雪江も悩むんです
雪江と薫が、長腰掛けに座っていた。もう落ち着いた頃だった。
久美子が腰を支えるようにしてくれて立ち上がる。
「ちょっと中で横になるといいわ。最近の雪江ちゃん、すごく頑張っていたから、今日くらい休んでいいわよ」
はい、と返事をしながら、離れの中に入った。すぐに薫が布団を敷いてくれた。襦袢だけになって、横になる。女中が椿油を持ってきてくれた。これは髪につけてもいいし、肌にもいいらしい。高価なものだった。
その油をローションをつけるかのようにして、まんべんなくお腹に塗ってくれた。
「これでいいわ」
「先生、ありがとう。もう大丈夫」
「そう? じゃ、後でまたくるわ」
久美子が出ていった。そして入れ違いにお初が戻ってきた。
「あ、早いね。どうしたの」
何か忘れ物でもあったのかと思った。お初は不思議そうな顔で、辺りを見回している。慌てて戻ってきたらしい。息を切らしていた。
「正和様がお越しになられているのでしょう?」
「えっ」
龍之介は来ていない。
「今朝は、雪江様の言われるとおり、中奥へ行ったのでございます。小次郎様に言って、雪江様の探しておられる鉛筆なるものを、持ってきていただきたいと思ったのです。けれど、小次郎様は正和様とご一緒に、雪江様の所へ行かれたとのことでございました」
「いや、来てないけど」
龍之介が来ていたらすぐにわかったはずだ。
先日、短くなってきた鉛筆が使いづらくなり、新しいのを持ってきてほしいとお初に頼んでいた。けれど、奥向きの雪江の部屋にはなかったらしい。それならば、中奥の龍之介との部屋にあるかもしれないという話になっていた。
今日、お初が小次郎に言って、探してもらおうとしていた。ところが、小次郎も正和もいないとのこと。
お初も狐につままれたような顔をしている。
「ねえ、本当にここへ来たって言ったの?」
「はい、小次郎様のお屋敷にも参りました。絹代様も同じことを申されておりました。さらに正和様を乗せた駕籠はもう戻っておりました。この「あかり」におりまして、しばらくここにいるから待たずともよいとおっしゃられたそうにございます」
まだ、「あかり」の旅籠か料亭にいるのだったら、さっき、雪江の騒動で、久美子と一緒に龍之介たちも駆けつけてもよさそうだ。
「わたくしは前回にも正和様とは入れ違いになっておりますので、今度はここにいようと急いで戻ってきた次第でございます」
ふと気づくと薫が思いつめた顔でじっと畳を見て座っている。
「薫ちゃん、なにか知ってる? ねえ」
かわいそうだが、薫に聞くしかこの疑問は解けないだろう。
「あ、わたくしはその・・・・・・。別に何も」
「本当?」
薫は正座をし、両手の拳を膝の上にのせていた。その拳はぎゅっと握られている。かすかにふるえていた。それは知っておりますという無言の返事だった。
そこへ誰かが入ってきた。ハアハアという苦しそうな息づかいも聞こえた。
「雪江、それは私が話す。それを薫ちゃんに聞くのは酷なこと」
飛び込んできたのはお絹だった。
「お初さんがうちにきて、小次郎さんと正和様はいるかっていうからさ、いつものように出かけたって言ったら、いないって言うじゃないか。それでここへ来てみたんだよ。ところで、雪江、どうしたの。大丈夫かい」
「あ、うん。大丈夫。ちょっとお腹が張っただけ」
お絹が、寝ている雪江を見て、顔をしかめる。
「ああ、ごめん。雪江が寝ているなんて思ってもみなかったからさ」
「え、いいよ。せっかく来てくれたんだし」
なんだろう。薫の口からは言えない事、そしてお絹までが駆けつけてきていた。気になる。
「また出直してくるよ。今日はそのまま寝ていた方がいい。落ち着いたら話すから」
じれったかった。こんなに気になっているのに、そのことを教えてもらえないなんて。
「お絹、このままじゃ、気が休まらない。どっちにしろ、考えなきゃいけなくなるんなら、その事情を知ったうえでの方がいい」
お絹はじっと雪江を見ていた。
「わかった。申し訳ないけど、ここは雪江と二人にしてもらいたい」
薫とお初は神妙な顔で出て行った。
お絹が雪江の枕元に座る。しかし、まだその目からは動揺がうかがえる。
「あのさ、あのね・・・・」
話しづらいようだ。
「うん、いいよ。ゆっくり話してみて。急がない」
それでもまだお絹は膝の上に置いた自分の手を、開いたり、ぎゅっと握ったりしている。そして、やがて意を決したように、雪江を真っ直ぐにみた。
「雪江がここへ来てから、正和様は結構、頻繁にうちへ来るようになった。そのことは雪江も知ってるね」
「うん、それは聞いてる」
「弥助さんがいるから、昔話に花が咲いて、尽きないほどらしいんだよ」
「悪いね、うちのがいつも」
こんな時にうちの亭主っぽい会話になる。いや、そんなことはいいんだよ、とお絹も口ごもるように言った。
「その夜も、酒を小次郎さんたちの所へ運んで、さっさと寝ようとしたんだ。あの三人が話している言葉が聞こえてきたんだ」
「うん、なるほど」
雪江はなんとなく、腹に手を当てていた。さっきの腹の張りを思い出したからだ。それは子を守ろうという母の本能的な動作。
「吉原って聞こえたんだ」
「えっ、吉原?」
「そう、ごちゃごちゃって言ってたけど、吉原へって言うのがかろうじて聞こえた」
吉原という場所、聞き覚えがあった。ちょっと考えてみる。
ああ、時代劇でもよく登場する花街、遊女がいるところだ。御公義が唯一認めている不夜の町だ。
そこへ、男三人が行く相談をしていたという。もちろん、そこへ行くということは、・・・・・・そういうことになると想像できた。
「うそ・・・・・・」
雪江はそう言って、口を抑えた。
お絹を見ると、もう目にいっぱい涙をためて、膝の手の拳が小刻みに震えていた。
「お華が、下男の茂吉に問いただしていた。やっぱり小次郎さんも行ったらしい」
「えっ、でもいつ? 弥助さんも一緒だったんだね?」
「たぶんね。そして今日も、あの三人は行ってる、って思う」
ぽたりと大粒の涙がお絹の目から零れ落ちた。それを他人事のように眺めている雪江。吉原と言われてもすぐにどんなところなのか、実感がわかない。
「吉原って、昼間から行くとこなの?」
「うん、昼もやってるからね。侍は特に、夜はあまり外出できないことになっている。だから、大体昼に行くらしい」
そんな、そんな、と徐々に心が乱れていく。
そうだ。吉原には大勢の遊女がいる。そこへ行って、華やかに遊ぶ、接待として使う大店の旦那たち。もちろん、それだけではない。性のはけ口としてただ、通う者もいるだろう。特定の遊女を好きになり、通い詰めている者もいるはずだ。
先日、龍之介が来た時、いつもより優しくてうれしかったのだ。ちょっとした会話で、お互いがわかりあえて、夫婦っていいなと実感したばかりだというのに。
身重の妻に、不満を持っていたのかもしれない。他の大名は、こういう時に側室を設けるんだろう。それは雪江があからさまにいやだと言っていた。だからなのだろうか。金を払って遊女を買うくらいのこと、許すのが、大名の跡取りの妻として当然と思うのか。心の広い妻を求められているのか。
今、そんな事実を知ったばかりだった。雪江はまだそんなことを受け入れるほどの心の余裕がなかった。
想像する。
龍之介が見知らぬ女性に笑いかけている。にこやかに見つめ合って、酒の酌を受ける。世間話や気の利いたことを卒なく話し、そして、そして、奥まった座敷に二人して手を取り、暗い空間に消える。そんなことを想像してしまっていた。
目頭が熱くなり、涙がこぼれた。枕を濡らす。そんな雪江をみて、お絹も我慢の限界だったのだろう。わっと思い切り、泣きはじめた。お絹もずっと不安だったのだろう。なにしろ、何度もあきらめた相手、小次郎だった。やっと添い遂げることができ、子も産まれて万事うまくいくところだったのだ。突然、降ったように出てきた夫の浮気疑惑。これは衝撃だろう。
「ごめんね。本来ならこんなこと、身重の雪江に言っちゃいけないってわかってたんだ。けど、雪江に黙っていられなかった。こんなことを隠し通せるはずないし。ごめんね、ごめんね」
「お絹のせいじゃない。教えてくれてありがとう。後で知ることになるより、ずっといい」
それは本心だ。こんなこと、黙っていられたら、その人のことも信用できなくなりそうだ。
「小次郎さんが花魁を買うってことは、よほど私に不満があるってことさ。お華は平然としていろっていうけど、私にはできないよ」
「妻が平然としていられるわけないじゃない。夫のことを好きなら、絶対に心の中で嫉妬の炎を燃やしてる。顔に出さないだけだよね。澄ました顔をしてにっこり笑い、きっとお茶に畳のごみでも混ぜて、憂さ晴らしでもしてるんじゃないの? そっちの方がずっと陰険だよ」
雪江も興奮して言うと、お絹がニヤリと笑った。
「それっていい考え。今度、使わせてもらうよ。私、陰険も好きだ」
雪江が吹き出す。本当にやりかねないと思ったから。二人で泣き笑いになった。
しかし、衝撃だった。龍之介も小次郎までが、遊女のいる花街に足をむけるとは。どうしたらいいんだろう。もし、急に龍之介がきたら問い詰める? いや、できないだろう。その口から、花魁の話が出ることは身震いするくらい怖い。
「白状させて、もう二度と行かないって、力づくで誓わせようか」
お絹がとんでもないことを口走っていた。
「あ、ちょっと待って。そんなことしたら、ますますそっちへ行っちゃうよ」
「そうか。じゃあ、このまま知らん顔をしているのかい。私にはできないよ」
「明日、私、安寿姫の所へ行くの。そっちで相談して、明知様になにか聞きだしてもらおうかな」
「あ、なるほど。男同士なら素直に本音を言うだろうから。でも、いいのかい。花魁に夢中になってるなんて言われても・・・・・・」
「ん、わかんない。けど、こうして、あれこれ考えて、妄想に憑りつかれているよりは、事実を知った方がいいと思う」
「なるほどね。わかった。私もそれまで何も言わないでいる。気づいていないふり、するよ」
まあ、できればだけどね、とお絹がブツブツ言っている。
明日、安寿に打ち明けて、明知から龍之介に吉原のことを聞いてもらおうと思った。明知には正直に言うだろう。そして妻の言い分と夫の言い訳を冷静に聞いて、丸く治めてくれるような気がした。