龍之介の思春期3
翌日、小次郎は老人の手助けをするために朝から一緒に畑に出ていた。普通ならお葉も手伝うが、麓の村まで龍之介を連れて弥助の様子を見に出かけていた。
弥助はまだ作業中だった。血走った眼から夕べはあれからずっと徹夜でやっていたらしい。
「弥助さんって夢中になるともう何も見えなくなっちゃうの。たぶん、私達のこうしている声も聞こえてない」
傍目にはもうすでに刃こぼれは見られなかった。それだけで十分かもしれない。しかし、尚も作業が続いている。研ぎ師としては納得がいかないのだろう。その真摯な姿勢に声もかけられないでいた。
その様子を見て、龍之介は心は軽くなっていた。これで名刀を返すことができそうだった。
父に叱られてもいいと思った。事情を説明して、もし父が納得できないのであれば、再び研ぎ師に出せばいいのだ。
そうだ、最初からすぐに陣屋に帰って、刀のことを謝ればよかった。人というものは平に悪いと認め、謝っている者を責めたりしないものだ。何をそんなに恐れていたのだろう。あの時の自分が自分ではなかったようで、滑稽に思えた。
もう刀の心配よりも陣屋へ戻り、父に平に謝ることを考えていた。
やがて弥助の手が止まった。ほうという長い息をついた。
「あ、お葉、そんなところにいたのか。仕上がったぞ」
そして龍之介に気づいた。
「お侍さま」
弥助が姿勢を正し、首を垂れた。
「この度は、無理を言ってすまなかった。この通りじゃ、面目ござらぬ。かたじけない」
龍之介も頭を下げた。
弥助はびっくりしていた。
「あ、いえ。お侍さまに頭を下げられたら・・・・」
弥助はさらに深く頭を下げていた。
「これがあっしに出来る限りの仕上がりでございます」
そう言って、差し出された刀を見た。どこにも刃こぼれなどない。龍之介が手に取って見る。角度を変えて、陽の光にかざし、刃こぼれの名残がないか確かめた。名刀の虎徹は蘇っていた。以前よりも輝きを増しているような気がした。
思わず龍之介は、うぅんと声を出していた。見事だった。
しかし、弥助はそれが不満だと受け取ったらしい。心配そうな顔をする。
「もしもそれで満足がいかないようでしたら、あっしのお師匠のところへ、預けさせていただけたらと思います。どこがいけなかったのか、わかりますから」
龍之介の目にはこれで十分すぎるほどだ。しかし、父が見てからではないと判断できない。
「あい、わかった。謝礼は後ほど」
龍之介がそういうと、弥助は恐縮する。慌てて言った。
「謝礼など、いりません。とんでもないことにございます。研ぎ師として、このような名刀にお目にかかれるだけでも満足なのです」
職人の言いそうな言葉だった。
「弥助、それでは将来、飯は食えぬぞ」
そういうと弥助は笑った。これがきっかけで、龍之介は弥助と交流することになる。
その日の昼頃に、陣屋からの迎えがきた。
夕べのうちから、二人が乗り捨てた馬が山へ入る手前の林で見つかり、大掛かりな捜索がされていた。徒歩での山歩きに、その方向に検討をつけて探し出されていた。
まずお爺の家が見つけ出され、陣屋に報告されていた。
龍之介は迎えに来た家臣たちの前に姿を現せた。
家臣たちは、龍之介と小次郎の無事の姿を見て安堵した様子。喜んでいた。その姿をみて、龍之介は自分勝手な行動を改めて軽率だったと感じていた。大勢の家臣たちに迷惑をかけてしまった。あの雨の中、夜通し探し回っていたらしい。
そこへ馬から降りて、二人の前に立ったのは桐野の家老だった。それは小次郎の父でもあった。
龍之介の後ろに控えていた小次郎が、その父の存在に体に力が入り、緊張するのがわかった。
坂本甲吾郎は、龍之介に頭を下げた。
「龍之介様、ご無事でなによりでございます。お迎えにあがりました。さあ」
その坂本の表情からはなにも計れなかった。いつも父の傍らにいるときの表情と変わらない。
しかし、小次郎に目を向けた。
「失礼を致します。小次郎に・・・・」
小次郎に話があるのだろう。そう判断し、龍之介が二、三歩、端によった。
坂本が息子の前に立ち、その不気味な、無表情のまま、腕をしならせ、顔を殴った。
ピシャリという、ものすごい音があたりに響いた。それでも小次郎はわずかによろめいただけで、その痛みも感じていないかのように、表情一つ変えない。
父親からそうされることを覚悟していたのだろう。何も言い返さず、いや、むしろ、それを当然としている様子で、平手打ちを受け止めていた。
しかし、龍之介は叫んだ。その小次郎の痛みは、龍之介の痛みでもあった。龍之介が原因で、すべては始まっていたから。
「何をするっ、坂本殿。小次郎は悪くない。わけも聞かずに殴るとはひどいではないかっ」
しかし、坂本は、声を荒げた龍之介に静かな目を向けた。
「わけを聞けと申されますか。それは、それなりにあるとは思いますが、これは親に心配をかけた痛みでございます。このくらいで済むのは、そこに深い事情があったからと察したからにございます」
龍之介は黙った。親に心配をかけた、それはいかなる理由があろうとも事実だ。その代償が一発殴られること、それは重いようで軽いような複雑な気持ちだ。
「ということは、その事情次第でさらに叱られるということなのだな」
そんなことを口走っていた。小次郎が片方の頬を腫らしながら、ゴクリと息を飲むのがわかった。
「まあ、そういうことになりますな」
坂本はその二人の躊躇を感じ取ったらしい。はっはっはっと坂本は豪快に笑った。他の家臣たちもやっとほっとしたようだ。
「さあ、龍之介様、陣屋へ戻られませ。殿が、お父上が首を長くしてお待ちでございます」
そう、次は龍之介が叱られに帰る番だ。
「わかった。しかし・・・・」
見送りに外へ出ていたお爺とお葉、弥助もいた。
「この者たちに大変世話になった」
「存じております。後ほど改めてお礼をさせていただきます」
龍之介が、三人に深く頭を下げていた。
「突然、押しかけてすまない。いろいろと世話になった。そのご好意のほど、誠にかたじけなく存じます。この通り」
龍之介と小次郎が頭を下げた。
三人が驚いている。
「そんな、滅相もない。こちらこそ、何もお構いできませんで・・・・・・」
お爺は腰が折れるかと思うほど頭を下げていた。
「また、お礼に参ります」
龍之介はそう言って、馬に乗る。
お葉に目を向けた。
お葉が、龍之介を遠い人だと思っているのがわかった。どこか寂しげな笑顔をしていた。
「また、会いにくる」
お葉に向けた言葉だった。
そう、また会いたかった。
そうして龍之介たちは陣屋へ戻った。
わざわざ父が、表まで出てきていた。父は龍之介の顔を見て、やっと安心したように笑顔を見せる。
父が眠っていないことが分かった。軽はずみな行為、子供じみた意地のために引き起こしたこの騒ぎを反省する。
「父上・・・・・・」
どう謝ったらいいのかと思案しながら父に近寄った。
父も近寄る。そしてふいに厳しい表情を向けた。そしてくちびるを動かさずにそっと言った。
「はたくぞ、気を引き締めぃ」
そういうが早いか、次の瞬間、ものすごい衝撃が頬に走った。父が思い切り、龍之介の頬をはたいていた。
その後から、まるで熱い火箸を当てられたかのような猛烈な痛みがきた。はたく前に注意してくれていたからこそ、地に倒れなかったものの、それでもその場に立っていられず、不覚にも横へよろめくほどに強いものだった。
「たわけ者めっ。そちの軽はずみな行為で、どれだけの者が迷惑を被ったと思っているのか。そちが無事だったからよいものの、もし、何かあったら、全く無関係の者までがその責任を負うこととなるところだったのじゃ」
見ていた家臣たちの笑顔も引き締まり、辺りは静まり返っていた。緊張の瞬間だった。
「返す言葉もございません」
深々と頭を下げる。
叱られて当然だった。龍之介は、心から申し訳ないと思う。その気持ちを込めていた。
頭をあげる時、父が龍之介を抱き寄せる。倒れるようにしてその腕の中にいた。
父が龍之介を強く抱きしめていた。いつもの香の匂いがする。外見は華奢に見える父だったが、その腕は剣の鍛錬のため、割とたくましいと思った。息苦しいほど強い力だった。
「よかった。龍之介。どんなに心配したことか、無事で本当によかった」
父に頬を殴られるのも、そうやって家臣の前で抱きしめられるのも、その時が初めてだった。本当に子供だった。浅はかな自分が恥ずかしかった。
「お父上様、ご心配をおかけしました。誠に申し訳ございませんでした」
少し目頭が熱くなった瞬間だった。
上に立つ者の姿勢と心構えを、身に染みて実感した十三歳の秋だった。
龍之介には、父が皆の前で殴ったことの意味がわかっていた。
いくら藩主の次男とはいえ、刀を勝手に持ち出し、家出をしていた。大勢の家臣たちがその捜索に一晩中、山の中を歩いていた。無事見つかった、それだけではおさまりきれなかった。
さらに藩主たる者が、子供一人もきちんと躾けられないなどというあざけりの目を向けられかねないからだ。人に迷惑をかけた龍之介。その反面、人は誰でも間違いを侵す、それをきちんと反省して見せることも大切なことだと家臣にもそう諭していた。