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相変わらずの雪江

 雪江は妊娠してから、他の武家の女性と同じように朝風呂に入るようになった。その方がやっと長くなってきた髪を整えられるし、さっぱりするのだ。


 いつものように身支度をし、ほんのちょっとだけ手習いをする。

 これは嫌々だが、龍之介に言われたからだ。子供が生まれ、育った時に母である雪江が字を書くことが苦手では困ると。


 男なら、桐野の跡取りとして育てられる。その時に一緒に手習いをするか、とまで言われて渋々ヤル気になった。

 しかし、それでもいいかとも思えてくる。別に雪江は字が読めない書けないわけではないのだから。草書が苦手なだけだ。楷書で書かれた毛筆にはかなり慣れてきて、読めるようになった。


 そういう細かいことも親になるには、きちんとしなければならないのだろう。雪江も、子供から軽蔑されたくはない。母はこんなこともできないのか、こんなこともわからないのかと言われたらショックだろう。

 そこまでシリアスに考えるのなら、武家言葉や手習いに勤しめばいいのだが、相変わらず「まっいいか」の一言で過ごしてきていた。


 雪江はいつものように坂本家(小次郎とお絹のところ)に出掛けていた。お絹に子供が生まれてからは殆ど毎日のように入り浸っている。

 当初はお初も雪江のお供をしていたが、最近では行ってらっしゃいませの一言。どうせ、同じ敷地内なので、雪江は一人で出歩くようになった。


 小次郎も、今までほとんど家に帰らなかったらしいが、子供が生まれてからはどんなに忙しくても朝と晩は子供の顔を見るために帰宅するという。

 お絹は、本当に幸せそうに語った。

「雪江には感謝してる。今の生活が嘘みたいだもん。あの小次郎さんと一緒になれるなんて思ってもみなかった。こうして子が産まれて、二人でこの子の顔を見ていると本当に幸せなんだよ」


 お絹は、雪江が来ると侍女を追いやり、二人だけになって町人の言葉で話してくる。その方が雪江にも都合がいい。

「初め、ここに輿入れした時は、小次郎さんも私に遠慮していたみたい。いつもちょっとぎこちなかった。まあ、私もね、同じような感じだったから。おっ母さんが言うには、武家の夫婦関係なんてそんなものだって」

「ふ~ん、武家同士の婚姻って、顔も知らない人と祝言の日に初めて顔を合わせるって聞いたことある。そういうものなんだね」


 雪江はラッキーなのだ。

 もし、二十一世紀で生まれず、江戸時代に生まれていたら、そんな結婚もあたりまえだと思っていたのかもしれない。

 でも、雪江は違う。父が言っていた。兄となる龍之介とは血がつながっていないから、将来は夫婦にさせるつもりだったと。

 しかし、それも雪江の中では複雑だった。ずっと兄、妹として育ってきた二人が夫婦になるってどんな感じだろうと思うのだ。だから、別の世界で育ってきてよかったと思える。だって、自然にお互い、惹かれあっていた。


 お絹には、養女として土屋家に入った時、侍女となったお華がいた。わざわざ毎日雪江が通わなくてもこのお華が細々と世話を焼いている。

 しかし、どこかお絹はこの侍女がそばにいると肩に力が入っている感じでぎこちなかった。それは仕方がないだろう。ずっと武家に仕えていた侍女が、町人だったお絹に仕えている。そこにはお華も複雑な気持ちがあるのだろう。

 誰にでも大小なりに悩みはつきないのだ。


 雪江は妊婦の食事のことを話し始めた。

「裕子さんったら、私のおかずだけ、味付けを変えていたの。信じらんない。龍之介さんのおかずを食べてびっくりよ、もう」

「でもさ、それは雪江の体を気遣ってのことだろっ」


「そうだけど、私、一時期全然食べられなかったの。食べたいものを、食べられるだけ食べろって言われていたのよ。それを悪阻が終わったら手の平を返したように、食べ過ぎだって、そんなの納得できない」


「まあ、わかるよ。妊婦ってたくさんは食べられないから、すぐにお腹がすく。私もチョコチョコ食べてたな」

「そうよね。食べたい物、たくさんある。ご飯も大好き」

 そういうとお絹が改めて雪江を見た。

「ねえ、雪江、ちょっと肥えてきたでしょ。顔が真ん丸になってる。体も重くない?」


「え~。お絹までそんなこと言って。まったくもうっ。皆からそんなこと言われて、かわいそうなわたし」

 そう言いながら、厚焼きせんべいをばりっと噛み砕く。


「ん、裕子さんの言うことはお久美さんの言うことと同じだろう。言いつけを守らないとさ、叱られるよ」

 お絹も一時期、裕子と久美子に世話になったからよく知っている。

「もう叱られた。夕べ裕子さんにきつくね。そして今夜、体重測定だって」

「たいじゅうそくてい?」


「そっ、先月からどのくらい重くなったかを調べるの。ああ、恐ろしくなってきた」

「ああ、目方のことかい」


 先月計った時は、苦しい悪阻から脱した時だ。

 たぶん、あれが最低の体重だろう。


 そうか、そんな時から比べるのだ。二キロくらいは増えてもいいよね。でも最近お初が帯を締めてくれる時、あらっ、と息を飲んでいるのだ。口には出さないが、腹回りが違うのだろう。

「赤ちゃんがいるんだから、多少増えても当然よね」


 不安を吹き飛ばすように言う。

「うん、そうさ。赤ん坊がすくすく育っている証拠だよ」

 そうお絹がにっこり笑っていた。うれしかった。


 龍之介の使いの者が買ってきてくれたせんべいを食べていた。

「すっごくおいしい。至福の時」

 お絹も手を出した。一口食べ、嬉しそうな顔になる。

「ほんとだ。さすが老舗だけあるね。お乳がたくさん出そうだ」


 そうか、産んだ後もお乳を出すためにたくさん食べることになるのか。まだまだ、楽しみは続く。そう思い、ほくそ笑んだ雪江だった。




 その日の夜。ついに体重測定がやってきた。

 裕子が重いモノを計る計りをゴロゴロと引いてきた。その台に乗り、錘を使って目方を計るのだ。

「覚悟はいいわね」


 相変わらず、ポーカーフェイスの裕子。

 なんか怖い。前回着ていた着物を着ていた。そのまま台に乗る。


「前がここだった」

 見ると墨で印がついていた。目盛りを移しながらバランスを見ていく。なかなか錘はあがらない。裕子の表情が真剣になっていく。それに気づき、雪江は怯んでいた。

 やっと錘が上がり、裕子がその目盛りに印をつけた。

「ね、もしかして増えてる?」

 増えていて当然だ。けど、そう聞かずにはいられなかった。

 裕子に「うん、ちょっとね」と言って欲しかった。


「雪江ちゃん」

 裕子の押し殺したような低い声にピクリと震え上がる。しかし、なんでもないかのように明るい声を出した。

「はい?」


「私、先月二キロぐらいなら増えてもいいって言ったわよね」

「は?・・・・・・そうでしたっけ。ああ、そうそう、確かそんなこと・・・・」

 怖い。非常に裕子が怖かった。

「あ、もしかして二キロ以上増えちゃった? やっばい」


 茶化すように言ってみたが、裕子の表情は変わらなかった。ただ、じっと雪江を見ていた。

 え? 違うのかな。でも絶対に増えているから怒ってるんだよね。


「雪江ちゃん、怒らないから正直に答えてね」

 裕子が押し殺した声のまま、そう言ってきた。その表情からはなにもわからない。

 しかし、雪江はその怒らないから正直にという言葉を信じて、正直に何でも話し、ひどく叱られた経験が何度もある。けど、正直に言わなくて後でわかった時の方がたぶん、もっと恐ろしいのだと思った。


「あ、はい。なんでしょうか」

「私達の作る減塩の食事以外に、まさか別のものを食べていないわよね」

 え、ええっ。いけなかったのだろうか。

「別のものって・・・・」

 たとえば、なんだろう? 龍之介が嫌いなおかずとか、お初に持ってこさせた干し菓子とか?


「だって、おやつも低カロリーのお菓子、出しているし、果物も結構食べているわよね。それ以外ってことよ。たまに差し入れなんかもあるでしょうから、多少はしかたないけど。正直に教えてね」


 ああ、裕子の用意する食べ物以外にということか。そんなの、たくさんあった。全部は言えないから、少しだけ白状しようと覚悟を決めた。

「あ、はい。たまに(嘘)龍之介さんが買ってきてくれるおまんじゅうとか食べていました」


「ああ、そうだったわね。でも甘いものは控えるようにって言ったばかりよね」

「はい、だから今日は食べていません。龍之介さんにも買ってくるなといいました」

 これでは龍之介が一方的に買ってきているような話になってきたが、この際、悪役になってもらう。


「そう? 龍之介さんが買ってくるのね」

「あ、でも、断りましたから大丈夫です」


 裕子はやっと安心した顔になった。

「そうなの。じゃあ、いいわね。ちゃんと本人に確認をとって釘を刺さなきゃって思ってたから」

 ひえ~、冗談じゃない。そんなことを言われたら、雪江が買って来いと言っていたことがばれてしまうところだった。


「とりあえず、言っておくわよ。先月より四キロも増えてんの。来週また体重計るから、その時、現状維持していなかったら、久美子先生に報告するわよ。わかった」

「はいっ」


 裕子も怖いが、久美子も怖い。でも体重を減らすのではなく、現状維持ならなんとかやれそうだった。まんじゅうを食べなきゃいいんだ。


 久美子は雪江の主治医だった。元看護師で保健の先生だった久美子の方が、そこら辺のやぶ医者よりずっと知識がある。桐野家には専門の藩医がいるが、特に妊娠、出産ならば久美子の方がいい。

「運動不足もあるから、食後三十分したら、散歩をすること。いいわね」

「はい」


「いいわね。この江戸時代には血糖値検査や血圧計もないの。目の裏や爪の色、脈拍とかで判断しないといけないのよ。今の時期から減塩して体重コントロールしておかないと妊娠中毒症になってからじゃ遅いの。いいわね。体重増えすぎ」

「わかりました。でもなんで食べた後三十分後なの?」


「食べたものがこなれて、血糖値が上がってくる時間。お香の長さで三十分計ってね。それ以前だと無意味みたいよ」

「はあい」


 すべて素直に返事をしていた。

「加藤家の安寿様もかなり順調のようね」

 久美子は安寿の定期検診もしていた。

「よかった。会いたくても駕籠に乗って行くのは無理でしょ。どうしているか心配していた」


「先生によるとあちらは優等生のようね。言われたことは絶対に守るらしいし、体重も赤ちゃんの分だけ順調に増えてるって」


 安寿と比較されておもしろくない雪江。

 そりゃ、あちらは何事もきっちりとしている奈津がいた。あの人なら、塩分もすべてきっちりと図って徹底しているに違いない。

 雪江のようにこっそりとお菓子なんてとんでもないことだろう。そんなのも嫌だ。ストレスがたまるだろう。安寿はずっとその奈津がそばにいたから気にならないだろうが、雪江のような野生児が、急にそんな管理をされたら息がつまる。


 とりあえず、来週の体重測定には気をつければいいとそんなに簡単に思っていた。


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