体重測定
徳田には悪気はなかった。そう、その通りだったからだ。雪江や徳田にとって、大福一個や羊羹半分くらいなら、食べ過ぎに値しないのだ。
しかし、裕子の考えは違っていた。
「雪江ちゃん」
「はいっ、ごめんなさい」
先に謝る。
「なにを謝っているのかしら? 謝るってことは、自分が悪いことをしたと思っているってことよねぇ。でも雪江ちゃんは、私の言ったことがまだ、ちゃんとわかっていないみたいに見える。ダメってことをしているらしいのに」
低音の声で、ゆっくりと言われる。こういう時はものすごく裕子が怒っているときなのだ。
「あ、わかってます」
ああ、どうしよう。どうすればここから無事に奥向きに戻れるのだろう。いろいろと思案するが、全く思いつかない。
その修羅場に、お初がやってきた。
「雪江様、殿がお越しになられました」
「あ、はい。お父上様が・・・・。すぐに行かなくっちゃ」
実にいいところにお初が来た。父上が雪江を訪ねてきた。すぐに行かなくては。
その場を去るいい口実ができたとばかりに、去ろうとしていた。
「これを、皆で食べるようにとのことでいただきました」
お初が大きな箱を二つ持っていた。中には昨日言っていたかき餅が入っていた。
「あら、すごい」
雪江は、それを知っていたが、今初めてわかったかのように大げさに言ってみる。
そして平静を装い、なにげなくお初の横を通り過ぎようとした。
こんなにやばい場面は、さっさと逃げるに限る。しかし、お初が言った。
「雪江様の分はあちらにございますので、ご心配ご無用にございます」
そのお初の発言に、裕子の目が光った。
「あら、そうなの。雪江ちゃんの分まであるのね」
「はい、昨日も最中をいただきました。雪江様もたくさんお召し上がりでした」
「あああ、ちょっとお初、行くわよ。お父上様がお待ちなんでしょ」
「そう、そうよね。正重様がお待ちですものね。でもちょっと待って、雪江ちゃん。お話があります」
お初の問題発言を掻き消したつもりだったが、ちゃんと裕子の耳に届いていたらしい。
お初は涼しい顔をしていた。わざと裕子の前でそう言ったのがわかった。
お初からも連日、食べ過ぎだと言われていた。しかし、叱られても諭されても、全然怖くないお初の言うことを聞くはずがなかった。裕子にばらして、なんとかしてもらう魂胆だとわかった。やり方が汚いと思う。
その場の空気が変わっていた。温度が二、三度下がったようだ。これって・・・・やばい。
裕子がにっこりと笑って言った。
「あらら、昨日、確かに私達も最中をいただいたけど、まさか雪江ちゃんまでが・・・・。しかもたくさんって、どのくらいお召し上がりになられたのかしらね」
それはお初に尋ねていた。
雪江は青くなっていた。
お初は、よくぞ聞いてくださいましたと喜んでいるらしい。
「はい、ええと、ひい、ふう、みい・・・・四つにございます」
ああ、万事休すだ。
「まあ、あの最中を四つも。すごいわね」
「あ、あのう、裕子さん、これにはわけが」
まだ裕子の冷笑が続く。ホラー映画のゾンビの方がまだ、かわいく見えた。
「甘いものも、しょっぱいものもたくさん食べたりしてるんじゃないでしょうね」
そんな裕子の問いに、すぐさまお初が答えていた。
「その前の日はまんじゅうを四つ、パクパクと平らげました。殿の勧められるままに。徳田様のようかん半分などかわいいものでございます」
うう~ん、誰かお初の口をとめて、お願い。全てを暴露してしまっている。
「そうなのね。正重様が毎日、いろいろ買ってくるのね。そしてそれを食べたいだけ、パクパク食べる雪江ちゃん。ああ、目に見えるよう」
「あ、もう食べません。ごめんなさい」
こういう時はすぐに謝っておいた方がいい。
お初はまだ言う。
「しかしながら、申し上げます。殿は明日もここへお越しになられるようでございます。このわたくしに、明日は何を買ってこようかとお尋ねになりました。わたくしは殿に、雪江様のお体に触りますので、お菓子はやめた方がいいとはっきり申し上げました。けれど、殿はわたくしの申し上げることなど、全く聞いてはおらず、明日は文化堂のカステラにすると、独り言を申しておりました。連日、甘いものやお菓子を大量に買われて、雪江様に与えております」
どうやらお初は、殿である父にも怒っているようだった。
「殿は・・・・まったくお聞き入れなさいませぬ」
これって直訴?
「要するに、正重様は、雪江ちゃんにとり入る、完全なしもべと化しているってことね」
裕子の遠慮のない言葉。藩主に向かってしもべなどといえるのは裕子だけ。
お初は、さすがにその物言いにヒイと息を飲んでいた。
「正重様をここへ呼んで」
裕子の言葉に、お初どころか雪江までが恐怖の色を見せた。
徳田とも目が合う。
なんとかしてよというサインを出したが、無理、と目をそらされた。
いや、まさか。
裕子は正重を呼びつけて叱ろうとしている? 一介の台所役人が、甲斐大泉藩主桐野正重に。
裕子ならやりかねない。
なにしろ、正重の幼少時代からの側近の生まれ変わりなのだ。その当時の記憶も持っている。ただの台所役人の妻ではないのだ。
「あ、裕子さん。まさか」
「なあに? 雪江ちゃん。大丈夫、ちょっと言うだけだから。正重様ったら、雪江ちゃんのためにならないことを、愛情だと勘違いしているみたいでしょ。こういうことは、誰かがちゃんと教えてあげないといけないのよ。タカ様って、時々こんなふうに突っ走ってしまうことがあるの。昔からそうなのよ。天然でかわいいところもあるんだけど、ねっ」
裕子は、もう完全に、前世の新太郎に戻っているらしい。
父は雪江のためにと思って買ってきてくれている。そんな父が叱られたらかわいそうだ。
「裕子さん、ごめんなさい。私が悪かった。もう絶対に隠れて食べない。お父上様にも、ちゃんと言う。本当よ。ごめんなさい」
平謝りだった。
これは本当だった。もう絶対に流されない。父を守るために。
そんな真摯な心が伝わったのだろう。裕子が声をやわらげた。
「そう、そこまで言うのならいいわ。今日は、正重様には何も言わない」
ほっとする。
「けど、今すぐ体重測定よ」
うっと息が止まった。今、体重測定。
「わかっているでしょうね。三日前と変わらずなら、お咎めなし。けど増えていたら・・・・」
どうなるのかわからない。けどそれを聞くのも怖い。
まだ、番所での拷問の方がましなのかもしれないと思っていた。
その結果はすぐにでた。
「まあ、一キロも増加」
ああ、万事窮すだった。どうなるのか。
「赤ちゃんが大きくなったのかしらね」
「あ、そうかも。急に大きくなった感じがする」
そう言って下腹部を撫でる。
本当にそれで裕子は許してくれるのかもしれない。
「一か月に一キロ、じゃなくて、三日で一キロだなんて、成長の早い赤ちゃんよね」
最高の皮肉。まだ裕子の雷は落ちてこなかった。
しかし、その言い方や不動の微笑みの背後には、ゴロゴロと言う不吉な音と共に黒いうねるような雷雲が見えるようだった。
その場に座り、沈黙が続く。裕子がぴしりと畳を叩いた。その音に飛び上がる雪江。
「雪江ちゃん、明日から二週間ほど「あかり」の離れで暮らしてもらうわ。強制入院よ」
「ええっ」
「久美子先生に言われていたの。今が肝心だから、このまま体重増え続けるようなら離れに来てもらって、久美子先生の監視下におくって」
「離れに、強制入院、そんな」
強制入院とは、聴こえはいいが、実は、離れに拘束される刑務所のようなもの、と受け止めていた。
「体重を測るまでは何とも言えなかったけど、こんなふうに周りに左右されて、ダメだって言ったのにパクパク食べて体重を増やしてしまっていたら、とんでもないことになっちゃうでしょ」
確かに裕子の言う通りだった。人に勧められ、食べてしまっていた。このままでは難産決定となる。
「脂肪って産道にもつくんですって、それに体は、その脂肪の先まで血管を通そうとするんだって、だから、脂肪を蓄える妊婦は出血が多いんですって。ここには輸血なんてないし、ああ、そもそも血液型を調べる術もまだ、ないのよ」
裕子がそんな怖いことをつぶやいた。
「わかりました。言う通りにします」
「では、このことを正重様と正和様に申し上げにいきます」
「えっ、今?」
もう裕子は中奥へ向かっていた。
「大丈夫。雪江ちゃんったら何を恐れているのかしら。大丈夫よ。ちょっと強制入院のことをご報告するだけ。まあ、どうしてこうなったのか、理由も申し上げないとね」
怖い。裕子が本気で怒っていた。雪江はふたたび徳田を見た。目でお父上を助けてくれと訴えていた。しかし、再度無情にも目をそらされた。こうなったら、オレにはどうすることもできないと突き放されていた。
父は、にこやかに龍之介と話をしていた。
「雪江様でございます。それと台所役の裕子にございます」
「うむ」
雪江たちが入っていく。
その座敷にいた小次郎が怯んでいた。
さすが、氣を読む侍だけある。なにか一波乱あると感じたみたいだった。すぐさま、その座敷を下がるようにして、襖の陰に隠れていた。
裕子と雪江が座敷に入って行くと正重の表情が変わった。正重も、裕子の怖い氣を悟ったらしい。その傍らに座っていた龍之介も驚いてみている。
雪江はドキドキしていた。父が裕子に何か厳しいことを言われたら、かばうつもりでいた。しかし、この場合、いざとなるとそうできるかどうか自信がなかった。
「恐れながら申し上げます。雪江様はこれからの体調の調整をするという名目で、旅籠「あかり」の離れに強制入院することとなりました。期間は十四日間にございます」
当然のことながら、何が何だかわかっていない二人は絶句していた。たぶん、裕子の気迫に押されているのだろう。
「明日より雪江様にはあちらへ移っていただきます」
「なにうえに、わざわざ「あかり」の離れに移るのであろう。ここでも体調の調整とやらはできぬのか」
そう正重が尋ねていた。かなり戸惑っている様子。
裕子はにっこりと笑う。
「ここにおりますと皆が甘やかして、雪江様が食べ過ぎてしまわれるのでございます。あちらで食事管理を致します。薄口にも慣れるよう、そして適度な運動もされるようにいたします」
「食べることがなぜいけないのか。よく申すであろう。ややが腹にいるときは二人分、食べよと」
そのもっともな正重の意見に、裕子は静かに抑えた声で言う。
「雪江様はこれからどんどん体重が増えていかれます。もちろん、きちんと食べることは大事でございます。二人分食べるのなら、甘いものなどの菓子ではなく、体の栄養となるものを食べていただきます」
「菓子はだめなのか」
ぽつりと正重が言った。
「だめでございます」
凛とした声で言われた。
完全に父が裕子の気迫に押され、飲み込まれていた。龍之介は最初から何も言えないらしかった。
「あ、でもさ、たまにちょっと食べるならいいでしょ」
と助け舟を出したつもりだった。しかし、小さな船にいる雪江たちを平然と見下ろしている怪獣の如く、裕子は無情にも火を噴いた。
「たまに? 聞けば連日、正重様はお菓子を雪江様に買ってこられているご様子」
「・・・・・・いかぬのか」
父も、裕子に強く言われておろおろしていた。
「いけません。甘いものは人を幸せにいたします。けれど度が過ぎると、恐ろしい刃となって向かってくるのです」
裕子がそこで一度、言葉をきった。
「特に子を宿している妊婦には糖尿病、血圧上昇、尿たんぱくなど妊娠中毒症となって現れます。そうなったら、この江戸時代、成す術はございません。だから、申し上げております。今から十四日間、雪江様を離れにおきまして食事調節をすれば、この先、安泰かと。丈夫な赤ちゃんが生まれるようにでございます」
父上や龍之介たちには、糖尿病やら血圧のことを言ってもわからないだろうが、その言葉の持つ恐ろしい意味を感じ取ったらしい。二人は神妙な顔つきになっていた。
「そうか、甘いもの、塩辛いものは恐ろしいことになるのだな」
ぽつりと正重が言った。そのつぶやきは寂しそうだ。
「雪江、許されよ。今日のかき餅は他の女中たちに分けるがよい」
ああ、あのかき餅はものすごくおいしいのに・・・・・・。
そして、父は雪江を見て言った。
「すまぬ、雪江。わしは昔から、シンに強く言われると何も言えぬ。それどころか、裕子殿となったシンは昔よりも凄味がある」
正重にそんなことを言われても動じない裕子。不動の笑みを浮かべていた。
裕子の怖さは雪江もよくわかっていた。同情するしかない、いや、同情される方?
「いえ、お父上様、大丈夫です。わかっておりますから」
こうして雪江は二週間の強制入院を強いられた。