龍之介の思春期1
そう、お葉は龍之介にとってただの村の娘ではなかった。それを小次郎と弥助は知っていた。
あの頃、龍之介は十三歳。少年の体から少しづつ大人びてくる年頃だった。急に背も伸び、風邪をひいたのかと思わせる声変わりも始まっていた。そんな自分の体の変化に戸惑い、気恥ずかしかった。二歳年上の小次郎の存在が頼りだった。
しかし、体つきが大人びてもまだ精神は子供のままだ。しかし、あからさまに子ども扱いされると面白くなかった。
龍之介は桐野の次男だ。本来なら江戸屋敷に、年の離れた兄と一緒に住むべきなのだが、養生のためと幕府に届け出て、特別の許可をもらい、甲斐大泉で育っていた。
一年おきに戻ってくる当時の藩主の父はその度に、龍之介が大きくなったと大げさに言うが、そのこと自体が子ども扱いされていると思っていた。いわゆる反抗期である。
その頃は兄という存在の正重の顔を知らなかった。親子ほど年が離れていた。もうこの頃には、兄とは母が違うと確信していた。誰も龍之介の母のことを語ろうとはしなかったからだ。今となって考えれば、養子ということも伏せられていたし、誰も生母のことを知らなかったとわかる。
兄の正重は、龍之介と交流を持ちたいということで、かなり頻繁に文を書いてくれた。龍之介もその都度、きちんと返事を書く。だから、直接顔を合わせなくても兄の正重のことはよく知っていた。
父がそろそろ隠居をし、嫡男の正重が家督を受け継ぐという時だった。
その日は、甲斐大泉の陣屋にはあまり人けがなかった。朝から父が大勢を引き連れて、鷹狩りに出かけていた。
その前の晩、龍之介は父に子ども扱いをされ、むくれていた。
父はいつも名刀の虎徹を自慢していた。その輝きもさることながら、切れ味も優れていた。前の晩もその刀を抜き、手入れをしていた。その傍らに座り、その様子を見ていた。父にぜひ、その刀に触れたいと申し入れていた。
「よいぞ」
少しくらい渋るかと思ったが、父はいとも簡単に承知した。ヒョイと投げるように渡してくる。
その名刀は普通の刀よりも少し長く、重かった。それを知らなかった龍之介はいきなり刀を手にして、ずしりとくるその重みによろめき、両手を添えなければならなかった。片手では持てなかったのである。
兄の正重もそうだが、この父も人をからかう癖がある。
「刀に振り回されるとは、まさしく、このことじゃな」
そう言って笑われていた。
その頃、何にでも興味を持ち、自分に自信があった龍之介は少し生意気だった。こともあろうことか、父とはいえ、一国の藩主に食ってかかった。
「このようなものに、拙者が振り回されたと申されますか」
「これは失敬」
口ではそう非を認めていたが、父が全くそう思っていないことがわかっていた。しかし、もうそれ以上何も言わずにいた。その後、龍之介は悔しくて眠れない夜を過ごした。
翌日、誰もいない父の居室に入り込んだ。
本当なら父と共に鷹狩に出掛けるはずだった。しかし、腹痛がすると仮病を使い、陣屋に残っていた。
龍之介は、誰もいないはずの父の居室へ入り込んでいた。その床の間に置いてある、くだんの名刀を手にしていた。
今度はその刀を片手で持つことができた。鞘を抜く。
昼の日の光の下で見ると、その刀の素晴らしさがよくわかる。他の刀にはない光沢があった。さすがに名刀と言われる刀だ。
夕べ、龍之介が刀を受け取った時、この刀は重いと知っていたら、なんの問題もなかったのだ。
ごくりと息を飲む。
欲しかった。
しかし、これはそろそろ隠居される父から、藩主となる兄へ渡されるだろう。桐野の家宝の一つだ。次男である龍之介には縁のないものだ。そう自分に言い聞かせた。
それを一振りしてみた。ビュッと風を切る音。その快感に肌が粟立った。
そんなことをしていると、誰かが隣の座敷へ入ってくる足音が聞こえた。慌てふためいた龍之介は、そのまま刀を手にして障子の向こうに隠れた。
それはどうやら父の側近らしかった。片づけを始めていて、すぐにはその居室から出ていかない様子だった。
刀を抜いたまま、廊下に立っていては、誰か他の者の目に触れるかもしれない。龍之介はそっと刃を鞘に納め、誰もいなくなってから、そっと戻そうとそこを離れた。
自分の部屋に戻るとその気配を感じてか、小次郎が姿を現せた。
「お加減はいかかでしょうか」
「うん、もうなんともない」
元々は仮病なのだ。
小次郎もそれを悟っていたはず。それなのに、龍之介の顔を潰さないようにそう言ってくれていた。
「それでは馬で遠出に参りましょうか。お供いたします」
少し迷ったが、何も言わず、名刀を腰に下げ、馬に乗った。
どうせ父たちが陣屋に帰ってくるのは夕暮れ近くになる。その前に戻ってきて、刀を元の場所へ返せばいい。そう気軽に考えていた。
今日はいつもと違う山の方面へきた。なんとなく、人目を気にしていた。誰もいない林に入り、小次郎にその名刀を抜いて見せた。
小次郎の顔が厳しく変わる。一目で龍之介の持ち物ではないとわかったからだ。
「龍之介様、これは・・・・どうされましたか」
その言い方が、一体何をしでかしたのかと責めるような口調だった。それが気にくわなくて、ぷいと背を向ける。
「父上の虎徹だ。ちょっと失敬してきた。すごいであろう」
小次郎の顔を見ずに、林の中で振り回した。空を切る音に聞きほれていた。
「悪いことは申しませぬ。すぐにその御刀をお戻しください。陣屋へ帰りましょう」
小次郎がかなり厳しい声をあげた。
まだ若い龍之介と小次郎だった。自分も悪いことだとわかっているが、面と向かってそう言われると素直に言うことが利けない龍之介で、そんな反発の心を煽らないようにうまく言う器量も、当時の小次郎にはまだなかった。
「大丈夫だ、もう少しだけこうして振り回していたいだけだ。気がすんだらすぐに返す。どうせ、お父上はすぐには戻ってこない」
そう言ってクルリと背を向ける。小次郎もそれ以上は強く言えなかった。
「今夜はこれをお父上の目の前で振ってみせるのだ。夕べは片手で持てず、笑われたからな」
龍之介は、小次郎の沈黙を自分への肯定だと受け取っていた。
その刀で構え、振り回すだけではつまらなくなり、木から落ちてくる葉を斬る。しかし、うまくはいかない。小次郎に葉を投げさせてみた。そんなことをして遊んでいた。
一時ほどそうしていると、さすがの龍之介も飽きてきて、次第に刀への執着はなくなっていた。それと同時に、名刀を持ち出したことの重大性が実感されてきていた。
もしかすると今頃、陣屋では大騒ぎになっているのではないかと思う。家臣の一人が名刀がないことに気づき、探し回っているかもしれない。盗難だと思われていたらどうしよう。一刻も早く、刀を戻さなければと焦り始めていた。
「そろそろ戻るか」
その焦りを小次郎に気づかれないように、わざとのんびりとして言う。
「はっ」
小次郎はほっとした様子だった。
馬を林の手前につないでいた。その方面へ足を向けた時だった。
目の前の茂みからがさっと音がした。そこからいきなり猪がとびだしてきたのである。向こうも人の足音に驚いたのだろう。
突進してきた。龍之介は刀を抜いていた。しかし、間近に迫る猪に恐れおののいて、刀を振りながら身を翻した。その拍子に刃は空を斬り、木に当たっていた。
ガツっという鈍い音がした。
「あっ」
龍之介はその衝撃に刀を落としていた。
小次郎がすかさず近寄ってくる。
「龍之介様、お怪我はございませぬか」
声を上げたから、猪に蹴られたのかと思ったらしい。猪はもう姿が見えなくなっていた。
「大事ない。それよりも刀っ」
あの名刀が木にあたり、地面に転がっていた。恐る恐る刀を拾い上げる。
誰の目にも明らかな刃こぼれがあった。いくら名刀でも、相手が太木では勝ち目がなかった。打ちどころも悪かったのだろう。
龍之介はその刀を手にして青ざめていた。小次郎もそれを察し、口をつぐんだ。
大変なことになった。刀を黙って持ち出したことさえ、大事なのに、その刀に傷をつけてしまった。もうなにもかもお終いだという気分になっていた。
一体、どんなお咎めを受けるのだろう。龍之介は陣屋から追い出されるのだろうか。いや、それならまだいい。責任を負うことになり、龍之介も小次郎までが切腹させられるかもしれない。
それらの想像は十三歳の少年にとって、とてつもなく恐ろしいことだった。
「逃げよう」
そう言った。
龍之介自ら、林の奥へ入っていく。小次郎は何も言わず、その後をついてきた。
林を奥へ進むと山に差し掛かっていた。けもの道らしいところを登った。袴が木の枝にひっかかり、ほつれても気にしなかった。もうそんなことにかまってはいられない。
そのうちに雨も降ってきた。高い木が生い茂った山の中だが、二人はずぶ濡れになっていた。少しでも遠くへ逃げることしか頭になかった。
ふと小次郎のことを思った。何も言わずについてきてくれるが、小次郎には罪はない。龍之介のとばっちりを受け、お咎めを受けるのはおかしいと思った。今ならまだ間に合う、そう思った。
「小次郎、そちは陣屋へ戻れ。そして、わしを途中で見失ったというのだ。あちこち探し回ったが、見つからなかったと報告せよ。そちには罪はない」
勇気を振り絞って言った。本当は小次郎に去ってもらいたくないのだ。このまま一緒に逃げて欲しかった。けれど、小次郎は龍之介の側近だった。何もしていなくても龍之介と一緒にいたことから、責任を負わされることになる。それならば、龍之介に言い含められたが、途中で見失ったといえば、大人たちを誤魔化せるのではないかと思った。
「龍之介様、それはできませぬ」
凛とした声が返ってきた。その声には揺るぎない心が込められていた。しかし、それを振り切るようにして龍之介も叫ぶ。
「小次郎、これはわしの命令ぞ。行けっ」
「できませぬっ」
ここを去れ、お願いだ。そうでなくてはこのままずっと小次郎を頼ってしまう。
「行けと申しておる。行かぬかっ」
脅す意味で、刃こぼれした名刀を抜いていた。
小次郎に、龍之介はこんな気狂いだったのかと思わせるためだった。こんな頭のおかしい龍之介に仕えていたことに気づき、どうか見捨ててくれと願う。
しかし、小次郎は言った。
「龍之介様のお気がすむのでしたら、どうぞ、拙者をお斬りください」
その目は真っ直ぐに龍之介を見ていた。ただ年齢が近いというだけで龍之介に仕えてくれていた。兄弟のようにして育った。そんな小次郎にどうして刃を向けようとしたのか。龍之介は刀を落とした。
雨の中、びしょ濡れだった。だから泣けたのだろう。こんな龍之介に仕えてくれる小次郎の存在がありがたかった。
「バカだ、小次郎は・・・・」
そう言った。小次郎は泥だらけになった刀を拾い、自分の袴で拭った。それを龍之介に差し出す。
「はい、そのバカは龍之介様におつかいしております故」
龍之介は泣き笑いになった。全ての原因となった刀を受け取り、鞘に納めた。
「どうする。これから」
そう独り言のようにつぶやいた。
「さあ、どうなされますか」
小次郎が言った。
それだけでうれしかった。もし、小次郎がいなかったら、心細くて恐怖に慄いていただろう。