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母になるための手習い2

 思えば、龍之介はいつも朝倉の味方だ。雪江が朝倉に言いたいことを言っていると必ず叱られるのだ。久しぶりに顔を見たというのに、いきなり怒鳴られていた。ふてくされる雪江。おもしろくない。


「はぁ~い、はいはいはい。わかりましたよ。先生には敬語で話せばいいんでしょ、敬語で。わかってますよ。そんなこと」

 口ではそういうが、雪江は朝倉に対して敬語を使ったことがなかった。以前は高校生と教師の関係だった。当時、学校の時も、皆がタメ口を利いた。気さくな朝倉はその程度では窘めることはしなかった。今更、敬語を使うなんて、気恥ずかしい。


「わかればよい」

 それほどわかったとは言えないことを考えている雪江にそう言って、龍之介は座敷に入ってきた。もう笑顔を向けてくる。

「調子はどうだ。元気そうだ。今朝は手習いか」

「うん」


 龍之介は切り替えが早い。すぐに怒るが、いつまでもグチグチと文句を言わない。それにしても、今日はいつもよりも表情が優しい気がした。どうしたんだろう。

「龍之介さん、私がいないから、寂しい?」


 意地っ張りな龍之介のことだ。すぐにそんなことはないと言い訳するだろう。からかいの言葉だ。しかし、今日はその笑みを絶やさずにいう。

「そうかもしれぬ。ドタバタという足音や、小言を言うとすぐに膨れる奥方がそばにいないと、静かすぎて落ち着かぬ」

 またそんなことを言われていた。もうドタバタ歩かないようにしているし、まあ、すぐに膨れるけど、それがないから落ち着かないってどういう意味? とくってかかろうとした。


 それを聞いた朝倉が大笑いをしていた。

「なるほど、それは正和様もお淋しいことでございますな。それだけの存在感を持つ奥方様は、この江戸広しと言えども、なかなかおいでになられないと思います」

「うっるさいな、先生。かわいい教え子がからかわれてんのよっ。少しくらい私を庇ってよ」

 先生にもそんなことを言われてむくれる。


「正和様はな、本当の、ありのままの雪江を受け入れられておられるのだ。それは大変幸せなことなのだぞ。普通の夫なら、まず、雪江のドタバタ歩きで悲鳴を上げるだろうから」


 だから、最近はそんなにドタバタ歩いていないと口ごもる。しかし、朝倉の言う通りだ。男性とは、いつの世もなぜか(?)女らしい人が好ましいと思うみたいだし。


 気を取り直して、墨を擦る。その横に龍之介が座った。守られているような安心感がある。それに、見られていると思うと、心が引き締まる思いだ。なるほど、精神を落ち着かせるということはこういうことなのだとわかった。もういい頃だろう。

 筆を持ち、大きく息を吸った。安寿への手紙を書こうと思う。不思議なほど、心が落ちつき、さらさらと筆が紙上を滑っていく。草書とは、縦書きの英語の筆記体のようだと思った。


 体調に変わりはないか、もうそろそろ胎動が始まる頃かということを書いた。昨日も大して変わりのない文面だったが、気にしない。そして、その最後に雪江とローマ字で署名し、スマイルマークを書いた。

 それを見た龍之介がぷっと吹きだした。

「なんだ、それは」

「いいでしょ。私のサイン。毎日こんな感じで安寿姫に書いてるの。安寿姫なら、形式ばった文章を書かなくてもいいから」


 龍之介もその文を見て「だいぶ上達したようだ」と褒めてくれた。

「草書って難しそうに見えるけど、覚えたらそれほどじゃないのね。でも手紙特有の言い回しが厄介。なんとか候とかさ」

 読むことはできるが、自分でかしこまった文章を書くことはまだまだ難しいのだ。


 加藤家の上屋敷が完成し、明知と安寿が引っ越していったのは、つい先月のことだ。奥向きでいつも安寿とおしゃべりしていたから、寂しい。龍之介もよく明知と話をしていたから、同感だろう。

「あ、薫ちゃん、あの絵を龍之介さんに見せて」

「はい」

 薫が奥から広げて合った絵を持ってくる。

 ここから見た海の景色だ。かなりの自信作。

「もう少しで完成するの。安寿姫にあげようと思ってる」

 龍之介がそれを見て感心しているのがわかった。

「これは、なかなかの出来栄え」

 素直に褒めてくれる。

「はい、これが唯一、雪江の取柄」

 朝倉がまた余計なことを言って笑った。


「誠に、この才能を目の当たりにすると、雪江は本当に兄上(正重)の良いところを受け継いでいると思う。以前はへんてこな人の絵ばかり描いていたがな」

「ヘンテコは余計でしょ。漫画って言ってよね」

 そう言われてもうれしい。龍之介がその絵を改めて見て言う。

「これは、誠に見事な絵。屏風絵にしてもいいかもしれぬ」

「え、本当にそう思う? うれしい、ありがと」


 嬉しいが、今日の龍之介は褒めすぎると気づいた。いつもなら褒めることは褒めるが、そうストレートには言わず、必ずどこかに皮肉が入るからだ。本当にどうしたのだろう。いつもの龍之介とどこか違っていた。


「では、正和様、わたくしはこれにて失礼いたします。雪江、またな」

 朝倉が腰をあげた。薫が外まで見送りに出た。

 座敷に二人きりになる。


「ああ、会いたいな。安寿姫に。龍之介さんは明知様に最近、会った?」

「いや、二人が上屋敷に戻って以来、会ってはおらぬが」

「やっぱりそうだよね」

 雪江が普通の体だったら、また勝手に遊びに行ってしまうところだ。

「ねえ、会いたい。こういう時、簡単に行き来できない武家って不便」


 龍之介がギョッとしていた。

「駕籠は揺れすぎるしさ、あ、そうだ。歩いて行っちゃダメかな。最近、結構散歩しているの。休み休み歩けば大丈夫だと思う。もう安定期に入ったんだし」

 龍之介が睨みつけてきた。

「たわけたことを申すな。武家の奥方が、身重の体を人目に晒して町中を歩くなどと、そのようなこと・・・・・・」

 龍之介が言い終わらないうちに、睨んでいた。それを察した龍之介は口をつぐむ。


「身重の体を一目に晒してって、なによっ。それ、どういう意味」

 いくら龍之介でも許せない一言だ。龍之介は、何か言い訳を考えている様子だが、お構いなしに続ける。

「武家の奥方だって人間よ。人一人を身ごもってるんだから、でっかい腹で何が悪いのよ。まさか、それがみっともないっていうことじゃないでしょうね」


 先ほどの穏やかな空気はどこかへ吹き飛んでいた。龍之介も言い過ぎたと思ったのだろう。

「すまぬ。まだ雪江の腹はそれほど目立泣ぬ故・・・・・・」

「目立つ、目立たないっていうことじゃないでしょ」

 

 まだ、興奮していた。

 ここはきちんと言っておかないといけないと思った。ただでさえ、女とはこうあるべき的な社会である。世間はそうでも、龍之介にはそうあってもらいたくない。特に妊娠、出産は、女性にとって命をかけた大仕事である。それを、ただの女の役目ということにされたくはないのだ。


「いい? 子供っていうのは父親になる人と母親になる人、二人がいないとできないのよ。二人で作った子供なんだからね。父親もそれらしく受け止めて置いてもらわないとやってらんないんだから」


 雪江の言葉には、男には悪阻もなく、腹も大きくならない。何も変わらないことが不公平だと言う抗議めいた意味合いがある。それはしかたのないことだとわかっているが、そんな妻をいたわるのが男の仕事だろう。

「わかった。わしが言い過ぎた」

 いつもなら、なにか言い訳をしてくるところだが、今日は簡単に折れてくれた。

「しかし、これだけは言っておく。勝手に出歩くのではないぞ。今はもう雪江一人の体ではないのだ。わかるな。お父上も家臣たちも皆、無事に子が産まれることを心待ちにしているのだから」


 はっとした。

 そうだ。龍之介に父親っていう者は不公平だと訴える前に、雪江が母親になることをもっと真摯に受け止めなければならなかった。無事に子を産むまで、自分のわがままで、突っ走ってはいけないのだ。それは親になるということの責任だ。

「わかりました。ごめんなさい。私こそ、自分のことばかり考えてた。私がまず母親らしく変わらないといけないんだって思った」


「わかればよい。よいな。加藤家へ行くのなら、わしも行く。その前に兄上に承諾を得る。それからあちらに申し出て、安寿殿たちの都合を訊いてから・・・・」

 やったと思った。龍之介が一緒に安寿たちに会いに行ってくれるというのだ。

 龍之介が全部言い終わる前に、すでに雪江は飛びかかって・・・・いや、抱き付いていた。龍之介はそんな雪江をしっかりと受け止める。

「さすがっ、私の龍之介さん、大好き」

 幸せを実感していた。

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