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龍之介 思春期2

 その日の午後、雨の中をずっと歩き回っていた。もうどの方向へ歩いているかもわからなかった。

 人里が見下ろせる中腹へでた。そのすぐ近くに小さな家があった。もうすぐ日暮れ、夕餉の時間なのだろう。その家からいい匂いがしてくる。誘われるようにして、その方向へ足が向いていた。


 今までは自分の犯した事の重大さに慄いて、ただ、逃げることしか頭になかった。しかし、長時間、山の中を彷徨い、少しは気が落ち着いてきたのだろう。人間らしい感覚が蘇ってきていた。

 急に空腹を感じていた。朝餉以来、何も口にしていない。

 まだ冷たい雨は降り続けている。


 龍之介の体が、寒さに震えていた。足先の感覚がない。

 これしきの寒さと歯を食いしばってみるが、もう自分の体とは思えない、抑えられないほどの震えがきていた。それを小次郎が感じ取り、龍之介をかばい、抱きかかえるようにする。

「龍之介様、あの家へ入れてもらいましょう」

「いや、しかし・・・・・・」

 このまま人に会わず、山越えをするつもりだった。


「龍之介様、お体が冷えすぎております。このままでは体がもちませぬ」

 そんなことはできないと首を振った。言葉を発することができず、ただ、ガチガチと歯がなる。

「一晩だけでございます。ここなら陣屋からは到底、我らを探し出すことはできません。体を温め、少し眠ったら明日の朝早く、ここを出ればよいのです」


 そう言われて心が動いた。もう何も考えられないほど疲れていたのだ。

「それに、体を休めた方が、さらに遠くへ行くことができるかと存じます」

 そう諭されて、やっと龍之介がうなづく。

 小次郎に肩を抱かれたまま、その家に向かっていた。



 戸口に立つ。するとその戸が、中から勝手に開いた。

 中から顔を出したのは、龍之介と同じくらいの年のかわいい少女だった。笑顔が驚きの表情に変わる。誰かを待っていたようだ。それが別人とわかって戸惑いを隠せない、そんな表情だ。


「あ、お爺かと思ったもので・・・・」

 そう言いながらもずぶ濡れの龍之介と小次郎を見た。二人の状況を考えている様子だった。

 少女はすぐに笑顔を取り戻していた。えくぼがかわいい。

「お侍さま、こんなに濡れて、さあ、どうぞ。中へお入りください。あ、お爺」


 龍之介たちが振り返ると、蓑を着た老人が歩いてきていた。

「ありゃ、まあ。これはこれは、お武家さま、どうぞ、狭苦しい所ですが中へお入りください。おい、およう、早く湯の準備を」

「はいっ」

 その少女がお葉だった。

 

 お葉はてきぱきと動き、二人を風呂に入れてくれた。ずっと降り続けていた雨に、お爺が濡れて帰ってくることを予想していて、風呂の用意をしていたのだ。


 暖かい風呂に入れてもらい、やっと龍之介の震えがおさまった。丈の短いお爺の古着を借り、その上にもこもこした半纏はんてんも借りて着こんでいた。

 そして、何もないが、と野菜の味噌煮をご馳走になった。白い飯はなかったが、それは今までに食べたことがないと思えるほど、おいしかった。

 育ち盛りの二人は、大鍋の半分ほどを平らげていた。体も温まり、空腹も満たされ、生き返ったようだった。


 日がどっぷりと暮れていた。

「お侍さま、どうなされましたか。道にでも迷われましたか」

 老人がやっと、そう問いかけてきた。

 無理もない。まだ年若い侍二人がずぶ濡れで、人里離れた山を彷徨っていたのだ。


 曖昧にそうだと答えた。

 きっと今頃、陣屋ではいなくなった龍之介と小次郎の行方とともに、名刀の紛失に大騒ぎになっているだろう。それを思うと胃が縮むような思いにかられる。

 温まり、腹も満たされた今だから、事の次第が考えられるようになっていた。


「ここは山の中腹でございます。麓の村まで降りていけば若いものが、陣屋まで知らせてくれるでしょう」

 お爺は、龍之介たちの身なりに、誰なのか見当がついている様子。


 お葉は龍之介の動揺を察したらしい。

「お爺、今から山向こうの陣屋までは、若い衆でも無理だよ。明日の朝まで待とう。今夜はここに泊まっていただこう。明日の朝になれば、雨もやむだろうから」

「ん・・・・・・。そうさなあ・・・・・・」

 龍之介が肩の力を抜いた。ほっとしていた。

 そうかもしれない。明日の朝になれば、これからどうするか、いい案が浮かぶかもしれない。


 老人が囲炉裏の前に座り、煙管をくゆらせる。

「帰りたくない事情でもおありなさるのか」

 お爺は遠くを見つめながら、独り言のように言った。

 言いたくなければ答えなくてもいい、そんな口調だった。向こうにしてみれば、いくら身分の高い相手にせよ、二人は所詮、子供なのだ。人生経験豊かな大人にしてみれば、取るに足らない事なのかもしれない。話してごらんと語り掛けているようだった。

 

 話すつもりはなかった。助けてもらったが、話してもどうなるわけでもない。けれど明日にはここを出ていく。そんな気軽さで龍之介は話し始めていた。土間ではお葉が食器の片づけをしていた。


「わしは、父上の大事な御刀を持ち出してしまい、さらにそれに傷つけてしまった。もう帰れないのだ」

 そう言った。

 老人の反応を見るが、お爺は黙って聞いていた。

「もう陣屋には帰れぬ。どんな顔をして父上の前に出られるのか。供の小次郎には悪いが、このままどこか遠くへ逃げてしまおうと思っている」

 さらに詳しい事情を話した。


 老人は一度も口を挟まずに最後まで聞いていた。うんうんとうなづいていた。それですべて事情が分かったと言わんばかりだ。

「なるほど、そういう事がおありなさったか」

 その日のことを思い出していた。改めて事の重大さが身に染みた。

 父の怖い顔が浮かんでいた。父に見損なったと言われることが怖かった。


「どんなことをしても、親は子供を心配します。たとえ口ではきつく叱り、その時は腹を立てていても、その子が無事であれば、すべてよしとされるかと思いますがなぁ」


「いや、しかし、私はお家の宝刀を持ち出し、台無しにしてしまったのだ。許されることではない」

 そうだ、武家のことを知らないこの老人に、何がわかるのだろうと思った。それに家臣たちも龍之介を蔑んだ目で見ることだろう。そういう事も耐えられないのだ。想像するだけで誇りを傷つけられていた。


「子も、宝と申します。人の命よりも大事なものは、この世にないと思いますがなぁ」

 他人の親はそうでも、父はそうでないかもしれない。そんなことよりも龍之介は、父ががっかりするところを見たくないのだ。こんな腑抜けな子だったのかと思われることが嫌なのだ。


 突然、お葉が大きな声を出した。なにかを思いついたらしい。

「ねえ、お爺、たしか麓の村に弥助さん、帰ってきてたよね。弥助さんに頼んだらどうかな」

「弥助? 麓の村の弥助」

 お爺にもそれが誰なのか思い当ったようだった。表情が明るくなった。

「ああ、あの弥助か」

 しかし、すぐにお爺の顔が曇る。

「あいつにできるか。まだ弟子の身、どこまでできるか」


「ダメでもともとでしょう。もしかするとちょっと見ただけじゃわからないようにしてくれるかもしれないよ。せっかく近くにいるんだから、ねえ、見てもらうだけでもいいじゃない」

 そうお葉が言うと、お爺もその気になったらしい。

「そうだな」


 お爺は、なんのことを話しているのか見当もつかない龍之介たちに、向き合って説明をしてくれた。

「麓の村に、刀剣の研ぎ師に弟子入りしている若者が、戻っております。もしかするとその御刀をなんとかできるかもしれません」

「え・・・・刀剣の研ぎ師が」


「はい、弥助さんは四年前から弟子入りしております。見てもらうだけでもどうかと」

 もう老人が腰を上げて、再び蓑を着る用意をしていた。

 それを見て、小次郎も腰を上げた。

「では拙者が、ご老人と刀を持ってまいります。外はまだ雨が降っております故」

「そうしていただければ幸いにございます。わしにはその重い刀を持っての下山は荷が重い」

 それで話は決まった。小次郎もすぐに蓑と傘をかぶり、一緒に暗い雨の中へ出ていった。




 祈るような気持ちだった。たとえ元通りにならなくても、なんとかなるかもしれないということが心を明るくしていた。

 お葉が、一人残った龍之介にお茶を入れてくれた。

「ここではずっとご老人と二人暮らしか」

 この狭い小屋には、老人とこの娘の生活の物しか見当たらないからだ。


 お葉も台所の片づけが住み、やっと自分の分のお茶を手にして囲炉裏端に座った。

「はい、お爺と二人です。母は江戸にいます。父は顔も覚えていません」

 そして、思い出すかのように、ポツリポツリと身の上話を始めた。



 お葉は、山の中腹の一軒家に、祖父と二人で暮らしていた。小さな田畑をいじることで生計をたてていた。父親は小さい頃に亡くなり、母は少しでも口扶ちがなくなるようにと、江戸へ奉公に出ている。


「母御と離れて、寂しいであろう」

 そう聞いた。お葉ははにかむように笑って、首を振る。

「慣れました。初めの頃は一年に二度、ちゃんと帰ってきたけど、ここって山奥だから、億劫になったみたいで、最近は忙しいらしく、もう二年も顔を見ていません」

 そう言うが、お葉の笑顔には淋しさがあった。


「母が子に会いたくないわけがない。それが山奥であろうとな。何か事情があるのであろう」

 お葉は破顔した。

「そう言ってもらえるとうれしい。少し気がらくになりました。なにか帰れない事情があるみたい。お爺もそこのところで、言葉を濁すんです。よくわからないけど、うちへ帰りたくないほど、江戸ってそんなに楽しいところなのか、って思ってしまいます」

 

 あとから知ったことだが、お葉の母親は、この頃から体調がすぐれなかったらしい。その体で江戸から旅をして、この山の家へ帰ることは無理だった。便りにもそんなことは全く書かれてはいない。そんなことを書くとお葉達がいたずらに心配すると思い、何も書かなかったようだ。


 龍之介とお葉はいろいろな話をした。山や毎日の生活など、興味深い話を聞き、龍之介も陣屋での生活を語った。

 龍之介の周りには気軽に話ができる同世代のおなごがいなかったから、たちまちお葉にひかれていた。お葉は目をキラキラさせて龍之介の話を聞く。そして、キャラキャラと明るく笑った。お葉のしぐさ、すべてが新鮮に思えた。


 やがて小次郎たちが戻ってきた。

 弥助という若者は、その刀を見てかなりの興味を示したらしい。そして、任せていただけるのなら、預かりますとだけ、答えたそうだ。

 なんとかしてくれそうだった。刀がどうなるのか、いつごろできるのかわからないが、陣屋から探しにくるまで龍之介はここに留まるつもりでいた。老人もそれで納得してくれた。


「けんど(けれど)研ぎ終わる前にもし、陣屋からのお使者がきたら・・・・・・」

 

「その時は龍之介がここにいると申し出てくれ。そなたたちには迷惑はかけられぬ」


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