お光の容態
さて、お遊びエピソードはおしまいです。ちょっと遊び過ぎたかもしれませんが、これからは第二章のエンディングに向かって、どんどんシリアスな話になっていきます。当初から企画していたことですが、つらい話です。
桐野の中屋敷に、明知の母、理子と側室の八千代が訪れていた。
安寿の確実な懐妊の報告をするのには、後十日ほど待てと言ったのに、その知らせはすぐに加藤家へ届いていた。その後すぐに理子たちが喜び勇んで駆けつけてきたのだ。
理子はもちろん、八千代も自分のことのように喜んでいた。やはりまず先に、正室の安寿から産んでほしかったようだ。安寿もはにかんで笑っていた。後は上屋敷が出来上がれば言うことはない。加藤家も安泰である。
「今日は我が藩の台所役人も連れてきている。ここの料理人にいろいろ教わるためにな」
理子が雪江にそう話していた。理子は明知が丈夫になったのは、ここでの薬食いのおかげだと気づいていた。
「はい、明知様も安寿様も、ここの味に馴染んでいただいております。今日はぜひ、理子様と八千代さんにもご賞味いただければと思います」
雪江は、徳田と裕子の腕が認められたことを喜んでいた。
その日は遅い昼餉として、理子と八千代にもオムライスを味わってもらうことにしていた。
安寿も悪阻が始まれば食べられなくなるだろう。それまで少しでも栄養をつけておこうと連日、安寿が好んでいたメニューのオンパレードだった。やはり安寿も若者だけあって、揚げ物も好きだった。
「食べられなくなったら久美子先生に相談して、特別の料理の献立を作ってもらうから。妊婦にはカルシウム、タンパク質も必要だし、何でもバランスよく摂取できるようにね」
そういう雪江を前に、理子と八千代が頼もしそうに微笑んでいた。例え、その言葉の意味がわからなくてもよかった。
そんな嬉しい最中でも、雪江の心は半分曇っている。お光の容態が芳しくなかった。
離れに移ってから、すぐに久美子から面会謝絶を言い渡されていた。毎日、末吉に手紙を託して、お光の容態を事細かく知らせてくれていた。
かなり末期の症状が出ているらしい。横になっていると肺に水がたまるらしく、激しくせき込むのだそうだ。それで布団を重ね、少し上半身を起こすようにして、寝ているらしかった。
しかし、その体制だとお光が熟睡できないらしく、昼も夜も関係なく起きたり、ウトウトしているようだった。
そして、気になる利久は殆ど姿を見せないらしい。お光のことを心配する必要がなくなったからなのか、任務が大変なのかはわからない。それでもたまに夜中に戻ってきたりすると書いてある。
昼は小百合が付き添い、夜は久美子がずっとついた。
雪江もお光に会いたかった。ずっとついていたい。しかし、久美子からは一向に許しが出なかった。
雪江が来れば、お光は無理をしてでもいい姿を見せるからだろう。今は体を休めさせてあげて、と言われていた。
雪江は、せめて利久がお光の側にいてくれれば、こんなにやきもきしないと思っていた。
ようやく、久美子から面会の許しがでた時は既に十日が立っていた。
雪江が離れを訪れていた。
久しぶりに見るお光は、やつれたままの状態だった。体を起こすのを手伝う。その背中はますます細くなっていた。
「今日はだいぶ気分もよいのです。それでお久美さんにお願いして雪江様を呼んでいただきました」
「はい、良かった。やっと会えました」
だいぶ春めいていたが、じっとしている身には寒く感じられるだろう。
雪江は、お光の背に綿入れ半纏をかけた。
「本当にご無沙汰しておりました。雪江様に会えることを心待ちにしておりました」
お光はいつもの口調でいつもの笑顔を向けてくれていた。雪江も思わず顔がほころんだ。
お光が合掌していた。
「本当に感謝しております。ここは本当に快適で心が落ち着けます。お久美さんにも娘さんの小百合ちゃんにまでよくしていただいて」
「そんな・・・・・・」
利久のことを聞きたかった。本当のお光は利久にいてもらいたいはずだ。
「利久を責めないでくださいませ」
「えっ」
心が読まれたのかと思った。
「ここにいなくても精一杯、私の事を心配しております。でも、私が安全なところにいるから利久は安心して任務に打ち込めるのです。時折、気配がいたします故、戻ってきてはいるようです」
「そうなんですか」
雪江はもっと言いたかったが、やめた。お光がそれでいいのならいい。第三者がとやかくいうことではなかった。
障子を開けると、中庭の桜の花がちょうど目の前に見えた。
「きれい」
というと、お光も賛同する。
「本当に美しいこと。これがみられただけでもうれしい」
雪江はその言葉に思わず涙がこみ上げてきた。しかし、ぐっとこらえた。
だめだ、泣いたりしてはいけない。
お光はそんな雪江の心情がわかっているのか、穏やかな、どこかで聞いたメロディーを口ずさんでいた。
「あ、これ。確か、讃美歌の・・・・・・」
「はい、お久美さんが教えてくれました。これともう一つ」
そちらも歌う。
先に口ずさんだのは、「アメージング・グレイス」(讃美歌第二編167番)、後にお光が歌ったのは「慈しみ深き」(讃美歌312番)だった。両方ともそのメロディは知っていた。それを聞いていると、心が落ち着いてくるのがわかった。お光が嬉しそうに歌うことが雪江の救いだった。
一度面会の許可が下りると、雪江は毎日のように通った。朝から暗くなるまでだ。残された時間を一緒に過ごし、利久がいないということを忘れさせてあげたかった。
つらそうなときは無理にでも寝かせ、雪江もその傍らに座ってその手を取っていた。
咳き込めばその背中をさすった。咳が止まらないということは苦しい。その姿に涙がこみ上げてきても、そっと涙を拭き、元気なふりをしていた。つらいのは雪江ではなく、お光自身なのだから。そして、咳が治まるとお光は必ず雪江を元気づけるかのように、雪江もお気に入りとなった讃美歌を口ずさんだ。
「先生、今夜から私、ここへ泊る」
久美子が驚いた顔をした。
「いいの? 大名の奥方様が外泊なんかしちゃって」
「龍之介さんがいいって言ってくれた。夜、遅く帰ってくるんだったら泊まった方が心配ないし、屋敷へ帰っても私、全然落ち着かないから」
雪江はペロリと舌を出した。
「先生、私もいるからね。交代で寝よう」
そう、久美子を休めるためだった。もう何日も久美子が夜、ずっと起きてお光に付き添っていた。これ以上、久美子だけに負担をかけるわけにはいかない。龍之介にそう直訴していた。
「あら、いいのよ。私は昼間、ちょこちょこ寝ているの。だから、それほどじゃないの」
「でも・・・・」
雪江が困った顔をしていると、久美子がその意をくむ。仕方なく笑った。
「わかった。ありがと。お言葉に甘えてそうさせてもらうわね」
久美子が折れてくれた。
お光の布団の両脇に、それぞれの布団を敷いた。お光が寝たら二人も体を休めるためだ。お光が咳き込むと二人が起き、落ち着くまで介抱していた。
利久はこんなにお光が大変な時になにをしているのだろうか。いくら仕事でも自分の妻がここまで弱っているのだ。誰かほかの人に変わってもらうわけにはいかないのか。
しかし、利久は忍びだったと思い出していた。その秘密の任務に代りはいないだろうと思った。
お絹が小次郎のところへ輿入れすることを承諾した。
一度、土屋家の養女として家に入る。そこで武家の女性としての教養と作法を身につけることになった。そして輿入れは、子供が生まれてからだ。たぶん、母体が落ち着いて動ける頃、秋になる予定だった。そしてそれまで孝子が土屋家に教育係として土屋家に通うという。
雪江は少し焦っている。あのお絹が雪江よりも武家の嫁らしくなったらどうしようかと考えていた。お絹に差をつけられてしまっては面目が立たない。雪江もそのハチャメチャな自分の行いをあらためることを考えた。
そのようなおとなしい雪江など何やら不気味なだけだと龍之介には言われているが。
お光は夜、咳き込むことが多くなっていた。上屋敷から藩医が来ていた。ハッカ(ミント)の香りがする塗り薬と別の咳止めをくれた。少しは助けになるはずだと。そしてその藩医の弟子が夜になると離れに待機してくれることになった。
雪江が中屋敷へ戻らないと聞いて、父が送りこんでくれた。仕方なく、雪江は夜には屋敷に戻るようになった。
一度だけ、ちょっと戻ってきた利久と鉢合わせした。
その袖を引っ張り、すぐに逃げられないようにする。
「利久さんっ」
利久は雪江の真剣な物言いに、足を止めた。
「雪江様、いつもお光と一緒にいていただきましてありがとう存じます」
「お礼なんていいんです。利久が一緒にいてやってください」
「はい、今しばらくすればなんとか」
「お光さんがかわいそうっ」
利久は雪江を見て、聞き分けのない妹を見るようにやさしく言った。
「お光は大丈夫です。私の妻ですから」
しかし、その意味ありげな言葉に、怒りをぶつける。
「妻ですからって言っても、夫である利久さんにそばにいてほしいに決まってるの」
もう雪江がその言葉を言い終わるときには、利久は目の前から消えていた。その袖をつかまえていたはずなのに、もう姿がなくなっていた。
そのことをお光に不満顔で訴えた。するとお光はくすくす笑い出した。
「私達、忍びは何があっても任務第一なのです。例え、親の臨終であってもその任務を全うすることと教えられてきました。利久はそれを私の父からそう教わったのです。ですから、あの利久が私のためにその任務を放りだしてしまうことは決してございません。私も喜びはしませんし」
絶句した。
「良いのです。利久は・・・・・・たぶんもう少しで片が付くと、そう申しておりました」
「あ、そうなの?」
「はい。でも数日は戻らぬとも」
「え、また数日?」
また雪江の目が吊り上がった。