明知と安寿の所へ行く2
龍之介は、その座敷に明知と二人、残っていた。知らず知らずのうちに、あの雪江には驚かされ、かなり気が張りつめていたようだ。悪いが、今やっと気が緩む。
まず、明知が言った。
「どうなされましたか。お二人とも」
そう、それは当然、龍之介と雪江の関係のことだ。やはり、明知も雪江の異常な様子に勘づいていたのだ。
明知は、龍之介たちの屋敷にいた時よりも、ずいぶんとたくましくなったようだ。真っ白に近かった顔が、初夏の日差しを浴びて、かなり焼けている。少しづつ、朝晩に剣術の稽古もしているとのことだ。もう体調を尋ねることも、何かおかしいほどに健康になっていた。すぐに熱を出していた人には見えない。
その、お互い、ますます似てきた顔をみた。
「おわかりか」
そういうと、明知はニンマリと笑う。
「それは当然のことでしょう。ほんの少し前までは毎日、お側でお二人の様子を見てまいりました。今日のお二人は、なぜか距離がございます。それもものすごい距離が」
やはりと思った。
「雪江はわしのことを怒っている。だから、今日はあのように、当てつけのように振る舞っているのだろう」
そう言っていた。
やはり、明知には気を許してしまう。こんなことを話せる人は、明知以外にいない。さらにすべてを説明しなくてもわかってくれるのだ。
「最近、吉原へ行った。それがばれたらしい。誤解をされているのだ」
「ほう・・・・・・。正和様が吉原へ」
意外なことだったらしい。穏やかな明知の目がわずかに見開かれた。
「しかし、世間での吉原行きとは違うのだ。これには少々事情があってのこと」
「その、世間でのというのは、いわゆる花魁買いのことですか。ということは、正和様は吉原へ行ったが、そういうことではなく、別の訳があり、吉原を訪れたと申されますか」
「そう、そうだ」
さすが、明知。
「では、なぜ、そのことをまず雪江様にお話ししなかったのでしょう。最初からきちんと話していれば、誤解を招くようなことは決してなかったはず」
「ん、きちんと話そうと思った。けれど、すべて解決してからでも遅くはないと思っていた。もし雪江が普段通りに奥向きにいたのなら、その事情と吉原へ行くことを話していたと思うが、このところ、雪江は体調を整えるため、別の所にいたのだ。それをわざわざ訪ねて行き、まだ、途中の、この先どうなるかわからないことを話すよりも、すべて解決してからの方がいいと思った。それで内緒で行ったのだ」
相変わらず、明知は穏やかな笑みを浮かべている。
「そうですか。その気持ちもわかります。やましいことがないにしろ、穏やかでいるところをわざわざ余計なことを言って、いたずらに事を波立たせる必要もございませんから」
「小次郎の妻は、黙って吉原へ行くのは、やましい心があるからだと言ったそうだ。それは今の妻に満足していないからなのかとなじられたらしい」
再び小次郎の額に傷が思い出される。
「まあ、妻の立場からすれば、吉原というところはおもしろくないところでしょうな。あからさまに他の女人に目を向けられたようなもの、傷つけられたように思えることでしょう」
「雪江も同じように思い、怒っているに違いない。だから、あのような、いつもと違う態度で、わしを威嚇しているつもりなのであろう」
ふぅんと明知が意外そうな声をだした。
「そうでしょうか」
目の前にある同じ顔を見る。
「違うと申されるか」
それは意外だった。
「拙者には、雪江様が怒っておられるようには見えませんでした」
「怒ってはいない?」
「はい、あの雪江様の表情、そして口調から察するには、怒りとは別のものを秘めている気がいたしますが」
「怒りとは別のもの・・・・」
それはなんだろう。龍之介にはまだ明知の言う言葉の意味がわからない。それは悋気ではないのか。
「雪江様は、率直で正直なお方でございます。いつも自分を誤魔化すことのできないお方。そんな雪江様が、もし怒っているとしたら、その怒りをあれだけ見事に心の中に閉じ込めておけるものでしょうか」
そう言われると確かにそうだ。今までの雪江は怒っているなら、燃えるような目で矢継ぎ早に皮肉を言ってくる。今日の雪江は始終穏やかだ。穏やか過ぎて居心地が悪かったのだ。
「拙者には怒りよりも、何かを覚悟して、耐えているような、そんな健気な目をしているように見えました」
雪江が、怒っているのではなく、耐えていると。それは一体どうしてなのだろうか。雪江が何に対して耐えなければならないのだろう。龍之介にはそれがわからない。
「あの目は、以前にごく身近で見たことがございますから」
「ごく身近と・・・・」
明知は何かを思い出していた。少し遠い目になる。懐かしいが、思い出したくない心の痛みを受けるような表情だ。
「あれは、側室を受け入れたあの時の安寿の目、そっくりでございます」
「な、なんと」
そう言えば二人はしばらくの間、側室のことでこじれていた時期があった。
「頭の中では武家の奥方として、側室を受け入れる物わかりの良い自分を演じているのでしょう。しかし、その心の中は嫌だと拒否をしている。まったく逆のことを感じているのに、表面だけは自分の本心を閉じ込めようとしていたあの時の安寿のようでございました」
「そのようなことを雪江が・・・・」
しようとしているのか。
「おなごは健気でございますな。他愛のないことはどんどん口にだし、時には甘え、諍いも致します。けれど、本心から夫のことを思い、たとえ、自分の不利になること、喜ばしくない事でも一度受け入れようと決心されたら、それをこなしてしまわれるのでございます」
そこまで吉原へ行ったことは、雪江を追い詰めていたのか。
「雪江様は、正和様が吉原へ行かれたこと、自分なりに理解しようとしているのです。すべてをお話しください。正直にすべてを。こじらせてしまわないように」
吉原へ行った理由、それを話すことはいい。しかし、その背景には雪江が怒りそうな事実もあった。お葉が、龍之介の最初のおなごだったから。それをなんとなく、後ろめたい気持ちでいたから、話せなかったのだ。しかし、ここまで雪江を追い詰めてしまっていてはもうどうしようもなかった。
「このままでは雪江様も心を病んでいってしまわれるかと」
龍之介は思い出していた。明知と安寿のこじれを。
「うむ、わかった。すべてを話すとしよう。たとえ怒られてもな」
「あの雪江様は、真摯な態度で打ち明けたら、どのような理由であろうと、それほど怒らないかと存じます。そういうお方とお見受けしております」
明知の方が、雪江のことをよく知っているような錯覚を覚えた。それだけきちんと人と係わり、人というものを見極めてきたのだろう。龍之介も見習うべきところだと感じた。
まず、この明知にすべてを話してみようと思い立った。それにより、雪江にどう話したらいいか、助言もしてもらえるかもしれない。
「聞いて下され。実は・・・・」
そう言いかけた。
その時、誰かが廊下を慌てて走ってくる音がした。バタバタとなにかが起こったらしい。それを報告に来ていた。
明知のそう察して、厳しい表情になり、座り直した。
「恐れながら申し上げます」
障子の向こう、廊下で奥女中の一人の声がした。
「何事か、入れ」
そういうと、すぐに障子が開かれた。
「先程、奥向きにて雪江様が・・・・」
「なにっ、雪江がっ、どうした」
龍之介が膝立ちになる。
「大事はございませんが、ご気分がすぐれないと申されまして、ただ今、安寿様のお部屋でお休みになられておられます。付き添われているお医者様が正和様にご報告だけでもと申されましたので」
「誠に大事、ないのだな」
「はい、もう落ち着かれまして、お知らせだけをと参りました」
「それなら我ら、奥向きへ参る。そう伝えよ」
「はっ」
奥女中が再び廊下に出ていく。
久美子がそばについている。その久美子がもう大丈夫だからと言ったのなら、本当に大丈夫なのだろう。しかし、それでも気が逸る。
龍之介は明知と目を合わせていた。お互いをじっと見る。
雪江は大事な奥方だ。それだけでなく、今は自分の血を受け継いでいる子を身ごもっている。もう龍之介の中には見栄や、恥などなかった。雪江とその子が無事であれば、たとえ雪江に過去のことを罵倒されてもいいとさえ、思った。
明知はそう考えている龍之介の心を読んだように、こっくりとうなづいた。そして、それでこそ我が分身と褒めてくれたような心が伝わってきた。
すぐに先程の奥女中が戻ってきた。
今度は落ち着いた物腰で、平常を保っている。そのことからも雪江の容態は落ち着いているのだと確信できた。
「雪江様は横になられておりますが、ぜひ、お会いするとのことにございます」
「すぐに参る」
そういうが早いか、龍之介は立ち上がっていた。
「拙者も参りますが、まずはお二人でお会いになるのがよろしいかと存じます」
龍之介は明知の言葉に感謝する。それは願ってもないことだった。これですべてを話せると思った。