薫
翌日のこと。
雪江が旅籠「あかり」の離れに移ることになった。当座の荷物は後で届けることにして、朝から雪江の支度に追われていた。
裕子母に叱られたと聞いた。十四日も離れに暮らすとのことだ。あちらはあちらで楽しいと思うが、正和と離れ離れになることは寂しいだろう。
その間は、薫が雪江のところへ通い、一日相手をしてやってほしいとも頼まれていた。
裕子母は口では厳しく叱っていても、内心は心配していた。
今まで揺れるからと駕籠に乗らなかったが、お腹のややにさわらないようにゆっくりと進むようにと担ぎ手が指示されていた。
見送りに、雪江の友人であり、小次郎の妻でもある絹代が百を抱いて出てきていた。その横にいる人を見て、どきりとした。
それはいつか、薫がよろけて転びそうになった時、支えてくれたあの人だった。
なぜ、あの人がここにいるのか。胸が早鐘の如く、打っている。
きっと薫のことなど覚えてはいないだろうが。あの人はしきりに小次郎に話しかけていた。そこへ龍之介が加わる。この三人は昨日今日、知り合った仲ではないとその会話からわかった。それも若様である龍之介にも親し気な内容のことを言っていた。昔からの友達なのだろうか。
不思議な空間だ。しかし、どうみてもあの人は職人らしい格好をしている。桐野の家臣ではないようだ。
雪江が駕籠に乗ろうとして、振り返る。
「ねえ、りゅうのすけ、あ、え~と正和さま。毎日、会いに来てくださいね」
いつもの雪江ではなかった。少し淋しそうで心細そうだ。
「毎日とはいかぬかもしれぬが、なるべく顔を出そう。行かれぬ時は文を書く」
雪江の顔が曇る。
雪江は文が苦手なのだ。
「じゃあ、書く時は丁寧に一字づつ楷書で書いてよ。読みにくいんだから。そして、話す言葉にしてね。なんとか候とか、やめてね」
今度は龍之介の顔が曇った。
「何やら、面倒な」
「どっちが面倒よっ。喋った言葉、そのまま書けばいいのっ。それともマンガにしてくれる?」
出発間際だというのに、雪江が無理難題を言っていた。
「あのようなふざけた絵が描けるかっ」
「ふざけたってなによっ。龍之介さんだって、面白いって見て笑ってたでしょ」
「それは雪江が描くからであろう。それに喋った言葉をそのまま書くなどと武士としての質が問われる」
「いいじゃないっ、妻に書くんだから。誰にも見せないわよっ。頑固者」
このままでは二人の大喧嘩が始まりそうだった。
小次郎が龍之介にそれとなく、注意を促す。
はっとした龍之介がにっこり笑った。それでその場の空気が変わった。
「あい、わかった。雪江の申す通り、わかりやすい言葉で一字づつきちんと書こう。その代り、雪江は習いたての行書で書いてみよ。そしてたまには絵もかいてほしい。よいな」
雪江も咬みつきそうな顔が、穏やかになっていた。
「うん、わかりました。ありがとう。あの・・・・・・こんな妻でごめんね。一緒にいられなくって本当にごめんなさい」
雪江が恥ずかしそうにそう言って、駕籠に乗り込んだ。
いつもそう思っていても言えなかった言葉なのだろう。龍之介が穏やかになり、雪江も素直になっていた。龍之介が赤くなっていた。
口の中でブツブツと「このような大勢の面前で、言わなくても」と言っていた。
しかし、龍之介がそのことを嬉しく思っていることが誰の目にもあきらかだった。
薫も、そんなにお互いのことを思えるということがうらやましいと思った。薫もいつかはそんな人に巡り合えるのだろうか。ふと、小次郎の後ろにいるあの人を見た。
「あ、薫ちゃん。私の絵の道具、忘れ物、ないよね」
雪江が駕籠の戸を開け、顔を出して言ったから、一同が一斉に薫を見ていた。もちろん、あの人もこっちを見ていた。その視線を感じている。
「はい、忘れ物がないように確かめてございます。他にもまだ必要でしたら、すぐにお持ちいたしますから」
そういうと雪江は安心したかのように戸を閉めた。
さあ、出発だ。薫はあの人を意識して、雪江を乗せた駕籠の後ろを歩きはじめた。
「ああ、いつぞやの娘さん」
そう声をかけてくれた。覚えていてくれたのだ。
「ああ、はい。あの時は・・・・本当にありがとうございました」
行かなければならなかった。薫はそう言って深々と頭を下げた。
小次郎の屋敷にいるらしかった。それだけわかればいい。この敷地内にいるのだ。きっとまた会える。
薫はうれしかった。駕籠のお供をしながら、あの人の顔を思い出すと、思わず自分の顔がにんまりしてくるのがわかった。一緒に歩いているお初に見つかった。なにを笑っているのだろうと、きょとんとしてこっちを見ている。すぐさま、顔を引き締めて、何でもないと首を振った。
旅籠「あかり」の離れに着いた。雪江は少し疲れたらしい。奥の部屋で横になるという。
お初は、雪江のお召し物を衣紋掛けにかけていた。
「もし差支えなかったら、薫殿、このまま雪江様がお目覚めになられるまで、そこにいてくださるか。そうしてもらえると助かるのだが」
お初は、雪江の持ってきたものをすべて広げ、箪笥やら引き出しに収めるつもりらしい。几帳面な侍女だった。
「はい、喜んで、仰せの通りに致します」
お初も、薫が雪江のことを慕っていることを知っているから、安心した顔を向け、隣の座敷へ行った。薫も少し物思いにふけりたい気分だったから、こんな空間がありがたい。
台所で働くことは楽しい。しかし、慌ただしいからその目先のことに触れ、自分の考えにふけるような時間がなかなかとれなかった。
屋敷へ帰っても、裕子母の手伝いや家のことをする。下働きの下男、下女もいるが、裕子母はなるべく自分たちができることは自分でしたい方針だった。それらが終わって自分の部屋へ入っても末吉がいた。まだまだ子供だから、薫にまとわりついていた。そろそろ薫を女性として気を使ってほしいのに、突然部屋へ入ってきたりしていた。
布団へ入るとすぐに寝入ってしまう。それもありがたいことだが、体も心も成長期の薫は、もっといろいろなことをゆっくり考えたかった。
雪江は、良く寝ていた。いつも元気いっぱいで、厚司父さんとよくいじり合い、笑っている。そんな雪江も身重の体になり、母になろうとしている。
別の時代に生まれ、育った雪江がこの桐野家の姫だった。そんなことの不思議、そしてその姫に出会った薫もその生活が変わっていた。もしあの時、雪江と出会わなかったら、きっと今でもなにも期待せず、淡々とした日々を過ごしていたんだろう。
あのお方のことを思い出していた。桐野の中屋敷にいたとは思わなかった。小次郎のところにいる客人のようだ。いつまで滞在するのだろう。侍のようには見えなかった。あの人にもう一度会いたいと思っていた。
「ねっ、薫ちゃんってさ、急にきれいになったよね。なんかあった?」
眠っていると思っていた雪江が、いつのまにか悪戯っぽい目で薫を見ていた。
「起きていらっしゃったのですか」
ばつの悪い思いだ。
「うん、でもよく寝た気がする。もうすっきりしてるから。こんな距離を駕籠に揺られただけで疲れちゃうなんて、だめだよね。運動不足みたい」
そう言いながら、雪江が体を起こす。薫は慌ててその背を支えて、起き上がるのを手伝った。
「食べ過ぎだったって自分でも思う。いくらお父上様が勧めてくれたからって、それに甘えてた。でもね、あのままだったらきっと私、まだ、お父様の勧めるままに食べてたよ。よかった、裕子さんがいてくれて」
薫に向けての言葉だと感じた。裕子母への感謝の気持ちだったから。
「裕子さんが叱ってくれたから、私もお父上も目が覚めたって感じ」
雪江は、ダメな親子だよねと言って笑っていた。薫には恐れ多くて一緒には笑えないが、安心していた。
そう言ってもらえて本当によかったと思う。
「やっぱ、体が重い。すぐに疲れちゃう。反省、反省」
そんな雪江の言い方が可笑しくて、薫はケラケラ笑った。
ふと思った。
そうだ、雪江に聞いてみようと。あの人がなぜ、桐野の中屋敷にいたのか。どういう用事で来ているのか。
「雪江様、あの中屋敷で見送られました時、普段はお見かけしないお方がおられました。お武家さまでもないご様子。ご存じでございますか」
「ん?」
雪江が思い出していた。
「ああ、あの人ね。薫ちゃんとちょっと話していた、あの人のことでしょ」
「はい」
「確か、小次郎さんの家にいる。古い知人って聞いた。刀を研ぐ人なんだって」
刀を研ぐ人、それは刀剣の研ぎ師のことだ。
「お絹のところへ行くと、最近、いつも中庭の隅で刀を研いでた。弥助さんって言ってた気がする」
弥助・・・・・・。研ぎ師だった。
「甲斐ではかなり有名な人なんだって。だからあのお父上様が毎日、弥助さんに会いに来ていたの。その度に私へのお土産を買ってきてくれていたってわけ」
なるほどと思う。
「ねえ、その人がどうして薫ちゃんを知ってるの?」
「あ、実は、先日、町で届け物の途中、転びそうになったところを助けていただいたお方だったのです。それでお顔だけは印象にございました。まさか、あそこで再び会うとは思ってもみなかったので」
「へえ、すごい偶然。それで薫ちゃん、一目ぼれってわけね」
「いえ、そんなことは・・・・・・」
薫は真っ赤になっていた。口で否定しても顔が肯定していた。
「いいよ。ごめん、からかったわけじゃないの。わかるよ。あの人、きりっとしていてけっこう恰好いいもん」
雪江は起きて外を散歩するという。薫もその後に続いた。
「人を好きになるっていいことだよね。恋をするとものすごいエネルギーが取り巻く感じがする。こういうのが女性をきれいにするんだよ」