雪江も悩むんです2
しばらくの間、お絹は雪江の所にいたが、実家に預けている百が心配だからと、昼過ぎに帰っていった。
お絹が、感情的になり、すべてを雪江に話してしまったことを気にしていたから、口では、今回の吉原行きを許すつもりでいると言った。お絹はほっとした表情になった。
「なんだかんだ言ってもさあ、雪江も龍之介さんのことが好きだから、許しちゃうんだろうね。私もそうだよ。数日もしたら、きっと許せる」
お絹もそう言っていた。
お初だけが残り、そばにいる。
お初には、簡単にお絹から聞いたことを話した。彼女には一応知っていてもらいたかった。それで雪江がふさぎ込んでいるとわかっていた方がいい。
お初も息を飲んでいた。誰もが龍之介のことを、身持ちの固い人だと思っていたから。
雪江は、夕食も摂らず、横になっていた。もう腹は張ってはいないが、これ以上何もしたくなかった。龍之介のことを聞いた途端、心が乱れ、痛いほどの張りを経験していた。子がどうにかなってしまうかもしれないと思った。ものすごく怖かった。
雪江は今まで単純に、すぐに怒っていたことが、あまりよくないことだと思い知った。猛烈なストレスを感じた時、知らず知らずに全身に力が入っていたのかもしれない。怒ることで、お腹の子を失ってしまうのではないかと思った。しかし、怒りは抑えても心の中のわだかまりは消えない。
本当に龍之介を心から許せるのか、それはまだわからない。いつだって雪江は心を全開にして、何も隠すことなく接していた。悩みも疑問もどんどん投げかけて、二人で解決してきていた。
けれど、今回は内緒で吉原へ行った。妻への裏切りだ。そんなことが本当に許せるのか。もちろん、表向きは理解のある妻の顔ができる。けれど二人の間には見えない溝があり、それは決してなくならない。放っておけば、どんどん溝は深くなる、そんな気がした。
そんなことをずっと考えていた。暗闇の布団の中で眠れずにいた。何度も寝がえりをする。ふと、雪江は再び、自分が涙を流していることに気づいた。今までいろいろなことがあったが、気づかずに泣いていたことなどなかった。それほど深い心の傷を負っていた。
ポッコリとしてきた腹に手をあてた。また張ったら困る。
ごめんね、赤ちゃんと唱えるように繰り返していた。
この問題は大きい。雪江は、思い出していた。あの龍之介がどんなふうに雪江を抱き寄せてくるか、どんなふうにキスをするのか、肌に触れるのか。
その龍之介の手が、他の女性に触れると思うと許せなかった。それはもう雪江の知っている龍之介ではない。悲しかった。
そんな雪江の様子を察し、お初が雪江の寝所に入ってきた。
「ゆきえさま・・・・・・」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
そう言うのが精いっぱいだ。お初が来てくれて、少し安心したのかもしれない。どっと涙が出てきた。涙を隠そうと横を向く。
お初は雪江の布団の脇に座り、その背を優しく擦ってくれた。
「雪江様、お初がこうして側におります。なにも考えずにおやすみください」
ゆっくりと背中を撫でられることがこんなに気持ちのいいことなのかと思った。その手に神経を集中させていると不思議にさっきまでいろいろと考えて自分でがんじがらめにしていたのが嘘のようだ。
「わたくしも昔、悲しいことがあった時、布団の中で泣いていたことがございます。明るい昼は平気でも、夜、一人になるとすべてが頭の中に入り込んできて不安になるのです」
それはよくわかる。
「闇という物は、気をまぎらすことをさせてはくれません。だから、一度暗闇の中で悲しみに囚われますと、なかなかそこから抜け出られなくなるのです」
「お初にもそんなことがあったの?」
お初はまだ二十三、四。雪江が桐野の家の娘とわかる少し前に、奉公に来ていた。
「はい、わたくしにも好きな人がおりました。けれど、あちらは妹の方が好きで、二人は一緒になったのです」
「えっ」
「あの時はもう、つらかったとしか、申せません。あんなに心が張り裂けそうな思いをしたのは初めてでございました」
「そう、そんなことがあったの」
「はい、あの二人の幸せそうな顔を見るのがつらく、さらに幸せになる二人を心から祝ってやれない自分が情けなくて、実家にはもう戻らない覚悟で参りました」
そんなこと、初めて聞いた。真面目な侍女だとしか思っていなかったが、そんな背景があったのだ。
「ですが、時が少しづつ頑なな心を癒してくれるのです。今はもうあの二人に会っても笑顔を向けられるかと思います」
「よかった。」
「このことを知っていたのはわたくしの祖母だけでした。夜、一人で泣いていた時、それを察した祖母がこうして背中をさすってくれたのです。不思議に心が落ち着いたことを覚えています」
人は優しくしてもらったことを他の人にすることで、自分の心を客観的に見ることができ、一歩踏み出すことができるのかもしれない。
「ありがとう、お初。なんか、少し落ち着いた。そして、いつもよくしてくれてどうもありがとう。本当にお初には感謝してる。ホントよ」
「いえ、わたくしの方こそ、このような至らぬわたくしをお側にと感謝しております。雪江様にお仕えして、本当にこんなに楽しいことはございませんでした。あ、いえ、決して変な意味ではございません」
くすっと笑った。
また気づかないうちにお腹に力が入っていたようだ。笑ったとたん、力が緩んだ。
「お初、もう少しこのまま側にいて。そして私が寝ちゃったら、お初も自分の布団に戻ってね」
「はい、かしこまりました」
雪江はそう言って眠りについた。それでもお初の暖かくて優しい手の動きは止ることはなかった。
翌朝、雪江が目覚めると、お初が赤い目をして座っていた。ギョッとする。まさか、あれからずっとここで雪江の背中をさすっていたのかと思う。
「お初、まさか、一晩中?」
「いえ、少し自分の床へ戻りました。今朝、雪江様が気になりまして、先程ここに座ったばかりでございます」
「本当? それにしては目が赤いわよ。今日、安寿姫の所へいくけど、久美子先生も一緒だから、お初はここで寝てる? そうしてもいいよ」
「いえ、とんでもないことにございます。わたくしは大丈夫でございます。今日はわたくしも一緒に参ります」
「そう? それならいいけどさ」
今朝は不思議なほど、気分がすっきりしていた。夕べなぜ、あんなに不安になったのか、自分でも首をひねってしまうほどだ。お初の言う通り、暗闇の成せる技だったのだろうか。泣きたいだけ、泣いたせいもあるだろう。夕べのこの世の終わりの気分が嘘のようだ。
「ねえ、お初」
「はい、なんでしょうか」
「お腹空いた。朝餉、まだ?」
何を言われるのかと緊張したお初が、破顔した。
「はい、いますぐにお持ちいたします」
夕べから何も食べていなかったから。
今から支度をして、龍之介が来るのを待つ。それから加藤家の上屋敷へ向かう。あちらに着くのは昼近くだろう。少しのんびりさせてもらい、二人だけの時に安寿に相談するつもりでいた。
安寿はもうすでに、雪江と同じような心の葛藤を経験している。側室と自分の距離、その存在を。別にこうした方がいいなどという意見を求めるわけでなく、雪江の心を黙って聞いてくれて、わかってくれればそれでいい。
久美子も一緒にきて、安寿と共に胎児の検診をしてくれる。さらに明知と龍之介に、母体の様子と父親はどうしたらいいのかという心構えのようなことを教えてくれるらしい。