弥助と小次郎、そして龍之介2
そう、忘れるはずがなかった。
お葉は、弥助の実家がある村の外れ、山の中腹に祖父と暮らしていた。三つ年上の明るい娘だった。出会ったのはまだ、龍之介が十三歳のときだ。
「確か江戸の商家に奉公している母の元へ行ったのであろう。それきりどうなったのか、何も聞いてはおらぬが」
弥助は知っているのか、という意味を込めて、視線を向けた。
「はい、数年前、その母が病で倒れ、お葉がその母を養っていたと」
「そうか」
苦労をしたのだと思う。
龍之介の記憶には、祖父の畑の手伝いをしていたので、日に焼けて真っ黒だったが、その澄んだ黒い瞳は美しかったと記憶にある。
「今はどうしている。弥助はお葉に会ったのか」
そういうと弥助はうつむいた。なにかあるらしい。
お葉、母娘のために、その金を使おうとしていたのかもしれない。
「会いました。お葉は、・・・・・・母の薬代のために、身を売ったのです」
「なっ・・・・・・」
あとの言葉が続かなかった。
あのお葉が、金に困窮し、その身を遊女に投じた。そういう事実がすぐには飲み込めないでいた。
「そんなにお葉の母親の病はひどかったのか」
「はい、当初は奉公先の商家にも金を借りて、なんとかやっていたようですが、その病が肺病とわかり、商家から追い出されたそうです」
なるほど、商いをする店に病は禁物。特に肺病はうつるから、そんな噂がたてば客は来なくなってしまうだろう。
「それからはずっと長屋ぐらしで、お葉は朝から晩まで働きづめでいたそうです。あっしもそんなことはちっとも知りませんでした」
弥助は無念そうに顔をゆがめた。
「そのことを知ったのは、あっしが二年前に江戸へ来た時でした。師匠の用事を言いつかって、その帰りに訪ねて行きますと、もうそこにはお葉はいませんでした。長屋の人たちに聞くと、母親が亡くなり、その肺病の薬代だけがお葉に残されたそうです。医者が、お葉からのわずかな返済に業を煮やし、勝手に高利貸しから金を受け取り、その借金をお葉が返すということになっていたそうです」
弥助は、自分のことのようにつらそうな顔になっていた。
「お葉が気づいた時には、何十両という借金になっていたとのことでした。取り立て屋は毎日、朝晩来るし、一日中働いても、一日につく利子にも追いつかない、そんな生活だったそうです。疲れ果てていたのでしょう」
「それで吉原か・・・・・・」
あのお葉が身売りをして、今吉原にいる。そう思っただけで龍之介の心は痛んだ。
男三人がそれぞれの思いを胸に秘め、押し黙っていた。かなり衝撃的な話だった。
そんな時、突然、小次郎が顔をあげ、障子の方を見た。
「誰だっ、そこにいるのはっ」
小次郎にしては、厳しい声だった。
先ほどの話の内容を、誰にも聞かれたくはないからだろう。
「お絹か?」
誰かが障子の向こうにいるらしい。
小次郎がすっくと立ち上がり、障子を開けた。
そこに座っていたのは台所の薫だった。突然の小次郎の声に驚き、身動きができない様子だった。
見るとその手元には、酒とその肴を盆にのせていた。
小次郎が安堵したようにため息をついた。
「薫殿か」
「あ、申し訳ございません。お話の途中でしたので、少しだけここで待っておりました。本当に失礼いたしました」
「いや、それはいいのだが。すまなかった。こちらこそ、怒鳴って脅かしてしまった。お絹には誰にもここへ近づけるなと申しつけておいたから」
小次郎が謝る。
「あ、いえ、そんな。私の方こそ、勝手に失礼いたしました。絹代様はもう百ちゃんとおやすみになられたようです。そのような事情とは知らず、本当に・・・・・・」
薫はまだ手が震えていた。よほど怖かったとみえる。
龍之介がにっこり笑って言った。
「ちょうどもう少し酒が欲しいと思っていたところだ。ちょうどよかった」
薫がやっと笑った。
「母が作りましたタコのから揚げと、お好み焼きでございます。お口に合えばよろしいのですが」
薫がその膳を持って座敷へ入ってきた。弥助が、薫を目で追っていた。
「裕子殿が作るものはいつもどこか違うのだ。洗練されている料理というか」
龍之介は、タコのから揚げを弥助にすすめる。弥助はその皿を受け取り、一つを口に入れた。
「ほう、タコをこうして食べるのは初めて。しかし、うまい」
弥助が褒めた。その一言で薫が顔を赤らめた。
お葉の身売りの話で、少し気分が滅入っていた。薫の出現で、少しは落ち着いてきていた。
龍之介は薫を見て思う。
貧しい生活を強いられている町人や農民の娘は、自分の意志とは関係なく売られていくという。身売りをしている遊女たちは、そうしないと生きてはいけないからだ。彼女たちが汚らわしいのではない。
その生まれた家で、ある程度の将来が決まる。恵まれた商家の娘はいい暮らしができるが、普通の町人は奉公に出され、毎日一生懸命に働いていた。
この薫も両親を亡くしていた。借金もなく、いい人たちに恵まれて、養子になったからいいが、一つ間違えたら大変な苦労をして、吉原へ売られていたかもしれない。
感傷的になった龍之介がそんなことを考えていた。その顔がよほど思いつめた様子だったのだろう。薫が神妙な顔をする。
「あの・・・・」
それに気づき、話題を変えた。
「雪江はどうだった。今日も顔を見に行ってくれたのだろう」
今日は龍之介は足を運んでいない。
「はい、雪江様はお元気でございます。海辺の散歩、そしてその絵を描いていました。文をお預かりしております。中奥の方に届けてございます」
「そうか、文の返事は明日の朝、早々に書くとしよう。明日、行くときにそれを持っていってくれるか」
「はい、かしこまりました」
薫がちらちらと弥助の方を見ていた。そう言えば雪江がここを出るときに、この二人は会話をしていたということを思い出していた。
「弥助、こちらは我が屋敷の台所役人徳田厚司、裕子の娘、薫だ」
薫が慌てて頭を下げた。
今度は弥助を紹介する。
「薫、こちらは甲斐大泉ではその名を知られている刀剣研ぎ師の弥助。今、所用でこの江戸に来ているもう少しここに滞在するかと思う」
二人が出会った事情を聞いていた。この大勢の人でにぎわう江戸で助け、再び出会うということの偶然。薫は弥助のことをかなり気にしている様子だった。そういう年頃なんだと気づいた。
この世には大勢の男女がいる。その人たちが出会い、その心をときめかせ、一緒になれるにはどのくらいいるだろうか。その時の年齢、身分、事情が許されないかもしれない。いくら好き同士でも一緒になれないことの方が多い気がする。心を殺して、嫁に行かなくてはならないこともあるだろう。この世にいる男女の数だけ、そのような物語が生まれるのだと思う。
弥助は一通りの料理を口にしていた。薫は酒を持って龍之介たちに振る舞う。
「薫さん、ご馳走さまでした。どれもおいしくいただきました。お母上様にもよろしくお伝えください」
薫が弥助の言葉ににっこり笑った。心から嬉しいという顔だった。薫は頭を下げて出ていった。