利久の宿命とは
牢の中は静まり返っていた。
榊のことを考えていた。
まさか榊も、利久が隠れキリシタンという理由で捕えられるとは思ってもみなかっただろう。利久でさえ自分がキリシタンだったということを忘れていたのだから。
キリシタンなら、利久が転ぶと言わない限り、解き放たれることはない。金をつぎ込んで役人に黙認させるには遅かった。
翌朝早くから石川がやってきた。
寝ている様子を見に来たようでそっと近づいてきたが、すぐに目が合い、向こうも破顔した。
包帯を取り換えて、傷の具合を確かめている。
「気は変わらんか。見ろ、この足の色を。血の気のない足だ」
「いえ」とだけ答えた。
「お主はいったい何者だ。普通の町人ではあるまい。この鍛え上げられた体を見ればわかる」
「私はただ、走ることが好きな阿呆でございます」
そう答えた。
そうだ、この脚を失うことは、お光を亡くした時のようにつらいだろう。
「いや、そんなことはない。他の者の目は誤魔化せても医師としての私の目は誤魔化せぬ」
「私は本当に走ることしか能のない阿呆でございます」
再び繰り返していた。
この青年は何も知らない方がいい。そのまま利久は口を閉じていた。
「知らんぞ、本当に。どうなっても私は知らぬぞ」
利久が強情を張っていることに腹を立てている様子だった。手当を済ませ、またピシャリと肩を叩いた。
「また来る」
石川は牢を出ていった。
その日の昼下がり、利久は穿鑿所へ出された。そこは吟味与力が科人を取り調べるところだ。足を折って座れないため、横に転がされていた。もちろん、後ろ手で縄をかけられている。その格好でいると血の気を失った蝋細工のような自分の足がよく見えた。本当に死人のような足を見つめていた。
今日は吟味与力がきていた。関所で捕えられた藤井だった。
「その方に問う。キリシタンの信仰をやめるか。やめればその命、助ける。すぐにここから出してやる」
利久は藤井の目を見て言った。
「私は信仰を捨てる気はございません」
そして目を閉じた。もうそれ以上、何を言っても無駄だという意思表示だった。
藤井はもうその返答を予想していたらしい。諦めた表情で言った。
「そうか、それなら仕方がない。然らば明日、白州にて仕置きを申しわたす。よいな」
藤井の言葉に、周りにいた同心たちも驚いていた。
あまりにも急速過ぎる展開だった。
下っ端の同心見習いたちがささやき合っていた。
普通なら日にちをおいて、まだまだ拷問にかけていく。禁教を信仰しているということは、その目を覚ますために拷問にかけ、棄教に追い込むことが目的だった。痛めつけて殺すのではない。
白州でお裁きが下されるその処罰にはもう予想がついた。
吟味が終わったとばかりに、藤井は利久の転がっている庭に降りてきていた。下男二人が利久を起こした。
「食事をとっていないと聞いた。作ってくれる者に申し訳ないと思わぬか」
その言い方は決して利久を責めている口調ではなかった。最後に利久と話がしたかったが、話題のために見つけた話と言う気がした。
「食べるということは、これから生きていくものだけに必要なこと。私にはもう何の意味もございません。だからもう必要ないと申し上げました」
そう答えると、藤井は悲しそうな顔をした。
「そうか。その方はもう自分の行く道を決めているのだな」
「はい」
翌日、白州へ行くため、科人の入る鳥の籠のような駕籠に入れられ、奉行所へ行った。
南町奉行の牧野成正賢が告げた。
「仕置きを申しわたす。神妙にせい。そちは禁じられていると知ったうえで、耶蘇教の信仰をおこなっていた。再三、棄教せよという説得にも耳をかさず、拷問にも屈することもなかったと聞く。これ以上の拷問、無用と判断し、死罪を申しわたす。市中引き回しの上、斬首。明後日、品川鈴ヶ森刑場にておこなう」
そのお裁きに手を合わせたい気分だった。
ありがたかった。どうせ死ぬのだ。潔く斬首ということは願ってもないことだった。
奉行の牧野が去った後、与力の藤井が辺りを見回してそっと言った。
「どなたかの力が働いていてな、どうせ、その方は転びはしない。このままずっと拷問を続けていても無駄だと。早く刑を実行させてやれと直訴してきた者がいたそうだ。こちらも自白しない科人やら、説得に応じない耶蘇教などは落とせないという記録で残される。汚点となり、それが続くとわしたちの立場も悪くなるのでな。それならば潔くあの世へ送ってやる方が情けというものだと」
藤井の言葉を大事に受け止める。その言葉の中を訂正するのなら、あの世へ送ってやる、のではなく、天国へ送ってやると言ってほしかったと一人で苦笑した。
藤井はそんな利久の表情を見ていた。
「その方も笑うのか」
と驚きの声を上げた。
「はい、私も普通の人でございますから」
と言うと、藤井は呆れた顔をする。
「その方のような者が普通なら、取り調べるわしたちは大変じゃ」
とおどけるように言った。
二人がかりで起こされ、再び駕籠に入れられた。藤井は黙ってその様子を眺めていた。
「その方は、死が怖くはないとみた」
利久が顔を上げて藤井を見た。
「私はつい最近妻を亡くしました。あの世、いえ、天国で妻が待っております」
藤井はあっと声を上げた。利久の態度に納得した様子だった。
「こんなに早く天国へ行くことは多少、叱られるでしょうが、それが私の宿命ならば、それに従うだけでございます」
「宿命と申したか」
「はい、人の宿命とは生まれてきたことと、男女の性別など、決して変えられないこと。そして死ぬことでございます」
藤井はわかったような曖昧な顔をする。
「死ぬことも宿命か」
「はい、それは生まれる前から自分で決めてきているということでございます。どんなに抗おうと変えられません」
「では、運命ならば変えられるのか」
「はい、この度もしも私が転ぶと申しましたら、明後日以降も私は生きていることになります。私が変えたいと思い、そう行動に移せば運命は変えられるのでございます。それが宿命ならば、ここを出ても私は死ぬのです。野犬に食い殺されるか、川に落ちて溺れるのかもしれません」
お光の母がよくそう言っていた。
瀕死だった利久を助けた。もしそこで死ぬ宿命ならば、助けて手厚く看病しても死ぬ。しかし、利久は生き延びた。そのことで利久の運命も変わり、それを取り巻く周りの人の運命も変わったのだと。
忍びのその任務は、ちょっとした失敗で死に直面する。もし、それが運命ならば、自分で何とかしようとすれば助かるのだと。諦めてはいけない、最悪な状態だとしても運命ならばまだ助かる道はあるはずだと教えられていた。
藤井はじっと考え込んでいた。下男たちは駕籠を閉じていいのか困っている様子だった。
「もう一つだけ聞く」
その一言で、下男たちは地面に片膝をついて待った。
「その方にとって、死とはなんぞや。決して天国とやらで妻が待っている良いところだという答えは期待してはおらぬ。なにがある? 答えてはくれぬか」
利久は藤井を見た。
利久はずっと死ぬことは怖くはなかった。忍びとして生きてきた利久は、いつも思い残すことがないようにと考えていたからだ。しかし、改めて藤井の問いを考えてみた。
「死とは・・・・・・」
皆が固唾を飲んでみていた。
それは、明後日にその死を迎える者の本音として受け止めていた。
「死とは、人の生きてきた結末でございます。良くも悪くもその間際に立ち、振り返る。そして生まれてきてよかったと思えたらそれでいいのでございます」
藤井が目を細める。
「そうか、結末とな。その方の人生は、よかったと思っているか」
利久は苦笑する。
「私は不甲斐ない自分勝手な事ばかりやってきた男でございました。妻にはいつも心配をかけておりました。後悔ばかりが心に残っております。しかし、それでもこの世に生まれ、今まで懸命に生きてきてよかったと思っております。妻と一緒に過ごした日々をありがたく思います」
皆が利久の言葉に安堵した顔を見せた。この落ち着き払った利久も、決して立派な事ばかりをしてきたわけではないと知り、ほっとしたのだろう。それでも生きてきてよかったという言葉にも。
誰もが自分だけの顔を持つ。人には言えないことを考え、邪な心を生みだし、自己嫌悪に陥ることもある。数々の失敗も繰り返し、それでも人は一生懸命に生きているのだ。
死を迎えるということは、その足を止め、自分の生きてきた道を振り返ること。どんな人生も完璧ではない。思い出したくないこともある。それでも大往生するその時は、そのすべてがいい思い出になっていることだろう。
利久は再び牢に戻された。
もう感覚のない足だ。布団を使って無理にでも正座をしようとしていた。
そこへまた医師の石川が現れた。
「何をもがいておるのだ」
利久の起き上がろうとしていた努力が水の泡となった。石川が、利久を再び寝かせていた。そして黙々と足の包帯を取り換えていた。もう必要ないというのに。明後日には処刑されるのだ。たとえ足が壊死しようと、利久自身がこの世からいなくなる。
しかし、利久も黙ってされるがままになっていた。
包帯を巻きなおして満足げな顔を見せた。そして終わったぞという合図のように利久の肩をピシャリと叩いた。
「イタッ」
と思わずつぶやいた。
石川は目を丸くしていた。
「お主は、あの石抱き拷問にもその表情を変えず、声も上げなかったと聞く。そのお前が、ちょっと叩いただけで痛いというのか」
と呆れられていた。
「私も人でございますので、痛いものは痛い。そう申してはいけませんか」
そう言い返した。
「ったく、都合のいい時は人になるのだな」
そうブツブツ言いながら石川は格子の向こう側に立った。
「お主とはこれで今生の別れとなるな。最期に会いたい人はおらぬのか。面会人をすべて拒否しているとも聞いた」
最期に会いたい人・・・・・・。
さまざまな顔が浮かんでいた。雪江の屈託のない笑顔、榊の苦虫を噛み潰したような笑み、お律や直江などの顔も重なる。隣近所のお内儀さんたちの明るい笑顔も見えた。それでもやはり、お光に一番会いたいと思った。
「私は、いいのです」
それで利久が口をつぐんだ。
「そうか。ではこれでごめん。お主の足を直せなくて悪かった」
石川はそう言って去っていった。物悲しそうな横顔が目に残った。
律儀な人だ。その誠意に頭を下げていた。