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正重

 久しぶりに、新太郎に叱られていた。


 その昔、のんびり構えすぎていた時や、身のほど知らずの行為をしたとき、よく叱られた。正重は、自分が厳しく言われなければ気づかない、のほほんとした己の性格をよくわかっていた。

 シンがそばにいてくれたから、そうしていられる安心感もあった。全面的に、シンに甘えた正重だった。


 新太郎も久四郎も、その姿は昔の侍ではない。雪江の時代に生まれ変わった徳田裕子と厚司だった。二人を前にして、目を閉じるとあの時と同じ氣が発せられていることがわかる。

 昔は正重を、そして今は大事な娘の雪江を守ってくれていた。


 今宵は、家老の村上明実も連れて、徳田家の屋敷へ来ていた。


 徳田(厚司のこと)と裕子が平伏していた。

「よい、二人とも。面を上げよ」


 裕子が、涼し気な目元を緩め、顔をあげた。徳田は、その口元を引き締め、どことなく緊張しているようだ。いつもの、この男らしくない。

「今宵は村上も一緒。是非にも二人と話がしたいとのことでな」


 村上は、二人が新太郎と久四郎の生まれ変わりだと聞いているが、二人を見てもまだ信じられない様子だった。村上が受け入れられないなら、それはそれで仕方がないとは思う。


 徳田家の座敷の奥、中央に正重が座り、村上はその右側に中をむいて座り、徳田たちはその向かいにいた。膳には正重の大好物、揚げ出し豆腐とひじきの白和え(ひじきの煮物に砕いた豆腐をあえた)が出されていた。


「村上様、お久しゅうございます。お元気そうで、なによりでございます」

 そう裕子が手をついて、頭を下げた。

 徳田も同じように頭を下げる。


「そなたたちは、誠に・・・・・・あの新太郎殿と久四郎殿か」

 その問いに、徳田はわずかに皮肉な笑いを浮かべた。

「まあ、そうでもあり、そうではないと申し上げる他、ございませぬ。あの当時までの記憶はございますが、それが自分の記憶かと問い詰められますと、わかりかねます」


 村上がピクリと頬を動かす。

「あの、当時までの記憶・・・・・・」


「はい、あの・・・・奥向きでの大惨事。その後は、この徳田厚司の記憶でございます」

 それを聞いて、村上が黙った。そして信じられないとばかりに、勢いよく酒を煽った。しかし、徳田のその言葉で、あの場にいた久四郎だと認めたようだ。あの時のことは今、桐野のごく一部の家臣のみ、知ることだった。一介の台所役人がそのことを知っている、それだけで充分だった。


「こうして再び、シンと久四郎に会って話ができるとは思ってもみなかった」

 そう正重は言った。

 一度、死別した二人だ。正重をずっと支えてきてくれた大切な二人。


「はい、わたくしもまさか、このような日が来るとは夢にも思いませんでした」

 そう言い、裕子が酒を注いでいた。村上にも酒をすすめている。


 今夜はここへ酒を酌み交わしにきた。だから、正重の服装は、普段中奥で来ている着流しに袴をつけただけの気軽な格好だった。一時(約二時間)ほどしたら、また上屋敷へ戻らなければならない。他の家臣らが見かけても、すぐには藩主の正重だとはわからないだろう。忍んで来ていた。





 まだ、あの夜のことを思い出すと胸が痛んだ。

 加藤家の家臣たちが、桐野の奥向きにいる龍之介をさらおうとして、側室だった綾を斬り、シンと久四郎を殺していた。


「二人は今、幸せなのだな」

 そうぽつりと言うと、二人は改めて顔を見合わせ、微笑みあう。

「はい、お蔭さまで、今は丸くおさまっております」

 徳田が失笑していた。

 もし、あの時何事も起こらなかったら、あの時のシンと久四郎は、お家のためにそれぞれが嫁をもらっていただろう。衆道の二人は絶対に一緒にはなれなかったのだ。


「タカ様は・・・・・・あれからどうなされていたのかと思うと・・・・・・この身が震えます」

 そう裕子が言う。

「ん・・・・・・」

 それに答えようとしたが、それよりも先に村上が我慢しきれずに、肩を震わせ、むせび泣いた。


 裕子と徳田が驚いていた。

「村上、そちは、また、このわずかな酒で・・・・・・」


「正重様、面目次第もございません。この村上が至らぬばかりに、正重様につらい想いをさせておりました。誠に、誠に・・・・」

 村上は、涙に声を詰まらせる。

「まったく・・・・・・」


「この村上は、この二人の代りを務めようと必死でございました」

「もうよい。そちは・・・・・・。充分やってくれていた。有難く思っている」

 正重は息をついて、裕子と徳田を見た。

「あれ以来、村上は酒が入ると、こうなのだ。元来、酒に弱いのに泣き上戸ときている」


 村上は泣きながら叫ぶ。

「それがしは、泣き上戸ではございませぬっ」

「あい、わかった。わかったから泣くな」

 正重は、子供をあやすようにやさしく言った。頼もしい家臣なのだ。


 そう言いながらも、その時のことを思い出すように遠い目をして酒を煽った。

「わしはな、・・・・・・あれからの一年ほど、なにも覚えてはおらぬのじゃ」


 二人がはっとしてみていた。


「幸か不幸か、全くな。毎日の日課を淡々とこなし、心を殺して過ごしていたのであろう。なにを見て心を動かされたのか、なにに笑い、なにに怒ったのか、全く覚えがない」

 それを聞いて、裕子と徳田の顔が引き締まっていた。村上がさらに泣く。


「成長が楽しみだった龍之介も、あの後すぐに甲斐大泉へ送っていた。もうなんの楽しみもなくてのう・・・・。それでも人はすごいと思うぞ。あのような心の張り裂けるような思いをしたというのに、わしは生きていた。今もこうしてな。時が少しづつ癒してくれたのであろう」


 徳田までが肩を震わせ、拳に力が入る。そして下を向いた。

「よさぬか、久四郎。そちまでなんだ。この村上がな、ずっとわしの側にいてくれたのだ。むさくるしいと言っても側を離れなかった。そしてこの正重が、月を見て遠い目をしているとな、横でこの男が泣く」

 正重がその情景を思い出してクックと笑った。

「自分が泣きたくても、目の前で他の者が泣いているとな、己は泣けないものなのだ。あれからずっと村上がこの正重の代りに涙を流してくれていたのじゃ」


「正重様っ」

 村上が泣きながら、言いすぎだと抗議していた。正重はその声に思わず首をすくめる。


「周りからの配慮から、あの後、二年くらいして正室を迎えていた。もう綾は手厚く葬っていたから、受け入れることができた。貴世は公家のかわいらしい姫だった。けれどその貴世も五年前に風邪をこじらせてあっけなく逝ってしまった」


 その場が静まり返っていた。

「今は貴世の侍女だった恵那が、心の伴侶として側にいてくれる」


「はい、恵那様もできたお方で・・・・・・」

 まだ村上が泣いていた。

「もう泣くな、村上。こうしてシンと久四郎が戻ってきている。それに綾の忘れ形見、雪江もおるのじゃ。のう、もう泣くな」


「はい、誠に・・・・信じられません。このような日が再びこようとは」

 村上が新たな涙を流していた。今度はうれし涙のようだ。


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