雨降って地かたまる 雪江・龍之介
雪江はその夜、一人で龍之介のところで寝ていた。龍之介が気遣って、小次郎のところへ泊っていた。
一人きりになると、今日一日のことが一度に頭の中を巡る。
タイムスリップ、住むところはなんとかなりそうだが、慣れない長屋での生活、すべてが不安材料になっていた。
もうあの世界に戻れないのか。なぜ、雪江はこの時代に来たのだろう。次々と疑問が沸き起こり、答えが出ないまま、消えていた。
一人でずっと泣いていた。涙が枯れるまで泣こうと思った。
でも、ここには頼りになる先生たちと何でも相談できる裕子と徳田もいた。それだけが救いだった。
【龍之介】
あれから数日がたっていた。相変わらず、龍之介の部屋に雪江は寝泊まりしていた。龍之介も夜だけは、小次郎と寝る。
雪江は、とりあえずやることがないため、中州の旅籠と料亭を手伝うようになっていた。
もうあきらめたのだろうか。表情が生き生きとしていた。今は着物の着付けもなんとか一人でできるようになり、お絹に帯を締め直してもらえばいい程度になった。
以前から考えれば上達したものだった。しかし、釜でご飯を炊くことはまだだった。
雪江の時代では、米をといで用意するだけで、ご飯の炊ける便利な道具があるそうだ。それがあれば、今のお内儀たちの苦労は一変するであろう。
毎日雪江は、うす暗くなると帰宅し、風変わりな夕餉を食べさせてくれた。料亭で何やら怪しいものを作っては試食をしているらしい。
龍之介たちの口に合うか、試したいとのことだ。龍之介も小次郎も好き嫌いがないので、別段、食べられないものはなかった。しかもそれらは新しい味でむしろ、美味だと思う。
元々好き嫌いを言うことが許されなかったということもある。上に立つ身分のものがあれこれ言うことは、家臣たちに困惑させるからだった。龍之介が嫌いだというだけの理由で一皿を残せば、それを作ったものが叱責をくらう。それを知っていて、わがままは言えなかった。
今夜から小次郎がいない。
甲斐大泉からいよいよ葵が出発するので、途中の地まで迎えに行くため旅立った。
葵は、甲斐大泉藩の家臣の娘で、昨年までは龍之介の許嫁だった。
今回の葵の江戸入りは、江戸屋敷の方には伏せてあるため、葵につく護衛は少ない。それでは甲州街道は物騒なので、小次郎が小仏峠の宿場まで出掛けることになったのだ。
龍之介は手習い所(寺子屋)の手伝いをして、長屋に帰ってきた。いつもなら、その寺の中庭を借りて、小次郎と剣の練習をするが、数回の素振りで戻ってきた。
騒がしい長屋は相変わらずだが、龍之介のところは静かだった。なんとなく落ち着かない。
そして、今日の雪江の帰りは遅かった。いつもなら、外はまだ明るく、家の中では行燈に火をともすくらいの時刻には帰ってくる。小次郎がいないため、一人待つのも長く感じられた。
雪江が帰ってきたのは、陽もどっぷり暮れ、人の顔がわかるかどうかという時刻になったときだった。その間、二回ほどお絹が顔を出し、酒と小魚をあぶったものを持ってきてくれた。それをちびちび飲みながら食べていた龍之介だった。
「ただいま、遅くなってごめんね」
雪江の声はいつもより元気で明るかった。手にはなにやら新しい匂いのする料理の入った籠を持っていた。
雪江の笑顔を見てイラっとした。気づいたら怒鳴っていた。
「こんなに暗くなるまでの仕事なら、やらなくてよしっ」と、思ってもいない言葉がすらすらと出た。そして仏頂面で目をそらしていた。
本当は雪江のことが心配だったのだ。いつもより遅いから何かあったのかもしれないと考えていた。そこへのほほんとした雪江が帰ってきて、安堵したのと同時に、心配掛けたことへの怒りがわいたのだった。いつもなら小次郎が先に状況を察してとりなすが、今夜はいない。
普通のおなごなら、そう、特に葵ならば、龍之介に怒鳴られたら、真っ青になってひれ伏し、謝るところだろう。そして、後に物陰でひっそりと泣くのだ。
しかし、雪江は違っていた。ぷうと膨れる。
「遅くなってごめんっ、て言ったじゃない。少し遅くなったけど、毎日毎日陽が短くなってんのよ。同じ時刻に帰っても、今日の方が昨日よりも早く暗くなっちゃうんだから」
と、口答えしてきた。それも怒りに拍車をかける。
「おなごというものは、ごちゃごちゃ言わぬもの。黙って「はい」とだけ言っておればいいのだ」
そうだ、武家の女子は皆、そうしている。
「冗談じゃないわよ。男がいつも正しいと思ってんじゃないでしょうね。大体、・・・」
ぴしゃりと音が響いた。気づくと雪江の頬を打っていた。
一人で酒を飲んでいたから、酔っていたのかもしれない。雪江の反論に歯が立たず、黙らせるにはこれしか手がなかった。
雪江は目を見開いて驚いている。今度こそ、涙が出るのではないかと今更ながら、ビクビクしている龍之介だった。
そうなったら、やさしく肩に手をかけて、すまぬ、と言った方がいいのか。
おなごの涙に慣れていない龍之介だった。
そんなことを龍之介は考えていたが、雪江は全く別の行動をとった。雪江は龍之介に飛びかかっていた。
ふいに体当たりされた龍之介は、雪江に畳に押し倒された。咄嗟に柔術の受け身の態勢を取り、雪江を抱きしめたまま、ごろりと転がった。雪江が床に寝て、龍之介がその上に覆いかぶさるような体制になっていた。
「龍之介のバカ、バカ、バカ」
雪江は胸の辺りに顔をうずめ、手は龍之介の顔をぴしゃぴしゃと叩く。
敢えて、その手を避けず、叩かれていた。自分でも大人気ない行動だったと思う。されるがままになる。何十倍もの仕返しを受けていた。
やがて、その手をつかむ。
「・・・・・すまぬ。殴ったりして・・・・・」
男たるもの、自分が多少悪くても女子に謝ることはすべきでないと、周りに教えられていた。女子は黙って男についてくるようにしつけられている。男が甘い顔を見せると、女子はつけあがると言われてもいた。
龍之介には年の離れた兄がいる。兄は甲斐大泉の藩主を務めていた。誰にも厳しい人だ。しかし、兄は自分が間違ったことを言うと、それを素直に受け入れ、家臣にも頭を下げた。自分にも他人にも厳しい人だから、できることなのだと思う。自分もそうありたいと思っていた。
雪江は武家の作法も面子もなにもない。自分に正直に物を言い、感情を露わにしている。わかり過ぎて困ることもあるが、こちらも余計な気を使わなくてもいい。だから、龍之介は素直に謝ることができたのかもしれない。
葵のように、一度も龍之介に逆らわず、ひたむきに尽くされても重荷なのだ。相手が何を考えているのか全くつかめない。だからと言って温和な性格なのかと思っていたら、小次郎の姉が、葵はかなり気が強いと言っていたらしい。そのことを聞いてから、葵が少し恐ろしくなった。いつも別の仮面をかぶっているように思えた。
そんな時、龍之介の立場が変わり、身分違いということで破談になった。葵には悪いが、正直に言うと安堵した。
武家の縁談は自分の意志ではままならない。家同士の縁組がほとんどだからだ。男も女も黙ってその縁組を受け入れる。
「謝んないでよ、悪いのは私なんだから」
雪江は龍之介の襟もとに口を押しつけて、もごもごと恥ずかしそうに言った。
そのしぐさにドキリとした。体中に熱いものが走った。なんなのだ、この感情は。
雪江の手からは力が抜けていた。その手をどけて、雪江をそのままギュッと抱きしめた。キャンという子犬のような声が発せられたが、雪江もそのままにされている。
女子というものは、柔らかくて、このようにずっと抱きしめていたいと思える愛おしいものなのだと改めて思った。
しばらくそのまま二人、畳の上で横たわり、抱き合っていた。もう雪江も怒ってはいなかった。かなりの至近距離で見つめ合う。
そんないい場面に、ガラリと表戸が開いてお絹が入ってきた。あわてて離れる龍之介と雪江。
お絹はその様子を見て、声を荒げる。
「なにやってんだい、二人とも。小次郎さんがいないからって、もう」
「あ、いや、別に・・・。雪江が体当たりしてきたから、よけ損ねて転んでしまったのだ」
珍しく、龍之介から言い訳をする。お絹は怪しそうにじろじろと二人を見ていたが、いい匂いのする料理に目を向けた。どうやらそれが目当てだったらしい。
お絹はわざと龍之介と雪江の真ん中に座った。そんな邪魔者を真ん中にして、遅い夕餉となった。
大ゲンカの末、龍之介は雪江と一歩も二歩も近づけたような気がした。