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客人

 甲斐大泉藩中屋敷に、客が訪れていた。

 ぜひ、桐野正和と雪江に会いたいということだった。

 龍之介は跡取りだから、正和の名を出されても不思議ではないが、雪江のことを知る者は少ない。面識のない侍から、突然奥方にも同席してほしいということはかなり異例まれなことだった。

 そこで龍之介は、まず小次郎をその人物と会せた。用向きを聞いてから、雪江を呼ぼうということになった。


 小次郎は神妙な顔つきで、客人の待つ座敷へ入っていったが、緊張がほぐれた笑顔で戻ってきた。

「お会いなされませ。そして、雪江様にもそうお伝えいたします」

と言った。

 小次郎がそういうのなら、危険性や不審なことはないのだろう。しかし、不思議だった。小次郎もそれ以上何も言おうとしない。会えばわかるとの一点張りだった。

 その侍は、薩摩藩島田家の家臣、安倍信孝という。


 龍之介が、表向きの小さな座敷に入って行った。その下座のほうに若い侍が平伏していた。

 威厳を持たせるためにゆっくりと上座に座り、その低い姿勢でいる侍の背中を眺めた。

「面をあげよ」

 そう声をかけながらもじっと観察していた。龍之介の思考回路は目まぐるしいほどに動いていた。


 薩摩藩の一家臣が一体何の用があるというのだろう。藩からの特別な申し立てがあれば、このような下っ端の侍ではなく、家老級の家臣が出向くはずだった。

 そしてそれは龍之介のところではなく、藩主のいる上屋敷へ行くはず。家臣同士のいざこざなのか、それともこの中屋敷に関することなのか、全く見当もつかなかった。


 信孝が顔を上げた。まだ二十歳、二十一という感じの若い侍のようだ。

 顔を見た瞬間、ふとどこかで一度会っていると思った。

「薩摩藩の家臣と聞いたが、名は・・・・」


 既に名前も聞いていたが、相手にしゃべらせるために尋ねる。

「安倍信孝にございます」

 つるりとした少し青白い顔が緊張のためか、ひきつっていた。声も上ずっていた。

 はっきりとした目は真っ直ぐに龍之介の目を見ることができず、少し泳いでいるし、そう名乗ったあと、横一文字にキュッと結ばれた唇からかなり神経質な気性だと判断した。

 それを見て、もう龍之介の中には、先程どこかで見た顔という印象は飛んでしまっていた。このような侍には会ったことはない。まるでとんでもない粗相そそうをしたことを告げにきたような様子だった。

 龍之介の方が身分は上だが、年は下だ。自分のような若輩者に会うだけで、こんなに緊張していてはこの男はこの先、苦労するだろうと他人事ながらそう考えていた。少しその緊張を解くために、やさしい声をだした。


「安倍信孝殿は、薩摩藩の家臣と聞いた。この正和に是非にも会いたいと申したそうだが・・・・」

「はっ、それがしのような者にお目通りいただき、ありがたく存じます」

 信孝は、緊張を解くどころかますます声が上ずっていた。

「すぐに奥(奥方のこと)が参る。しばし、待たれい。女人には余計な支度が要るのでな」

 少し笑いを誘おうとしたが、信孝の固い表情は変わりなかった。


 雪江は、急に表向きに来て人と会えと言われ、ブーブーと文句をを言っているらしかった。雪江がこうしたところで客に会うということは今までになかったから、大いに戸惑い、武家言葉にぼろが出ないか気がかりなのだろう。それは龍之介も同じだった。雪江の口からどんな言葉が飛び出すか、その場合如何に誤魔化そうか考えていた。

 やはり先に要件を聞いておくべきだろう。その方が心が落ち着ける。


「藩主の正重ではなく、この正和に話があるということだが」

「はっ、御意にございます。本日は雪江様にもいろいろとご迷惑をおかけしましたこと、そのお詫びに参上いたしました」

「詫びだと?」

 龍之介は、その思いがけない言葉に大きな声を上げた。その時の信孝の様子が、神経質っぽい若造から少し変化していたことに気づいていなかった。


 そこへ小次郎が、開け放たれた襖の陰に座り、雪江様がお越しになられましたと告げた。

 この侍は詫びに来たと言った。それも雪江と共に。誰かの代理人なのか。見知らぬ者から何を詫びてもらうというのだろう。

 

 廊下から衣擦れの音がしてきた。いつも足音を立てず、すり足で歩けと小言を言われている雪江だ。相当気を使っていると見える。しおらしい奥方が歩いているようだった。やればできるのだと妙なところに感心した。


 信孝は、座敷に雪江が現れると再び平伏した。

 雪江は色鮮やかな打掛に身を包み、珍しく化粧までしていた。見かけは充分、大名家の奥方だった。

 雪江は座敷に入り、ツンと澄ました顔で龍之介の脇へ歩いてきた。そして頭を下げている信孝を睨みつけていた。こいつが呼び出した本人かと言わんばかりの顔。

 雪江がやっと座った。その時よほど緊張していたのだろう。雪江が安堵のため息をついた。それが、ここまでくるのにどれだけ神経を使って歩いてきたかを物語っていた。それがわかって、つい龍之介は頬を緩ませた。

 その瞬間、雪江と目が合い、龍之介も睨まれた。笑ったのがばれたようだ。その口が、なによ、と言っていた。


 龍之介は改めて信孝に関心を向ける。

「雪江だ。さあ、用向きを聞こう。なぜ、詫びに来たのかも聞きたい」

 はっと口ごもった返事をし、信孝は顔を上げた。

「雪江様もお元気そうでなによりでございます。突然の訪問、誠に申し訳なく思っております」


 龍之介は気づいた。そこにいる信孝はさきほどの神経質で緊張していた若侍ではなかった。どこか余裕のある二十六、七くらいの侍になっていた。そして声も、どこか聞き覚えのあるものに変わっていた。

 詫びを申し入れに来たと言った。雪江を知っている、それも今ここにいる雪江がかなり無理をしている事を知っている人物。この信孝は雪江の緊張した様子を感じ取って、その氣を変えていた。龍之介と同じ、笑いをこらえているようなそんな雰囲気だった。


 龍之介には今やっとわかった。この信孝という人物が誰なのかということを。問題は、雪江がいつ、この侍の正体に気づくかだった。あまり知らんふりをしていても後でわかったとき、なぜすぐに教えてくれなかったと怒るのは目に見えている。しかし、すぐに明かしても面白くない。

 信孝も同じようなことを考えているのだろう。それならこっちはその素性を知っているということで話を進めていけばいいと考えた。それなら話の内容から雪江も気づくだろう。


 龍之介はそう考えた時、信孝はいつもの知った顔に戻っていた。さすがは忍び。同じ顔のつくりなのに、その表情や態度で、こうも完璧な別人になれるのかと唸りたくなった。

 目がオドオドするだけで自信のない小心者に、目を輝かせて正面から見るだけで、余裕のある大らかな感じになる。疲れた生気のない顔をすればきっと年齢よりもずっと老けて見えるに違いなかった。


「信孝殿、久しく顔を見てはいなかったが、元気な様子。なによりぞ。いつも雪江が押し掛けていって、ご妻女には迷惑をかけてすまぬ」

 雪江が龍之介の言葉に目を剥いていた。一体なんのことだと言わんばかりだった。

「いえ、迷惑などと、とんでもないことでございます。家内も喜んでおりました。このたびは突然の出来事に雪江様にもご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思っております。すべてそれがしの不始末から起ったこと、お許しください」

 そう言って深々と頭を下げた。


 雪江がじっと信孝を見ていた。誰だと探っているのが見て取れた。本当にすべての感情がおもしろいように顔に出ていた。もう気づいてもよかろうと思う。

「今はまだ、宿屋に身を寄せておるのか」

「いえ、家内はある寺においていただいております。それがしは薩摩の下屋敷で雑用をしております。急に一人増えても誰も気にとめません」

 それはこの信孝だからだろう。この化け方なら、以前いた侍のふりをすることは容易な事だと思う。


「雪江は無事に戻ってきた。何事もなかった、それでこの件はいいであろう」

と言うと、信孝は安心したようだ。

「そこでだ。雪江とも話したのだが、ご妻女をどこか安全なところへと思われているのなら、いいところがあるのだがどうだろうか」

 雪江はきょとんとしていて、こっちを見ていた。龍之介はまたもや笑い出しそうになる。

「安全なところ、でございますか」

 信孝は関心を向けていた。

「うむ、以前雪江が働いていた「あかり」という旅籠の中庭にある離れだ。あそこならば外から人が入ってくることもないし、静かだ。一軒家のような造りだから煮炊きもできる」

 雪江が信孝をじっと見つめていた。その話の進行からやっと信孝が誰なのか推測できているようだ。しかし、その確信がないらしかった。顔に穴でもあけるかのように見つめている。

 信孝もじっとその視線に耐えていたが、龍之介が先に吹きだすと信孝も肩を震わせて笑い出した。


「雪江様、そのように見つめられてはこの利久もかないませぬ」

 侍の成りをしているが、もう完全にいつもの利久に戻っていた。

 雪江はえっと声を上げ、利久をみていた。信じられない様子だった。

 結局利久が種明かしをしてしまった。

「もうおしまいか」とつぶやくと利久がさらに笑う。

「はい、あまり知らんふりをしておりますと後で雪江様の怒りをかうことになるかと・・・・」

「それもそうだ」

 龍之介も笑いながら雪江を見ると、もうすでに飛びかからんばかりの怒った顔を向けていた。

 もうすでに遅し、とつぶやいた。


「龍之介さんっ、利久さんだってこと、最初からわかってたんでしょ。なんですぐに言ってくれなかったのよっ」

「いや、わしも今気づいたところだ」

「ほんとに?」

 かなり不服そうだった。皆でからかっていると思っているのだろう。これが二人きりならばとっくに飛びかかられて、首でも絞められているだろう。


「雪江様、正和様を責めてはなりませぬ。それがしがこのような成りをして安倍信孝と名乗って参りました故」

「安倍・・・・・・」

 誰のことだと思っているらしい。

「はい、それがしは薩摩藩の家臣、安倍信行のもとに養子として迎えられました。一応、この名を持つそれがしが本来の姿でございます」

「えっ利久さんじゃないの?」

 雪江が素っ頓狂な声を上げた。

「利久は、育ての親がつけてくれた名でございます」

 雪江はその一言で納得した様子だった。しかし、龍之介は初耳だ。利久の素性は忍びとしかわかっていなかった。

「育ての親?」

と問う。

「はい、お光の両親がそれがしを拾って、利久と名付けてくれました。山を彷徨って瀕死の状態だったそうです。幼かった故、自分が何と呼ばれていたのか思い出せずにいました」

「なるほど」


 もっと深い事情がありそうだった。しかし、今は触れないことにする。この利久はそう簡単には自分のことを明かさないと思う。話題を旅籠のことに戻す。

「中洲の旅籠だが、呉服屋、太物、料亭も持つ地主、関田屋がやっている。信用できるところだ」

「そう、お光さん、そこならきっと安心していられると思います。女将の久美子先生はいい話し相手になってくれると思うし、少し医術の知識もあるから利久さんがいない時、咳き込んだりしたら介抱してくれる」


「久美子先生とは?」

「私と同じ世界から来た一人。実は関田屋のご隠居も私の恩師でした」

 その説明に、利久が納得していた。

 龍之介は、雪江が既に未来からきた秘密を打ち明けていたことに驚いていた。知らない間にここまで気を許していたのかと思う。


 利久は、その医術の知識があるという女将に興味を持ったらしかった。

「一度その旅籠の様子を見せていただけますか。お光なら即座に行くと申すことでしょう。その前にぜひ、この目で見て見たいと思います」

 病床の妻をそこに寝泊まりさせるのだ。そのくらいの用心はあたりまえだと龍之介も思う。

「それは尤もな言い分。離れの中も見て、何か必要な物があったらそれも取り寄せよう」


 今やっと雪江の命を救ってくれた恩を返せるときが来たと感じていた。

「私も一緒に行く。先生を紹介するから」

 雪江はもう利久が承諾したかのようにはしゃいでいた。

 まあ、あそこなら利久も嫌だとは言わない確信があった。造りもしっかりしているし、施錠もできた。

 今までこの二人は隣の声も筒抜けで鍵もない、板と紙でできていた長屋にいたのだ。それならどこでも御の字だろう。


「ねっ、じゃあ、今からいこっ。早い方がいいんでしょ。そうすれば今夜から離れに入れる」

 雪江がそう口走った。

「雪江、そう急かすな」

と窘める。そして利久の様子をうかがった。

 利久は今からと言われ、ぎょっとしたらしかったが、それも良しと考えているようだった。

「雪江様とあちらの旅籠の方のご都合さえよろしければ今からでもそれがしは構いません」 

 利久は落ち着いた様子で、龍之介と雪江を見て言った。

「あい、わかった。ではそうしよう」

 そう許可すると雪江は飛び上がらんばかりに喜んでいた。

「雪江、この時分なら徳田殿もまだ動けるであろう。そう伝えてきなさい」

「はいっ」

 雪江はそう返事をするが早いか、長い裾の打掛を手に取り、座敷を飛び出していた。ドタドタという足音が轟いた。

 もう元の雪江に戻っていた。雪江も大名の奥方としてまんざらでもないと思ったが、それは一時のことだった。




人の表情って、その性格を表していると思います。

とてもきれいな友人がいます。その人がもしもおとなしい人だったら、姫のようだと思います。それによってこちらの話し方も変わってきそう。

ツンとすましている人だったら、なんとなく近寄りがたいかもしれません。黙っていれば美人だと思うその友人からヒントを得ました。

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