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暗殺計画 

 大隅藩の嶋田久貴が伏せっていた。

 この正月には十一歳になり、その頃は元気にしていた。外遊びが好きで、手習いが終わるとすぐに外へ飛び出すほどだ。剣の稽古も好きで活発な男児だった。その無邪気な顔を見ると周囲もつられて笑顔になった。

 しかし、暖かくなるにつれ、その晴れやかだった久貴の笑顔が曇り始めていた。元気もなく、屋敷の中でじっとしていることも多くなっていた。


 久貴は、今年の夏に元服し、藩主となる予定だった。今はつなぎとして叔父の貴史たかふみが藩主を務めているが、役目交代をすることになる。今、貴史は大隅の国許へ帰っているが、その頃には江戸へくることになっていた。


 藩主となるその久貴が日に日に痩せて、元気がなくなっていた。

 利久はピンときた。ヒ素だ。その量を加減すればすぐに死には至らない。その無色、無味無臭の毒物は、暗殺によく用いられていた。

 利久の任務は久貴を守り、無事に藩主の座につかせることだった。


 利久は、大隅の屋敷にもぐりこみ、数人いる毒味役の体調を調べた。

 六人が皆、いずれも久貴と同じ年齢、同じような体格の者ばかりである。毎日毎食、久貴と同じ量を食べるように言いつけられていた。

 敵が即効性のある毒を用いることは考えにくかった。使うならその体が段々と衰えていく毒のはずだ。数人の毒味役までが体力を落としていればヒ素が食事全体に盛られていると判断できる。しかし、毒味役たちは皆、元気で健康だった。体調不良を起こしているものはいなかった。いたとしてもそれは風邪をひいた程度ですぐに回復している。

 弱っているのは久貴一人だけだったのだ。しかし、それでも利久は久貴に盛られているのはヒ素だと思っていた。


 利久は大隅藩、中屋敷の台所へ入り込んでいた。

 下働きの、のろまな下男に化けていた。ぼさっとしていて、いつも周りから怒鳴られていた。雑用をため息交じりに言いつけられるのが常であった。

 しかし、そんな立場の下男でいると、台所で働く者すべてに目が行き届いた。誰も利久のことに関心を向けてはいない。利久の前ではその本音をつぶやく。そこにいない者の悪口を言ったり、他の者の仕事の手際の悪さを示唆した。

 皆がいろいろ言っても何の反応もしない利久だから、そういう愚痴が言えるのだろう。だから皆が利久には油断していた。久貴に毒を盛っているものがいれば、利久の目に止まるはずだった。しかし、しばらくその役で台所に入っていたが、そんな怪しいものはいなかった。


 久貴のお膳を直接運ぶのは、利久の仲間の直江であった。そして直江は久貴がその食事を終えるまで側で見守っていた。だから食事中に誰かが近づいて、ヒ素を入れ込むことも不可能なはずだ。

 この直江は夜もずっと久貴についていた。もしも夜中に不審な物が現れたのなら気づくはずだった。


 直江は、今回初めて組む薩摩のくノ一である。榊の指令で、この大隅藩の中屋敷へ一年前に入っていた。

 勘が鋭く、その落着き払った物腰は、二十歳という年齢よりも年上に見えた。それを本人に言えば、きっと睨まれてしまうだろうが。


 久貴がしばしば寝込むようになって、直江の負担が増えていた。不寝番は一人では務まらない。久貴が元気ならばまだしも、敵の毒にやられていた。一時の油断もならなかった。やむを得ず、薩摩藩からもう一人、忍びの応援を頼んでいた。忍びの仲間が増えると目立つし、勘づかれる可能性が増える。しかし仕方がない。

 男である利久には、直江のように奥向きに堂々と入れないからだ。精々、夜中に物陰に潜むことしかできなかった。


 利久は天井裏に上り、久貴の寝殿を見守ろうとしていた。しかし、利久は気づいた。そこに敵がいたという気配を感じ取っていた。

 久貴の寝殿の天井裏には誰かが潜み、様子をうかがっていた形跡があった。どの座敷の天井にはうっすらと埃をかぶっているが、久貴の寝る真上はそれほど埃が積もってはいない。誰かが最近までそこに潜んでいたことを意味していた。

 それがわかった利久は、すぐさま天井から抜け出した。敵は天井から久貴を狙っていたのだ。今度は自分の形跡を残さないように気を付けて天井裏から出た。


 利久は床下へ忍び込む。下からは畳もあり、その様子は上ほどは響いてこないが仕方がない。

 利久はずっと考え混んでいた。天井裏にはかすかな香りが残っていた。それは常人の鼻には嗅ぎ取れないほどのほんのわずかな香りだ。上に潜んでいたのはくノ一だと確信していた。


 奥女中はその殆どがこうを好む。それも皆が別々の香を選んでいた。くノ一は強い香は使わないはずだ。すると、そのくノ一といつも一緒にいる誰かが香を使っていて、気が付かないうちにその香りが染み込んでいたのだろう。

 利久はその香りをどこかで嗅いだ記憶があった。しかし、なかなか思い出せないでいた。

 そんな時、お律が利久の長屋に現れて大騒ぎとなった。

 お光と接触して、利久の私生活から乱そうとしていた。そのため、すぐに長屋を出た。お光は日に日に衰弱している。いつまでその身を自分で守れるのかわからないからだ。

 雪江の知り合いの離れに入れることは本当にありがたかった。少なくともお光の身の危険を心配する必要はない。今、利久は油断できない状況になっていた。


 敵の手の内はわかった。

 たぶん敵は、紐を使っていたのだろう。あらかじめ湿らせた紐を天井から久貴の口元へおろす。上からヒ素を溶かした液体をその紐に伝わらせ、寝ている久貴に飲み込ませるのだ。

 久貴は11歳の子供だ。砂糖水の中に入れた毒物なら、口に含まれれば飲み込んでしまうだろう。ヒ素なら少しだけで充分だった。それを繰り返し続けていれば体が弱っていく。


 直江が毎晩監視していても灯りの下でずっと見ているわけではない。どんな手練れでも長い夜の間には隙ができる。暗がりの中、目立たない細い紐をたらし、毒物を仕掛けるくらい容易なことだった。


 久貴がこうした原因不明の病気で亡くなっても、たとえ誰もがつなぎ藩主の貴史の仕業と疑っても、確たる証拠がなければ黙殺されてしまう。実際にも他の藩で密かに仕組まれた病気にかかり、死に至らしめられるということはあった。

 そういう時代であった。二十一世紀のように、解剖してその死の原因を調べることは不可能だった。


 それから利久は寝ずの番をしていて、ようやくその天井裏に潜む影を見つけた。あの残り香だった。それと同じものがかすかに夜の静かな空気に乗り、久貴の部屋に入り込んでいた。

 利久はその日、隣の座敷に観音隠れという微動だにしない物と化す術で隠れていた。

 向こうも利久の気配に気づいた。毒を盛ることをしないですぐさま動く。そのくノ一は外へ逃げ出した。利久もその後を追った。


 そのくノ一も素早い動きをしているが、利久は特に走ることには自信があった。その逃げる先を予測して追う。木の生い茂る奥の庭に逃げていった。そのくノ一の足に、木の枝を投げつける。その女はうまくかわしていくが、それだけ足が遅くなり、そのうちの一本は脚に絡んだ。利久はその距離を縮めるために跳躍し、くノ一に追い付いた。その腕を掴んだ。


「くっ」

 そのくノ一が利久に切りかかってくる。それを難なくかわした。

 その直後だった。暗い木々の上から、小指ほどの細い棒手裏剣が飛んできた。それも一つや二つではない。利久は体に向かって放たれたその殆どを叩き落としていた。

 しかし、数本が捕まえたくノ一の胸に刺さっていた。そのうちの一つは心の臓に近い。その棒手裏剣はまだ飛んできていた。


 それは利久だけではなく、仲間のはずのくノ一までを狙っていた。その女が口を割るのを恐れているのだろう。非道な仲間だった。利久は思わず同情する。そのくノ一を腕に抱き、木の陰に潜んだ。

 それはいつかの部屋子だった。鏡を割ってしまったという奥向き取締役の桐嶋につく少女だった。やっと思い出していた。その香は霧島が好んでいた香りだった。

 その手裏剣には毒物が塗ってあったのだろう。少女は苦悶の形相でのたうち回る。すぐさま手裏剣を抜き、その傷口を吸った。毒を吸いだすのだ。

 敵のくノ一だった。しかし、哀れだ。暗殺に失敗し、その身を拘束されそうになった途端、味方から命を狙われた。忍びの顛末だった。


 闇の中から棒手裏剣で狙っているのは、くノ一を見張る忍びだとわかっていた。

 くノ一はその屋敷の内情を探るため、長く奉公を続けることが多かった。しかし、その長い間に敵に情けをかけてしまう場合もあった。そのくノ一が裏切らないように、見張り役を立てるのだ。敵に捕まり、その口を割らせないためでもある。厳しい掟だった。


 突然、お律がものすごい形相をして斬りかかってきた。お律は仲間が利久にやられたと思い込んでいた。

「よくも、お澄をっ」

 利久は、お澄と呼ばれた傷ついたくノ一を木の根元に寝かせる。気を失っていた。毒は吸い出せるだけ出していた。後はお澄の生命力次第だ。

 まだ闇の中に潜む気配はあった。今度はお律がやられないように諭す必要があった。


 お律はムキになって斬りかかってくる。利久がかわす。それをまた振り向きざまに刀を振り、物凄い勢いで突いてきた。その一撃を受け止め、押し合う。そしてそっと囁いた。

「毒は吸い出した。出血はそれほどではない」

 お律の目が丸くなった。

 なぜそんなことを利久が言うのかという目。

「よいな。お前は狙われているぞ。お澄を狙った手裏剣を見よ。放ったのが誰なのかわかるか」

 そう囁いて、利久はお律から離れた。お律も一度飛び退き、地に転がっている棒手裏剣を見た。その顔色が変わった。心当たりがある顔だった。


 今度は利久がお律に向かって刀を振り下ろした。お律の刀をめがけてだ。白刃同士がぶつかり合う。

「まだ見られている。戦え。私がお前の腹を打つから、刺された真似をしろっ」

 お律がそれを理解した。

 監視役はお律が利久をやるか、やられるかを見ている。利久がお律を殺せば、もうその監視役はお律を始末することはなくなる。例えそれが後でやらせだとわかっても、今のこの時は誤魔化せる。


 利久とお律が再び後ろに飛びのいた。

 呼吸を合わせる。お律が大きく息を吸い込んだ。

「よくもっ、お澄の仇」

 そう叫び、利久めがけて刀を振り下ろした。利久はお律の腹を突いた。

 ううっとうめき、うずくまるその背をザクッと斬った。

 お律の闇装束がはらりと切れ、闇の中に白い肌が浮かび上がった。その背中に一筋の赤い傷が入った。

「ぎゃああ」

と派手な声を上げる。背中の皮膚をわずかに切っただけだった。

 それはお律にとって予想外のことだった。本当に背中を斬られたかのように叫び、その場に倒れた。

 それなりの効果はあった。闇の中の見張り役の気配が消えていた。お律は利久に始末されたと思ったのだ。


 お律は地に倒れたまま、しばらくはじっとしている。そこへ直江がきた。

「利久殿、仕留めたのか」

「ああ、ご覧のとおりだ」

「なぜ生かして捉えなかったっ」

 強い口調だった。

「思ったよりも抵抗されたんでね」

 軽々しい口調で言い訳をした。そう言いながらも利久と直江だけに通じる表情と目の動きで、お律とお澄が死んではいないこと、監査役がいたことを知らせていた。

 直江はその表情を変えない。しかし、敵の忍びを助け、その口を割ることができれば、久貴の暗殺計画が明るみに出て、つなぎの貴史を失脚させることができる。


 直江は屋敷に残り、久貴をそのまま警護することになった。利久は気を失ったままのお澄と死んだ真似をしたお律の二人を両肩に担いで、小舟に乗り、薩摩藩の下屋敷へと向かった。二人にはむしろをかぶせてある。


 利久は小舟を漕ぎながらお律と話していた。

 やはりお律とお澄は、若君の久貴を暗殺するように命じられたくノ一だった。その方法は利久が考えた通りで紐を使って毒を盛っていたのだ。

 お律とお澄は父親の異なる姉妹だった。


「若様のお命を狙えと命令が下った時は胸が震えた。江戸屋敷にいる我が大隅藩の藩主となられる方だったから」


 つなぎの藩主からの理不尽な仕事だった。

 忍びは命じられれば、それが正義とか悪とか関係なく動く。重要なのは誰の下で働くかだった。上の令によって人を殺しもする。しかし、今の貴史はほんの数年だけのつなぎだった。その忠義心も薄れる。その理由も大隅藩の金を使い果たし、それが薩摩の本家に見つかったら貴史が失脚させられる、そんなことだった。


 貴史の重臣、松野が卑劣な手を使った。事もあろうことに、貴史の実母とお律とお澄の真ん中の妹とその娘を人質にとっていた。確実に暗殺を実行させるためだった。

 お律も、もし妹と姪だけならその命も諦めてもよかったが、大隅藩の藩主の実母が人質になった。

 貴史は乱心していた。自分の母をも手にかけようとする松野の言いなりになっていた。それが明るみになれば大隅藩はお取りつぶしになり、幕府は薩摩藩にも何か言ってくることは明白だった。


 貴史の実母は病気と言うことで、城内の小さな隠居部屋に閉じ込められていた。厳しい監視がついていた。それは見る人には、手厚く看病しているという印象を与えていた。

 そして、お律たちの妹と姪はまったく謂れのない罪状で地下牢に入れられていた。お律たちが裏切ったり、失敗すれば即座に理由をつけて処刑できる体制だった。

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