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坂本家の事情・薫

 最近の薫は忙しい。毎日、雪江の所へ通い、夕方帰ってからは家の炊事もする。そして、それとは別に酒の用意と肴を作り、坂本家に持って行く機会が増えた。

 雪江が屋敷にいないからなのか、龍之介が頻繁に小次郎の屋敷に出入りしていた。そのたびに、酒の用意をし、もてなす必要がある。坂本家の御新造、絹代(お絹)がいろいろ大変だろうという配慮で、裕子が薫にその用意をし、持って行くようにと言ったのだ。薫が弥助のことを憎からず思っていることを知っているからということもある。


 いつものように、薫は坂本家の勝手口から入った。

「今晩は」

 今夜は少し遅くなっていたからだろうか。いつもなら下男が台所の火の始末をしていたり、女中の一人くらい、うろうろしているのに、誰もみあたらない。

「ごめんください。薫でございます。正和様たちにお酒をお持ちしました。どなたか・・・・」

 遠慮がちに声を抑えて声をかけた。

 そう言って、一度耳を澄ませる。誰かが来るかもしれない。しかし、家の中は静まり返っている。誰もいないということはないのだ。今夜もまた、龍之介が坂本家を訪れるという報告もあった。現に、薫が入ってこられるようにと勝手口が開いていたのだ。

「きぬよさま・・・・・」

 絹代は寝てしまったのかもしれない。


 龍之介たちのいる座敷はわかっていた。もう何度も足を運んでいる。勝手知ったる人の家だった。そっと上がって、酒を届け、帰ってしまおうかと思った。草履を脱いで、上がろうとしたその時だ。

 突然、絹代が顔をだした。

「薫ちゃん」

 はっとして絹代をみた。

「あ、絹代様」


 いつもと違う険しい表情をしていた。勝手に入ってきたことがまずかったのだろうか。しかし、絹代は薫が手にしているお盆に目を向け、無理やり笑った。

「いつもありがとう。それ、早速持っていってね。いつもの座敷にいるから」

「はい」

 絹代は別に薫のことを怒っているわけではないとわかり、ほっとした。

「ね、その後で、私の所へ来てくれる? この先の廊下の突き当りの部屋だから」


「は・・・・い」

 今までそんなことを言われたことがなかった。一体何の用事だろうと不安に駆られる。それでもそんなことは顔に出さないようにして、頭を下げ、酒を運ぶ。


 奥の中庭に面している座敷だ。ピタリと障子が閉められているが、明かりが洩れて、中の人影が見えている。薫は、そのかなり手前で中に声をかけるようにしていた。

 そう、初めてここへ酒を運んだ時、中の三人の話が途切れずにいた。少し待ってから声をかけようと少しの間、廊下に座っていた。それを小次郎が察して、急に開けられ、心の臓が飛び出すほどに驚いたのだ。あんな思いはもうしたくない。

「失礼いたします。薫でございます。お酒をお持ちいたしました」

 そう言って、障子の前に座った。お銚子の載ったお盆を廊下に置く。中からの返事を待った。

 小次郎が、入りなさいと返事をした。障子を開けて入る。


 今まで薫が入ってきても、構わず、話の続きをしていることが多かった。しかし、今夜は黙り込んでいる。どうしたのだろう。少し重苦しい雰囲気になっていた。聞かれたくない話をしていたのか。

 お盆をたたみの上へ置くか、置かないかの時に小次郎が言った。

「薫殿、ありがとう。それはそこにおいてもう戻ってよいぞ。後はこちらで勝手にやるから。さあ、もう夜も遅い」

「あ、はい。そう致します。失礼いたしました」


 なんとなく、せきたてられているようだった。早くこの場を去ってほしいという感じだった。三人ともいつもと顔の表情が違う。そう思いながら、廊下を戻っていった。不可解にも思えたが、無事役目を終えた安堵感に包まれる。


 そのまま帰ろうとして、ふと思い出した。そうだ、絹代に部屋へ寄ってほしいと言われていた。他の人の家の奥向きへ足を運ぶなど、初めてのことだ。奥の廊下を遠慮がちに歩く。

 すると突き当りの部屋の襖が少し開いていて、明かりが洩れていた。その部屋が絹代の部屋に違いない。

 そっと声をかけた。するとすぐさま絹代の顔がのぞく。待っていたらしい。

「さあ、入って。百が寝てるけど大丈夫。この子、一度寝たら、なかなか起きないの」

「はい」

 遠慮がちに部屋へ入った。絹代の寝室だった。さっきまで少し横になっていたらしく、敷かれた布団が少し乱れている。奥の布団には小さな百がすやすやと寝ていた。

「ごめんね、こんな遅い時刻に」

「いえ」


 薫は寝床の横へ座った。

 絹代の目が赤い。泣いていたのか。そんなことを思って、どきりとする。

 絹代は、ごめんね、といきなりそう切り出した。

「こんなこと、誰にも言えなかった。いつもなら雪江に言ってしまうんだけど、今、ここにはいないし、あの子、身重だろう。変な心配をかけたくない。言いたくはないんだよ」

 動揺しているらしく、絹代の言葉の意味はよくわからなかったが、一応、はい、と返事をする。なにかに心を揺さぶられているようだ。何が起こったのだろうか。それは小次郎たちと関係があるのか。

「ああ、ダメ。こんなこと、雪江には言っちゃいけないんだ。でも後でわかったら、もっと怒られるかもしれない。どうしたらいいんだろう」


 それは、雪江にも降りかかることなのか。そのような大変なことを何故、絹代は薫に言おうとしているのだろう。相談するのなら、裕子の方が適任だろう。

 薫は、手に負えないほどのことなら、裕子に相談するように勧めようと思った。


「あの・・・・・・お華が、あの人ったらね、小次郎さんのこと、好きだったらしいんだよ。でも自分は身分が違うって、坂本家に仕えるだけで満足してるなんて言ってるけど、私みたいな町人出の嫁が入ってきただろう。かなり気に入らなかったみたいなんだよ」


 絹代が一人でぺらぺらと話していた。お華は、小次郎の父親の屋敷にいたが、絹代の輿入れがきっかけで、ここへ来た。百が生まれたばかりの時は、絹代の代りにこの家を切り盛りしていた。百の面倒もみて、台所も指揮していた。てきぱきと、なんでもこなす利発な女中だった。年は二十三、四だろう。正直言って、薫の苦手な人だ。

 お華は、自分ができるから、他人の失敗や自分よりも仕事の遅い人が気になり、見下すところがある。ちょっとした美人だが、情の薄いという印象だった。あの人が小次郎のことを好きだったとは意外だった。たぶん、小次郎にとってもお華は一番苦手なおなごの部類に入ると思う。


 そのお華と絹代との間に何かあったのだろう。絹代は一頻り、お華の行動や言動のことを、薫に訴えかけていた。それとなく、かなりの嫌味を言われているらしい。こうした鬱憤話につきあうことは、以前も他の女中たちとあったから、ただ、うんうんと聞いているだけだった。そこにはそれなりの定義がある。決してその話し手のことを否定するような、自分の意見を言ってはならないのだ。聞くだけ聞いてから、大変だったね、その気持ちわかるよとねぎらう言葉を掛ける、それですべてうまくいく。そこがミソなのだ。


「あ、ごめん。こんなこと、薫ちゃんに言っても困るだけだよね」

 絹代は黙って聞いている薫を見てそう言った。

「私、今、どうしていいかわからないんだよ。あのお華って女、私にね、御新造様も太っ腹でございますね、小次郎様のこと、よくお許しになさっておられて、なんて嫌らしい言い方をするんだよ」

「はあ」

 なかなか本題に入らない様子だ。お華批判はまだ続きそうだ。


「大体ね、あの人はいつだって単刀直入に言わないんだよ。いつでも遠まわしに切り出す。こっちが気にし出すとニヤリと笑ってね、さらに興味を引きたてるような嫌味をいうのさ。ああ、嫌だ。なんて女だろう」


 絹代がまた、お華のことで興奮して愚痴をこぼす。かなり我慢していたのだろう。こういうことは、今まで雪江に聞いてもらっていたらしい。

「あの・・・・絹代様。そのお華さんがどうされたのでしょうか。それと雪江様に何かご関係が?」

 仕方がない。このままだと夜中過ぎまでお華のやった事、言ったことのすべての愚痴を聞かされるかもしれないからだ。


「あ、ごめんごめん。本当に、ごめん。こんな事、言えるのは薫ちゃんしかいないんだよ。だからつい、ね」

 薫は、いいえ、と口ごもって首を振った。

「あのお華がね、今日、私にこう言ったんだ。吉原へ行ったって」

「はぁ・・・・・・。お華さんが吉原へ?」

 薫はきょとんとしてしまう。


「いや、違う。小次郎さんだよ。あの人が吉原へ行ったって言うんだ」

 絹代が大声であげた。その声に、寝ていた百がピクリと動いた。

「ええっ」

 薫も思わず大声が出た。すぐに自分の口をふさぐ。その声に再び、百が驚いたらしく、今度はう~んという声を出した。しかし、すぐに寝入った様子。


 まさか、まさか。あの小次郎が吉原へ足をむけるだなんて、そのようなことを誰が想像するか。あの真面目一徹の小次郎がだ。信じられなかった。

「それは事実でしょうか」

「うん、本人に確かめていないから何とも言えないけどね。私も最近の小次郎さんは変だと思っている。どこか私と目を合わせないし、何か隠しているってわかるんだ。あの人、割と単純明快だろう。そういうこと、お華にもわかったみたいなんだよ。それでお華は、いつも小次郎さんのお供をしている下男の茂吉に聞いたらしい」


 無理やり口を割らせたのだろう。かわいそうに。あの初老の茂吉の困った顔が浮かぶ。正直で、真面目な下男だった。

 薫も女中の中にいたから、ある程度の女の底意地の悪さを知っているつもりだ。けど、お華のこの行動はひどい。


「茂吉がいうのには、正和様と小次郎さん、そして弥助さんの三人が吉原へ行ったんだって。確かにね、私も一度、吉原がどうのっていう会話を耳にしたことがあるだよ。その時はただの世間話としてのことだと思っていたからさ」

 そういえば、最初の時、薫が酒を持って行ったときも、座敷の中の話し声が急に低くなり、廊下にいた薫にひどく反応していた。


「私はお華に、吉原って言われただけで、頭が真っ白になっちまってさ、あわてちまったのさ。あの女の思う壺さ。ああ、情けない」

 吉原へ行ったとしても宴会目的、商売のための社交的な場でもある。必ずしも花魁を買うわけではないと聞いたことがあった。

「ただ、吉原へ行って、宴会をして帰ってきたのでは?」


「こうして毎晩のように、三人で酒を飲んでいるんだよ。なんでわざわざ、あんなところへ行って飲むんだい。あそこじゃなきゃいけない理由があるはずさ。小次郎さんは、正当な理由があれば、ちゃんと私にだって言うと思う。でも、小次郎さんはそれを隠しているし、昼間からこっそりと行ってるんだ。やましいことがあるって証拠。ねえ、そうだろう」


 もう薫は何も言えない。薫にも、わずかながら正和たちへの嫌悪感がひろがる。芸妓を呼んで楽しく過ごすのならいいが、花魁を買うために足を運んだのか。妻がある身で。

「お華はね、小次郎さんが吉原へ行ったのは、私に不満があるからって決めつけているような話ぶりなんだ。それで私が困っているのを見るのが楽しいらしいよ。なんて嫌な性格なんだろうね」

 ふさぎ込んでしまった薫を見た絹代が、やっと我に返った。

「ああ、本当にごめんね。薫ちゃんにこんなこと言ってすまなかったよ。大人の話なのに、悪かった。でも、誰かにこの胸の内を聞いてもらって、少しはすっきりしたよ」

「あ、いえ」

 絹代の動揺、怒りの気持ちもわかった。


「雪江には内緒にね。正和様までが吉原へ出かけたなんて知られたら、あの子、どうするかわからないし、でも・・・・いずれはばれることだと思うから、その時は私が言う」

「はい、それではこれで」


 気が重いまま、薫は逃げるようにして自分の部屋へ帰った。明日も雪江のところへ行く。こんな話を聞いてしまい、いつものように接することができるだろうか。自信がなかった。聞かなければよかったと思う。


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