を向けている。


「雪江、これだけは先に言っておく。この正和の一番は、ここにいる雪江だ。」

 そういうと雪江の目が大きく見開かれ、そしてふっと緩む。

「なにかが気になっているのであろう。すべてを話そう。たとえどんなに叱られてもかまわぬ」


 それまでは別人だったような、なにかを諦めていたような雪江の目に、光が入り、悪戯っぽい表情が現れた。

「ねえ、今、私にどんなに叱られても、って言ったよね。本当ね。それって、私が叱ってもいいっていう意味? なんでも話してくれるのね」

 ぎょっとする。

 そこに寝ていたのは別人ではなかったかというほどに、雪江の人格が変わったようだ。雪江のいつもの強い光が目に戻っていた。


「あ、まあ、そう言ったかもしれぬが、・・・・お手柔らかに、頼む」

 そう言って、雪江の手を握った。温かな雪江の手も握り返してきた。



「まず、何から聞きたい。わしの話は長い。それほど簡単にいかぬ話だからな」

「あ・・・・そうなんだ。じゃあ」

 雪江はじっと考えている様子。

「じゃ、これだけは先に聞いておきたい。花魁を買ったの?」


 雪江の、その真実を知りたいという目線と、それに対して真実を語らねばという龍之介の目が絡み合う。

「買ったというその意味は、この手で花魁を抱いたのかという意味であろう。それなら否だ」

 目をそらすことなく、はっきりとそう言った。


 雪江の表情が穏やかになり、笑みがこぼれる。

「よかったぁ。そう信じていたけど、吉原へ行ったって聞いて、普通、それイコール、アレじゃない? だから、ずっといろいろ考えてたの。サイアクなこととかさ、ずっと。そしたらもう疲れちゃって、いつもの私、やってらんないって思って、それなら心を隠すには、武家の奥方になり切ろうって思ったの。でも窮屈でこっちも大変だった。言葉遣いがね」


 よほど無理していたのだろう。いつもの雪江らしい言葉が連発されていた。

「そうか、あの仮面をかぶった奥方の姿もなかなかのものであったぞ。雪江もやればできるのだと感心していた」

 雪江が、あはは、とはじけるように笑う。


「だって、龍之介さんたち、吉原へ二回も行ったって聞いたから、絶対にお気に入りの花魁がいるって思った。その花魁とって考え始めたら、もうどうしょうもなくて苦しかった。浮気というより、私よりもその花魁のことが好きになっちゃったのかって、それが怖かった」


「二回、行ったことがもう知られていたか」

 ごく、内密に行動したつもりだったが、隠し通すことはできなかったらしい。しかし、そこにはやましいことがないからいいが、もし、なにかあった場合は大変なことになっていた。冷や汗ものだ。


「お絹ちゃんちでばれたの。あの家、けっこう鋭い使用人がいる」

「そうか」

 小次郎の額のこぶはまさしくその代償であった。小次郎も無実だが、そう弁解することもせず、理由も言えないでいた。龍之介のお供でついて行った、何もやましいことはないといえばいいものを黙っていたのだろう。


 まず、どうして吉原へ足をむけることになったのか、そのあたりから話を始めることにした。


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