薫
「じゃ、行って参ります」
そう薫が言うと、厨房の奥にいる徳田厚司父から、元気のいい返事が返ってくる。
「おう、頼むぞ。気をつけてな」
「はい」
薫が徳田夫婦に養子として迎えられ、父、母と呼ぶことにもう何の抵抗もなく過ごしていた。血のつながった親よりも相談しやすく、年の離れた姉、兄のように慕うことができる。こんな日が来るなんて思ってもみなかった。
今日、薫は旅籠「あかり」へ、裕子母の作った水ようかんを届けるお使いを頼まれていた。
裕子母の作る甘いものは、全て目を見張るほどきれいでおいしい。
旅籠で宿泊客に無料で提供しているが、それが大人気なのだ。今日は十二人分の水ようかんだった。下半分にさらし餡が沈み、上には小さく切った桃とスイカが散りばめて固められていた。ものすごくかわいい。
そうは言っても水ようかんは結構重い。さらに中身が崩れないよう気を使いながら、江戸の町を歩いていた。今日は先日買ってもらったかんざしをつけていた。いつもと違う自分の装いに、薫は一人でウキウキしている。
先月、薫は女の印があった。初めての月のもの(生理)を迎えていた。突然のことだったが、うろたえずに処理できた。裕子母から既にそういうことを聞いていたからだ。そしてそっと裕子母に言うと、満面の笑みで抱きしめてくれた。まるで自分のことのように喜んでくれる。
「おめでとう、薫」
厚司父も聞いたらしく、それとなく、ぼそりとおめでとうと言ってくれた。
男親としては少し恥ずかしいのだろう。その日は赤飯を炊いてくれた。ただ、閉口したのは同じ養子の末吉だった。
「なあ、なんで今日は赤飯なんだ? どうしてだ? なにかめでたいことがあったのかっ。教えてくれよ。ねえ、ねえったら」
としつこかった。
仕方なく、小さな声で「女になった」というと、末吉は目を丸くして大声で叫んだ。
「ええっ、薫姉さん、今まで女だと思ってたけど違ってたんだ。おいらと同じ男だったなんて知らなかった。じゃ、おいらもいつかは女になるのか?」
そうまくしたてた。
裕子も厚司も腹をかかえて大笑いしていたが、薫は真っ赤になって何も言えなかった。
裕子が末吉に説明してくれて、やっと理解してくれたが、今思い出しても顔が赤くなる思いだ。
本当に裕子がいてくれてよかった。母としていつも見守ってくれていることがうれしかった。
薫の実の母はずっと昔に亡くなっていた。そういうことを事前に教えてくれる女性が身近にいなかった。もし、裕子がいなかったら、今頃きっと薫はうろたえたことだろう。
よくない病にかかったと一人で怯えていただろう。
さらに裕子は、それは女としての体の準備が整ったということで、どうすれば子ができるのかという体の仕組みも教えてくれた。その辺、界隈の医者でも説明できないようなことを、絵にまで描いてくれて、薫がきちんと理解するまで教えてくれた。(この時代にやっと人体腑分け(解剖)が行われていたから)
月のものは当然のことで、決して恥ずかしいことではないが、女性のたしなみとして、男性にはあまり気づかれないようにすることも大事だと言った。そして、裕子と厚司がおめでたいということで、かんざしを買ってくれた。
だから、今日はいつもより足が地についていなかったのかもしれない。気分が散漫していたのかもしれなかった。
もう少しで料亭に着くという所で、石につまづき、ぐらりとよろけていた。
手にはずっしりと重い水ようかんの盆。薫はあっと思ったが、もうその体制を直せないでいた。
転ぶ、と思った。
大事な届け物を台無しにしてしまう。どうしよう。
しかし、次の瞬間、薫の背後から傾いた体を支えてくれる人がいた。薫の体はその人に抱きとめられていた。薫は転ばずに、その場にへなへなと座り込んだだけだった。盆は無事だ。
「大丈夫ですか」
そう声をかけてくれた。
そこには二十半ばの青年が笑顔を見せていた。その爽やかな顔に思わず見とれていた。薫がすぐに立ちあがらなかったから、その顔が心配そうになる。
「どこか打ちましたか?」
「あ、いえ。大丈夫です。ありがとう存じます」
薫が立ち上がろうとすると手を差し出してくれた。その手につかまる。暖かくて大きな手だった。
「よかった。こんなに可愛い娘さんがころんでしまったら、笑顔も見られないとこだった」
かわいいだなんて、そんなこと、初めて言われた。
薫は顔を赤らめた。
「では、お気をつけて」
その青年はにっこり笑い、会釈をして歩いていった。薫は、しばらくその後姿を見つめていた。
色男というよりも、顔の作りは地味だが、何よりも優しそうな笑顔が印象に残っていた。
無事に水ようかんを届けた。旅籠の皆が、薫の髪型とかんざしを褒めてくれた。やはりずっと大人っぽく見えるようだ。薫はちょっと背伸びしたような装いで、それが誇らしく思い、女になったことを皆に知らしめているようで恥ずかしかった。
久美子女将が聞いてくる。
「雪江様はどうかしら。最近、随分と食べられるようになったらしいけど、この二、三日に行くからって伝えてね」
「はい」
久美子は雪江の産婆だ。
久美子も裕子と厚司、雪江たちと同じ世界から来たから、他の医者たちよりも医術のことをよく知っていた。
「薫ちゃん、随分大人っぽくなったのね」
あまりにも人に言われ過ぎて、からかわれているのかと思う。ちょっとそれが顔に出てしまったらしい、久美子はすぐさま言いなおす。
「本当よ。先日もかわいかったけど、今日はいつもよりもきれい。なにかあった? 誰か好きな人でもできたのかな」
そう言われて、咄嗟にさっきの助けてくれた青年を思い出していた。顔が赤くなるのがわかる。
「あ、図星だった」
「いえ、そんな、そんなんじゃありません」
ムキになって打ち消していた。
「いいの、いいの。そういう恋を何度も重ねて、大人になっていくんだから」
久美子がそう言ってくれたが、薫は早々に旅籠を出ていた。恥ずかしくてたまらない。
薫は屋敷内に戻ってもぼうっとしていた。
どこの誰ともわからない青年に恋をしていた。ただ、あの時、薫の体を支えてくれただけなのに、そんな人を思い出すだけで胸が苦しくなり、考えまいと思っても頭の中にずっといた。
確か旅の支度だった。江戸に着いたばかりだったのかもしれない。また、あの場所へ行ったらあの人に会えるのか。そんなことを想う十四歳であった。