旅路の利久と案じる雪江
利久と雪江の目線で展開していきます。
お光を弔うと、形見の十字架を残し、すべて処分した。
雪江が描いたあの母子の絵も、なんとなくサンタマリアを思わせる絵だったから、焼かせてもらった。もし、それが誰かの目に止まり、キリシタンだという疑いが雪江にも及んだら大変なことになる。だから、雪江には焼くとだけ伝えてあった。雪江も承知してくれた。
江戸を出る準備をしていた。
お光の郷里、兄妹として育った忍びの里へ戻ろうと思っている。お光の遺髪を思い出の場所に埋めるために。
その後は考えていない。しばらくはそのまま里に留まり、のんびりするのもいいだろう。
お光と過ごすつもりで暇をもらったのに、あっけなく遠いところへ逝ってしまった。利久は一人になっていた。
雪江たちにも別れを告げ、いつか会えたらという言葉を交わした。
そして翌朝早く旅路に出た。その日のうちに関所を越えようと思っていた。
小田原城下町を通り過ぎ、海側の根府川関所に向かっていた。途中、目立たない程度に走った。早く関所を抜けたかった。
途中の道で難儀している親子を見つけた。老女を背負っているが、その恰幅のいい中年の、息子らしい男もゼイゼイと肩で息をし、その足元もふらふらしていた。今にも倒れそうだった。
「もし・・・・大丈夫でございますか」
そう声をかけていた。
関所はもうすぐだ。利久が老女を背負ってもいいと思った。
「え? ああ、あ、あ・・・・」
利久が声をかけたからだろうか。その男の体が振り向いたが、そのまま横にふらりと揺れた。
利久がすぐさま背中の老女を抱きかかえる。その中年男はそのまま尻餅をついていた。
「ひゃあ、いてて」
と素っ頓狂な声を出す。
その無様な様子がおかしかったのだろう。老女がぷっと吹きだした。中年男も頭をかいて笑う。利久もそんな朗らかな雰囲気に顔を緩めた。
「ありがとう存じます。危ないところだった。婆様まで道づれで転ぶところだった。助かりました」
「いえ、私が急に声をかけたから驚かれたのでしょう。申し訳ないことをしました」
そこから利久が老女を背負った。
「あと少しで関所ってとこで、婆様が足を痛めてしもうて、わしも背負ったはいいが、もうくたくたで・・・・」
と屈託なく笑った。
老女はおくま、中年男は将太と言った。利久も名乗った。
「どこまで行かれるのですか」
「お伊勢参りにな。もう婆様もそう長くはないし、わしもなあ。それで行くなら今しかないと思ってなあ、思い切って出てきたんじゃが、もうこの通りで」
「そうですか」
「利久さんは、どこまで行きなさる」
おくまが背中から話しかけてきた。
「はい、九州の山奥まで。わたしは今まで去る大名屋敷でご奉公させていただいておりました。このほど妻が亡くなり、その遺髪を故郷の里までと思っております」
「ああ、そうかい。そりゃ大変なことで・・・・ご愁傷さまでした」
つれあいが亡くなったと聞いて、おくまも将太も少し黙ってしまった。しんみりさせてしまったかもしれない。
しばらく、そのまま黙って三人は先を進んでいた。
やがてその先に茶屋が見えた。
「あ、婆様、あそこの茶屋で一服していかんかね。利久さんも一緒にどうだい? 婆様を背負ってくれたお礼じゃ。団子くらいご馳走しよう」
利久はそうしようかと思ったが、陽が傾きかけてきていた。
茶屋の店先でおくまをおろした。老女は屈託なくぺこぺこ頭を下げ、人懐っこい笑顔を向けてくれる。
「いえ、わたしは・・・・。この先まだまだ長いので、陽があるうちに先へ進みたいと思っております。そのお気持ちだけで充分でございます」
そうだ、関所を超えるまでは油断してはならなかった。
お律たちの仲間だった忍びが、どこかで見ているかもしれないからだ。暗殺の失敗で、利久を恨んでいるだろう。お律たちを生かして逃がしたのも利久の判断だった。敵にしてみれば、この利久さえいなければすべてがうまくいっていたと考えてもしかたがない。
関所を越えても二日くらいは宿を取らず、野宿するつもりだった。周りの人に迷惑をかけたくなかった。
老女の足首を布で巻いて固定した。(いわゆる現在のサポーターのようなもの)無理さえしなければ歩けるだろう。
別れを告げて、利久は先を急いだ。
眺めのいい道だった。海が見えた。忍びの里は山奥にあったが、それ以前の利久は海の村にいた。潮の香りが忘れかけていた心の何かに響いていた。ふとその村にも足を向けてみようと思った。恐ろしいことが起った村だ。しかし、今の大人の目で見れば割り切れるかもしれない。きっとお光も賛成してくれることだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから誰かが走ってきていた。
「お~い、兄さん。利久さん」
ハアハア息を切らしながら走ってきた。
「なんて足だ。ちょっとの間にこんなところまで来ているとは・・・・」
「どうしましたか?」
将太はやっと息を落ち着かせると小さな包みを差し出した。
「これを・・・・。あそこの団子だよ。婆様がね、うまいから少し持たせてやれって。三本包んでもらったから道中で食べてくだされ」
竹の皮で包んであり、紐で十字にくくられていた。
わざわざこれを渡すために追いかけてくれたのだ。利久はありがたく頂戴することにした。その包みを懐に入れた。
利久は頭を下げ、また来た道を戻っていく将太の後ろ姿を見ていた。
少し歩くと、すぐそこが関所だった。
まず、旅人は笠、頭巾を取り、顔かたちを確認される。関所通行手形を出した。
もう行商人を装うこともない。ありのままの利久だった。荷物らしい荷物もない。すぐに通されると思っていた。
しかし、足軽らしい下っ端の役人が、利久を見て慌てて奥へ引っ込んだ。何やら奥で言い合っている。慌ただしい雰囲気に包まれていた。
奥からニヤけた中年の男たちが出てきた。その手には十手があった。
利久の顔を見て、
「あ、こいつだ」と叫んだ。
岡っ引きだろう。その手には手配書のようなものを持っていた。そこに大きく描かれている男の顔はまさしく利久のものだ。そっくりだった。
足軽たちが利久を囲んだ。
岡っ引きはわかるが、奥からさらに与力らしい侍も来ていた。よほどの捕り物か、確信がないと与力まで出てはこないはずだ。さらに奥からこの関所の役人が出てきた。
「あ、高野様。こいつが・・・・間違いございません」
高野と呼ばれたのは関所の最高責任者、伴頭だった。手配書と利久の顔を見比べていた。与力も一緒になって確認している。
「そちは江戸の庄屋長屋にいたという利久か」
その通りだった。
「はい、左様でございます」
丁寧に頭を下げた。
何の嫌疑がかけられているのかわからなかった。手配書には利久の顔と特徴が書いてあるだけだった。それが何なのかを確かめない事には軽率な振る舞いができなかった。
大名屋敷の奉公人と振る舞うか、行商人の利久のふりをするかだ。下手に逃げたら最悪の場合、薩摩藩にも迷惑をかけるかもしれない。
今、薩摩も大隅も息を殺して静かに時が過ぎるのを待つ、そんな状態でいなければならない。目立ったことをしてはいけないのだ。
だから、榊から一刻も早く江戸を去れと言われていた。しかし、お光の弔いもあり、江戸の知り合いとの別れもあった。もう江戸へは帰ってこないつもりでいたから。
「悪いがいろいろとあらためさせてもらうぜ」
と、与力が言う。
岡っ引きはイライラしている様子だった。
「藤井の旦那、こいつは絶対でさぁ。間違いございません。さっさとしょっ引いて江戸へ戻りましょうや」
「一応、確認するだけだ。関所の方でもただ手配書通りの者だというより、きちんと改めた事実を書き残したほうが横目付(関所の仕事が正しくされているかの監査役)の三輪様の面目も立つというものだ」
藤井という与力はさあ、と利久を奥へ促した。
奥の部屋で調べられる。
荷物を全部置いた。さっさと岡っ引きが遠慮なく中身をぶちまけた。さっき将太にもらった団子の包みも置いた。
「悪いが、着物も脱いでくれ」
念入りだった。普通はさっと持ち物だけを調べて通してくれる。着物を脱いで渡すと、岡っ引きの一人が着物の縫い目から襟元まで手で探る。
目を見張った。
着物の襟の中にはお光の形見のクルスが縫い付けてあった。まさか、こんなところまで調べられるとは思ってもみなかった。
案の定、襟を探り、堅いものを見つけて岡っ引きが「あっ」と声を上げた。
そして、もう一人の岡っ引きが、団子の包みをあけ、その竹の包みの間から、銀色に光る小さなクルスを見つけていた。
「あった」と信じられない表情で叫んでいた。
お光の形見が見つかった。不覚だった。関所でここまで念入りに調べられることは今までなかったからだ。しかし、団子の包みの中に隠されていたクルスには見覚えがなかった。
岡っ引き二人は手荒く利久を縛りつけていた。
「神妙にしろっ。お前が隠れだってことはわかっていたんだ」
「隠れと・・・・」
意外だった。隠れキリシタンとして目星をつけられ、着物や荷物まで念入りに調べられた。そして捕まったということなのだ。それも岡っ引き二人と与力までがわざわざ関所で利久を待っていた。どうしてわかったのか知りたかった。
それが伝わったのだろう。一人がおかしそうに言う。
「お前さんももう少し利口にやらなきゃいけねぇよ。お前さんが隠れだというタレこみがあったんでねぇ。急いで長屋を調べると、天井裏にたくさんの隠れの物が見つかった。それだけでも充分しょっ引く理由になったわけだけど、ここでこれだけのモンが出るとは恐れ入ったよ」
すぐに状況を把握した。仕組まれたのだ。団子の包みの中の十字架は、あきらかにそっと入れられていた。たぶん、あのおくまと将太は何も知らずに利用されただけだと思う。あの二人からはそんな気配は全くしなかった。たぶん、途中のあの茶屋に誰かが潜んでいて、その土産の団子の包みにクルスを忍ばせたと考えた。
藤井は義務的に言った。
「転ぶのであればすぐに解き放とう。自由の身になれるぞ」
どうする、という目を向けてくる。岡っ引きはそれでは面白くないという表情をした。しかし、この藤井は同情的な目で利久を見ていた。
藤井は、隠れキリシタンへの拷問の様をよく知っているのだろう。利久も噂ではそのひどさを聞いていた。
しかし、利久は棄教するわけにはいかなかった。ここで信仰を捨てれば天国へ行くことができないからだ。お光との約束を破ることになる。
「私は決して熱心な信者ではございませんが、まぎれもなくキリシタンでございます。そしてその信仰を捨てる気はございません」
ときっぱりと言った。
龍之介が青い顔をして、雪江のいる奥向きへやってきた。
「どうしたの? 今夜はこっちへ泊らないんじゃないの」
雪江はまた、絵を描いていた。お光の顔だった。忘れないためにその笑顔を描いておきたかった。
夜遅くに正重からの書状が届いたと龍之介が言った。
「利久殿が・・・・・・」
利久はお光の葬式を出した後、すぐに身支度をして江戸を出ると言っていた。雪江はその背中に手を振っている。
龍之介の知らせは、利久が旅の途中で怪我でもしたのかと思った。
「捕まった。隠れキリシタンだとわかり、関所で捕えられたそうだ」
「えっ」
雪江は思わず、筆を落とした。黒い墨が畳に飛び散る。
「利久殿もそれを認めたらしい。明日の朝、小伝馬町の牢へ移されるそうだ」
雪江は茫然としていた。
なぜ今頃、しかも利久が隠れで捕まるのだ。利久は信仰らしいことは殆どしていなかった。集会へも、お光がいくら行くように勧めてもついに行かなかったらしい。
お光が亡くなった時、すぐにすべての隠れの証拠となる物を処分したといった。雪江の描いたあの絵でさえも焼いたのだ。その利久がなぜ捕まるのだろう。理解できなかった。
龍之介は全くそちらの事情を知らなかったから、茫然としている雪江を見て、利久が隠れだった事にショックを受けているのかと勘違いしたらしい。
「人には人の信じる道があると考えている。利久殿はたまたまそれが禁じられていたものだっただけだ」
そう慰めてくれていた。
「うん、そうだね」
と雪江がうなづいた。本当にその通りだった。
翌日、利久に会えるかどうかを聞いてもらったが、隠れの場合は下手に会いに行かない方がいいと言われた。まず仲間と思われるかもしれないからだ。しかし、利久は何人たりともその面会を拒絶していた。
手紙を書いても利久の手に渡る前に、同心が中を改めて不審な点がないか確かめられるのだそうだ。
どうして利久は簡単に捕まったのだろう。
それが雪江の疑問だった。
利久は忍者だったはずだ。テレビのようにさっと屋根の上に逃げ、飛び移って逃げてしまえばよかったのだ。牢だって穴を掘って外へ逃げるとか、木格子なんか切って壊し、逃げられるだろう、などと子供じみたことを考えていた。理由はどうであれ、利久がおとなしく捕まったことが不可解だった。
雪江には、本当の利久の事情が分からないからしかたがない。
父も利久のことを心配していた。すぐさま金をだし、せめて牢の中での待遇をよくしたいと言った。しかし、それはもう他の者がやっていた。
「おそらくは、利久殿が侍として仕えていた薩摩藩の計らいだろう」
と龍之介が言った。
「ねえ、助かるよね。利久さん、出てこられるよね」
そう語りかけていた。龍之介に、その通りだと言ってもらいたかった。しかし、龍之介は浮かない顔をした。
「わからぬ。普通の罪ならばさっさと白状してしまえばお仕置きを受け、出られることもあるが、キリシタンは、その信仰をやめない限り出られぬ。辞めると言うまでずっと拷問が続く。その果てには獄中で死ぬか処刑が待っている」
龍之介がつい口を滑らせていた。言い過ぎたと気づいた時には雪江が凍り付いていた。
体中の毛穴が逆立っていた。処刑と言う言葉が心の奥にズンと響いた。
「処刑って、みんなが集まるところでやる、あれ?」
テレビでしか見たことがない。火あぶりや槍で刺されるそんな姿をみんなが遠巻きに見ているそんなシーン。
「処刑されるかはまだ何とも言えぬが」
雪江にはもうそんな慰めの言葉も何の助けにもならなかった。
雪江はまた、不安な毎日を過ごすことになる。
終わりまで一気に更新します。ここまで読んでいただいているのでしたら、どうぞ、このままついてきてくださいね。第二部終了まであと三話です。