雪江のイライラの原因とは
屋敷に戻り、龍之介と小次郎にはお絹と話したことをそのまま伝えた。
後はお絹の心次第だった。
小次郎は、何とも複雑そうな顔をしていた。あの孝子がお絹の味方になってくれたことは意外だったようだ。小次郎にとって孝子は、いつも小言を言う母親のような存在だから。
その日の夕餉、雪江はそっと安寿にもお絹の話をした。女性同士ではこうした縁談の話や人のうわさ話が多い。
「そのお話がまとまれば、すぐにでもお輿入れなされるのでしょうね。わたくしもその方にお会いしたいと思います」
安寿はそう言ってほほ笑んだ。
生まれながらの姫、そして加藤家の奥方としてその気品を持っている。雪江は改めて安寿を見直していた。奥方の見本として安寿を見習えばいいのだろう。
「本当にうらやましい。もうすぐややが生まれるなんて」
と、ポツリと言う安寿。
「今日、明知様とお義母さまのところへ行って参りました」
「えっ、外出したんだ。理子様、お元気でしたか」
「はい、皆、明知様のお姿に驚いておられました。いつも便りにてご報告をしておりましたが、顔色もよく、体格もがっしりされてと」
「私達、毎日見ているからその変化にあまり気づかないけど、久しぶりに見たら、そう、驚くかもね」
明知は龍之介と談笑をしていたが、こちらが明知のことを話題にしていると気づいているようだ。チラチラと見ていた。
「やはり薬食いは効くと実感したご様子で、近々、加藤家の料理人がこちらに出向いて、その料理法を学びたいと申しておりました」
「それなら徳田くんが教えてくれると思う。よかった。向こうもそう受けいれてくれて」
龍之介がこっちを見ていた。
「なに? なんか言いたそうだけど」
と雪江が問う。
「いや、今は機嫌がいいのだと思って」
今朝のいらいらのことだった。
「ああ、ごめんなさい。あれは・・・・」
雪江にはもうその原因がわかっていた。
しかし、明知を見て口をつぐむ。
「一応、甘いものを補給したから大丈夫よ。それにこれは期間限定のものだし」
本当はチョコレートが一番よく利くのだ。
「だから、なんなのだ。体調がすぐれなかったのか、それともわしに不満でも・・・・」
雪江は仰天する。そんなふうに龍之介が考えているとは思ってもいなかった。
「あ、勘違いしないで。本当に龍之介さんにあんな言い方して悪かったと思ってる」
そう言っても龍之介にはまだ何か納得できない様子だ。しかたがない。明知の前だが、打ち明けることにする。
「じゃあ言うけど、たぶん、私、PMS(月経前症候群)だ」
「ぴい・・・・」
龍之介が目を剥く。わかるように説明しろということだ。
「うん、月のモノが来る前に起る現象。女性の八割が経験するって言われているの。イライラしたり、頭が重かったり、腰痛、物事に集中できなかったりってこと」
「つ、月の・・・・」
龍之介が息を止めて、目を見開いていた。明知もその意味がわかり、どうにも困った顔でいる。
だからはっきりと言わなかったのだ。さすがに他の男性がいるところでは言いにくい。
「チョコレートがあればね、結構落ち着いていられるのよ。でもここでは無理だし。裕子さんがそれに近いものを作ってくれるけど、やっぱ、違う」
見ると隣の安寿でさえ、顔を真っ赤にしていた。
「え? そんなに恥じらうことなの。女性としたらあたりまえのことじゃない」
「それはそうでございますが・・・・・・」
今までの雪江なら笑いとばしていたが、その安寿の恥じらいにかわいらしさを感じていた。お手洗いに行くのにも決してそういうことを口にもしない。人の目をはばかることから、お手洗いのことを「はばかり」ともいう。
龍之介は、そんなことを聞くのではなかったとばかりに、もう別の話題で明知と話をしていた。
ふん、と思う。だいぶ龍之介も雪江の行動や言動には慣れているが、やはり、安寿のような女らしい奥方の方がいいのだろうか。
そんなことを考えていた。
「雪江様のいつもの侍女、お初はどうかしましたか。今日は姿が見えませぬが」
安寿がそう話しかけてきた。
「あ、お初ね。あの人、月のモノの二日目。いつもつらくて大変なの。だから昨日のうちに休んでいいって言ったの。たぶん、自分の部屋で寝てるんじゃないかな」
再びガールズトークだ。
こんなこと、男性には言えない。理解してもらえない。学校でも女の子だけで話せる話題。
「安寿姫はもう終わった頃? 前回は私より早かったし」
などとまたプライベートなことを聞いている。
しかし、安寿はきょとんとしていた。
「はあ、もうそんな時期でございましたか。いえ、わたくしはまだにございます」
雪江は先月の記憶をたどる。
「あ、遅れるタイプだったっけ?」
安寿は本当にわからない様子だった。
「さあ、わたくし、恥ずかしながらよく覚えておりません」
雪江は安寿の侍女を思い出していた。あの几帳面な奈津なら絶対に覚えているはずだ。
「奈津さんに聞いてみてよ。彼女ならわかる」
安寿は、別室に控えている奈津を呼んだ。
奈津を交えての女三人が座敷の隅でコソコソ話をしていた。そんなことを公に話しているとまた、龍之介に叱られるからだ。
やはり、さすがの奈津だった。自信満々に答えた。
「先月は満月の翌日に始まりましてございます。そうなりますと、あら、あらあら、あらら」
奈津が計算をしていた。黒眼が上を向きっぱなしだった。
息を飲んでいた。
「む、六日も遅れて・・・・・・」
「やっぱ、そう? よく遅れる?」
「いえ、決してそのようなことは。心労で寝込んでいらしたときも早く来たくらいで、遅れるなどということはこの奈津が安寿様について、一度もございません」
奈津は興奮状態で、唾をも飛ばさんばかりにきっぱりと言った。
「しぃ、声が大きい」
雪江は気が気でない。双子が同時にこっちを見ている。それも怪訝そうに。
しかし、雪江はその何かに気づいた。
「あっ」
と声を上げた。すかさず奈津も声を上げる。
「はっ」
雪江と奈津が顔を見合わせ、そして安寿を見た。二人声を合わせて叫ぶ。
「あ~っ」
安寿はまだ、分かってはいない。もう雪江と奈津との会話になっていた。
「もしかすると、もしかするのでは・・・・」
「うん、でもまだそう判断するのは早くないかな」
「確かにそうでございますね。もう十日ほど様子を見れば確実かと思います」
「そうね、そこまで待てば、つわりもあるかもしれない」
安寿はその会話についていけず、キョトキョトしていた。
「あ、え? 何が、誰がでございますか」
雪江が安寿を見て言う。
「懐妊かも」
奈津も安寿を見て言う。
「ややでございます」
安寿があっけにとられていた。そして大きく息を吸い込み、大きな声を上げた。
「ええ~っ」
雪江も、いつもの安寿らしくない大声に驚いていたが、双子も驚いてこっちを見ていた。
「あ、なんでもない」
まだ打ち明けるのには早かった。喜ばせておいて、間違いだったらその二倍くらいがっかりする。
しかし、龍之介はかなり睨んでいる。
「雪江ならいつものことだが、安寿姫が大声を上げるとはよほどのことであろう。なんでもないことはないはずだ」
なんともひどい言い様である。
「ダメ、いえない」
「雪江っ、申せっ」
仕方なく、安寿を見る。
「これは私の事じゃないから、私の口からはいえない」
「安寿のことか」
明知が目を向けていた。
皆が安寿を見ていた。その視線をいっぺんに浴びて戸惑う様子。
「まだはっきりとはわかんないよ。それでもいい? もしかするとがっかりすることになるかもしれない。それでもいいんなら、安寿姫から発表します」
「え、わたくしから・・・・」
安寿は、明知を見て顔を赤らめる。うつむき加減で、消え入るような声で言った。
「・・・・やや、かもしれないと・・・・」
双子が息を止めていた。
すぐに明知の顔がほころぶ。
「それは、誠か」
安寿はついさっき、そう言われてわかったのだ。安寿こそ、同じ問いを向けたいところだろう。代りに雪江が答えた。
「たぶん、そうだと思います。来週くらいになれば確実です。まだ不安定な時期だから無理しないで」
明知は目を輝かせて安寿に近寄り、そっと抱きしめていた。
「でかしたぞ、安寿」
「明知様。まだわかりませぬ」
安寿は、明知の腕の中で困惑している。まだ確実ではないからそう大っぴらに喜べないのだろう。
「良い、間違いでも良い。わしは嬉しいぞ」
雪江はそっと立ち上がり、龍之介の方へ行った。
龍之介も嬉しそうに二人を眺めている。雪江と目が合い、その奥にうらやましいということを分かち合った。
雪江は安心した。
安寿が側室よりも早く子供を産めばすべてがうまく回っていくだろう。
雪江は龍之介に寄り添うように座る。龍之介も肩に手をまわした。
「本当に今朝はごめんね」
「雪江が反省しているのならもうよい。過ぎたことだ」
「ありがと」
なんとなく、安寿のようにかわいらしい女性になりたいと思っていた。
「いいな、うらやましいね」
そうつぶやくように言った。
「そうだな。しかし、そう急がなくてもよい」
雪江は意外な目で見た。龍之介こそ、すぐにでも子供が欲しいのかと思っていたからだ。
「好きあった二人がややを望めば、やがては授かる、それでよい」
「うん、それってすごくいい」
その夫婦にあったペースで事が進めばいい。