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謎の大音響  龍之介

 突然合流したお絹を交えて、雪江の持って帰ってきた試食品「おむらいす」というものを食べた。

 初めそれを見た時は驚いた。薄く焼いた卵焼きのうえに、真っ赤な血のようなものがかかっていた。木で作ったすぷーんというもので崩すと、またまた赤いご飯が出てきた。キジの肉とネギの焼き飯に「けちゃっぷ」という赤いものが入っているそうだ。


「裕子さんってすごいのよ。ケチャップを自分で作っちゃうんだから」 

 雪江は裕子を崇拝している。それは日頃の態度や言葉からわかった。裕子の偉大さを自分のことのように自慢するのだ。


 このケチャップの原料を、雪江たちはトマトと呼んでいるが、本来なっら「唐柿」と言われるもので、寛文の頃(1673年)に日本へ入ってきたそうだ。青臭くて、完熟すると血を思わせるように赤くなるので、もっぱら鑑賞用とされていた。この時代は、血のような赤いものを食べることを敬遠していた。


 この甘酸っぱさがお絹も気に入ったようで、作り方を細かく聞いていた。

 お絹はどうやら、先ほどの大ゲンカから龍之介たちの雰囲気を読みとっていたようだ。つまり、二人きりの怪しい関係になるのを邪魔をしに来ている。


 お絹はせっせと龍之介の盃に酒の酌をしていて、もっぱら雪江と長屋の住人の噂話や最近の着物の流行の柄などの話題で盛り上がっていた。特別にここへ来て話すほどの話題ではない。


 それがわかっていて、龍之介もさっさと隣の長屋へ寝るために戻るのも男がスタると思い、いたずら心で酒に酔ったふりをして、寝ころんだ。

 女、二人はあせっている。揺り起こされたが、寝入った真似をした。


「仕方ないね。雪江、あんた、隣へ行って寝たら?」

「いやよ。もし、夜中にヒョイって小次郎さんが帰ってきたらどうすんのよ」


「小次郎さんは甲斐へ向かったんだろ? そう簡単に帰ってきやしないさ」

「もしかすると、忘れ物をしたかもしれないでしょ」

「あれ? 龍之介さんと一緒ならいいんだね?」

「え・・・・そういうことじゃないけど、ここがなんとなく、私の居場所だから・・・・」


 お絹はなにやらブツブツ言っていたが、やがて、

「じゃあ、私もここへ寝るよ。龍之介さんがここでごろ寝なら、私たちはそっちの四畳半でごろ寝でいいじゃないか」

と言った。

 龍之介は寝たふりをしながら、ため息をついていた。どうやら信用されていないようだ。

 二人は四畳半でかなり遅くまでしゃべっていた。そのうちに静かになり、龍之介もいつのまにか寝入っていた。


 深夜、辺りは寝静まっている。物音はしない。しかし、なにか異様な雰囲気を感じて目が覚めた。

 殺気ならわかる。それとは違っていた。たとえようのない気迫にどう動いていいのかわからないでいた。今まで見たことのない物の怪なのかもしれない。


 それは注意深く障子を開け、入ってきた。

 龍之介はそちらに背中を向けて寝ていた。刀はすぐそばに置いてある。振り向いてその存在を確かめたいが、動けないでいた。背中に全神経を集中させる。金縛りのように目玉だけが動くが、体は凍りついたままになっていた。


 ズルズルとそれは徘徊して近づいてきた。すぐ近くで動きが止まる。

 ゴクリと唾を飲み込んだ瞬間、それは動き、右耳に何かを押し込まれた。驚いて仰向けになると、もう片方も突っ込まれ、大音響が鳴り響いた。

「ウッ」

 叫び声を上げようとする口を塞がれる。

  

 暗闇に忍び込んでいるのは雪江のようだった。緊張は解ける。そして、耳に突っ込まれたものからは、聞いたことのない楽器から発せられる音楽がかかっていた。女性の透き通った声が、遠く離れた愛しい人を想う歌を歌っていた。

 その一曲が終わるとやっと起き上がることができた。

「雪江、夜中になにをしている」

 行燈に火をともす。雪江は小さな未来からの道具を持っていた。


「これ、大好きな歌なの。つい、懐かしくなっちゃって。お絹は寝ているし、一人で聞いてたけど急に龍之介さんにも聴いてもらいたくなって・・・」

「なぜ、先に声をかけぬ。なぜ、徘徊してきたのだ」

 雪江は少し考えて、

「なんとなく・・・・、起こさないように、見つからないようにかな?」


 雪江の言うことは矛盾しているが、龍之介が寝ていようがなにをしていようが、一緒にこれを聞いてほしかったらしい。

「こっちの方、貸したげる。私は別の方」

 雪江は改めて、音が聞こえる柔らかな球のようなものを差し出した。雪江がやるように耳に当てる。

 よく聞くと、複数の楽器が奏でていて、今度は男性が歌っていた。

「ひ、人が入っているのではないな」

 雪江があきれた顔でみる。

 こちらの歌の方が理解できない言葉が多いが、これも恋の歌のようだ。音には段々慣れてきた。

 

 ふと見ると、雪江は泣いていた。大粒の涙がこぼれおちる。

「ホームシックになっちゃったみたい。江戸時代に迷いこんでしまって、最初、気が張ってたけど、心のどこかでいつかは帰れると思ってた。けど、先生たちや裕子先輩たちに会って、ホッとしたけど。ああ、もう帰れないんだなって思ったら・・・・」


 大人っぽく見えてもまだ、十六、十七の小娘なのだ。天涯孤独はさびしすぎる。

 小さな肩をそっと抱いた。耳から入る音楽はやたら、けたたましいものに変わっていた。耳から外すと静けさが蘇ってきた。

 しばらく、雪江は龍之介にしがみついて泣いていたが、やがてスースーという寝息に変わっていた。その寝顔を見て苦笑する。

 雪江を抱き上げると、お絹の寝ている四畳半へ入った。わずかな布団の上へ寝かせる。そっと障子を閉め、台所へ向かった。


 妙に目が覚めてしまった。まだ、少し酒が残っていたはずだ。つまみにたくあんも出す。

 長屋は静かだった。雪江の音の出る球を耳に押し当てられた時のことを思い出して、可笑しくなる。片耳なら大したことはないが、あの大音響で両耳を塞がれた時は、自分の思考など吹っ飛んでしまった。

 まだまだ、修行が足りぬようである。

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