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母になるための手習い1

 雪江が「あかり」の離れに強制入院してから、すでに数日がたっていた。

 初めはやることがないとブツブツ言っていたが、今は時間がおしいと思うくらい、積極的に外へ出て写生をしている。

 この離れから見る海の眺めは絶景だった。写真に撮るということができない江戸時代だ。そのままを脳裏に残すなら、こうして絵に描いておくしか手立てはない。

 その日も、一日外で過ごすつもりだった。


 薫が毎日、顔を出してくれる。だから、お初は、薫が来ると屋敷に戻り、雪江の着替えを持ったり、他にも細々とした用事を足してくる。そして必ずその夕方前には戻るのだった。

 雪江がいないときは少し息抜きでもすればいいのにと思うが、お初の真面目な性格ではそんなことは決してないだろう。


「今日は正和様が、こちらにお出でになられるそうです」

 薫がきて、第一声がそれだった。

「えっ、龍之介さんがくるのっ」

 雪江が弾んだ声を出す。

 目がいつもの倍くらい大きくなり、思わずにんまりしてしまう。

 お初も顔をほころばせる。

「それはうれしいことでございますね」


 毎日、薫から渡される龍之介の文を楽しみに待っていた。けど、本人に会えるのが一番うれしい。

「うん、すごくうれしい」


 それでは、とばかりにお初が立ち上がる。


「あ、お初。今、使っている鉛筆、だいぶ小さくなってきちゃったから、長いのを一本持ってきてくれる?」

 雪江が、ちびた鉛筆をみせた。長いのがどこかにあるはずだ。 

「はい、かしこまりました」


 お初や奥向きの女中たちは、雪江が二十一世紀から持ってきた鉛筆や消しゴム、マーカー、色鉛筆もよく見知っていた。今、写生で使っている鉛筆は、大事に小刀で削って使っている。貴重なものだから、あまり無駄に芯を削らないように気をつけていた。


「すごいよね。ここへ来たばかりの頃は、結構長かった鉛筆なのに」

「雪江様は、熱心に絵を描かれておりますもの。では、薫殿、後を頼みます。今日はその用事を済ませましたらすぐに戻って参ります。正和様がお越しになられます故、粗相のないよう」

 そう言って、お初が雪江のことを薫に託す。

「はい、いってらっしゃいませ」

 薫も丁寧に頭を下げた。


 お初が出て行った。雪江は薫の方を向く。

「どうしようか。龍之介さんがくるんなら、それまで外に出ないで待っていようか」

「そうでございますね。ここで待たれていた方がよろしいかと存じます」


「うん、じゃあ・・・・・・」

 そう言いながら、雪江は座敷を見回す。昨日、描いた絵に色を入れようかとも思う。

 この一番広い座敷は、絵を描く専門のアトリエのようになりつつある。


 そこへ関田屋の隠居こと、朝倉がひょいと顔をだした。

「お、雪江。どうだ、久しぶりに草書の手習いでもやるか」

「あ、先生。ちょうどいいところへ。龍之介さんがくるっていうから、外に出ないつもりだったの。ちょっと暇してた」


「俺はどうせ暇つぶしだ」

 そう先生も言って笑う。

 昨日も一昨日も、朝倉は顔を出してくれたが、その時はもう、雪江はすでに外に出てしまっていた。今日はここにいてよかったと思う。


 薫がすぐに手習い用の机と脇息、座布団を二枚用意した。雪江が正座をして手習いをするときの必要なものだった。

 どっこいしょと言いながら、机の前に座る。そして大きな息をついた。

 さあ、墨をするところから始まる。

 いつもの朝倉の講義からだ。


「いいか、墨をすることを面倒くさいなどと思ってはいけない。墨をすりながら、精神を落ち着かせて、良い字が書けるように・・・・・・」

「神様にお願いするの?」

 そう茶化した。

 朝倉は鼻白む。

「また、お前はそんなことを言う。なんでもかんでも神様にお願いしていたら、人は努力をしなくなる。だから、神は見ているだけなんだ。人が自分で努力するようにな」


「なあんだ。ちょっとでも早く真っ黒な墨が擦れるように、魔法をかけて欲しいのに」

 せっかちなのか、いつも雪江は墨を擦る時間が惜しいと思う。

「神様は魔法使いじゃないだろう」

 朝倉が笑う。

 雪江は、だって、とブツブツ言いながら、せっせと手を動かす。


 ちょっと字を練習するだけなのだ。それでも墨を擦ることからしなければならない。墨汁があればいいのにと思う。筆ペンなどは便利中の便利だ。一応、擦った墨を入れる壺があるが、朝倉はいつもその都度、擦るように言う。

 しかし、そういうことからよく考えると、雪江の時代は時を駆け抜けるように、時間に追われているとも思う。常に一分でも早くどこかへ行かれるように、何かをすることばかりの世界だった。この江戸時代ではゆっくりと時間が過ぎていると実感していた。


「ああ、もう足が痺れてきた」

 そういうが早いか、脇息に左肘をあて、折り曲げた脚への圧力を少しでも和らげようとする。そして、そんな恰好で墨を擦りつづけていた。しかし、朝倉はそれを許してくれない。

「雪江、お前はまたっ。そんな恰好で」

「いいじゃん。まだ墨を擦ってる段階なんだからさ。字を書く時はちゃんと座るよ」


「おれがさっき言ったこと、聞いてなかったのか。墨を擦るということはだな、ただ、やればいいってことじゃなくて、その精神を・・・・・・」

「落ち着かせて、集中力を高めるってことでしょ。でもね、大変なのよ。妊婦の正座って、脚にものすごく負担がかかってる気がするの」


「だからと言って、脇息に肘をついて墨を擦る奴がいるかっ」

「はあい、ここにいるじゃん。私ならこの恰好でも字が書ける、漫画も描けるよ」


 そう、昨日もこうやって安寿への文を書いていた。だからなのか、全体的に字が曲がってしまったように思う。しかし、そんな細かいことは気にしないで、夕方、届けてもらっていた。


「そんな姿勢でまともな字が書けたら、百万円やる」

 今日の朝倉はしつこい。雪江も負けてはいない。

「じゃ、この姿勢でまともな字が書けるように努力する。そしたら本当に百万円、くれるんでしょうね」

 また、いつものように言いあっていた。


「ばか者。それはちゃんとしろという物のたとえだろうがっ。大体、この江戸で百万円なんて使えないっ」

「だって、先生がそう言ったんじゃないの。言ったからにはその言葉に責任持ってよね。本当に正座っていや。脚が痺れすぎる」


 それでもこんな会話はいつものこと。それでも雪江の手はきちんと墨を擦り続けていた。

「足が痺れるのは、急に体重を増やし過ぎたからだろう。自業自得ってもんだ」

「もうっ、先生までそんなことを言って、ひどい」


 雪江がそこまで言った時だった。

 その傍らで、ハラハラ、おろおろしていた薫がはっと顔をあげ、目を見開いた。

「あっ」と声をあげる。

 雪江もその変化に気づき、廊下の方を見る。

 突然の叱責がとんできた。

「ゆきえっ。そなたはまたっ。師というお方をなんと心得る。その口の利き方はなんだっ。失礼千万、きまわりない。わきまえよっ」


 龍之介だった。来てくれたのは嬉しいが、いきなり叱られたことは面白くない雪江だった。


 

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