悩める雪江と逃亡の二人 2 R15
雪江と利久の目線で書いています。
「さあ、雪江様」
お初が迎えにきていた。
雪江は、龍之介が怒って去っていった座敷にかなり長い時間、そのまま座っていた。
まるで魂が抜けたかのように、ぼうっとしたままでいた。
お初に手を取られ、やっと腰を上げる。
目は開けているが、何も見えていなかった。どこをどう歩いているかも認識していなかった。
それでもお初に誘導されてどうにか雪江の居間にたどり着き、座る。
「ねえ、お初。ちょっと疲れた。休むから一人にしておいて」
「はっ」
お初が去り、襖の閉まる音がすると緊張が少し緩んだのだろう。凍りついていたかのような感情が動いた。
血の気を失っていた冷たい頬に熱い涙が伝う。嗚咽と共に、一度堰切った涙はとめどもなくあふれてくる。どこからこんなに涙が出るのだろうかと頭のどこかで冷めている別人の雪江が考えていた。
今頃、龍之介はこんなにもハチャメチャな妻を持って、後悔しているかもしれなかった。大好きな龍之介に愛想をつかされることの恐怖を噛みしめていた。龍之介に嫌われるくらいなら、最初から籠の鳥になっていた方がよかったかもしれない。雪江のことを考えてくれていたのに、言うことを聞かないで自分勝手な事ばかりしてきた。きっと嫌気がさしたことだろう。
夕餉も取らず、灯りをつけるというお初の入室を拒み、薄暗くなった居間でそのまま座っていた。
苦手な正座も全く苦にならない。皮肉なものだ。
自分の今までの振る舞いの一つ一つ思い出し、龍之介が雪江に愛想をつかせる要因となる出来事を考えていた。
人間、ここまで落ち込むと負のスパイラルに囚われてしまう。落ち込めば落ち込むほど、人の考えはよくない方向へ向くものだ。相手はこう考えているのではないかなどと思えば、きりがないのに。
しばらく、雪江のネガティブ思考はどん底にいた。もう涙も枯れ果て、雪江の顔がごわごわになった頃、考えが一変した。
雪江だって悪気があって黙っていたわけではないのだ。絶対に言わないという約束をして、口を閉じていただけ。
お光たちが忍びかと面と向かって尋ねられ、違うと嘘をついたわけではない。ただ、言わなかっただけのこと。
そう考え始めると地の底まで落ち込んでいたテンションが急激に上がってきた。同時に猛烈な怒りも湧き上がってきた。
龍之介が、忙しいという言い訳をして、一緒にご飯を食べることを拒否してきた。奥向きから出るなということは、龍之介の足が向くまでは顔を合わせないという意味にもとれる。
そんな横暴なこと、絶対に許せないと思った。さっきまで龍之介の言う通りにする籠の鳥でもいいなんて考えていた弱気な雪江は吹っ飛んでいた。
夫婦ってそういうもんじゃないと思う。お互いの個性を認め合って、違う意見もぶつけ合い、二人の人間性を向上させていくことが目的なんだと思うから。
今回は雪江が内緒にしていたことを龍之介が怒った。では、龍之介はなぜ雪江が内緒にしていたかを考えなければならないのだ。そこを理解してもらわないと二人は歩み寄れないと思った。
雪江は、龍之介の寝所を襲撃するつもりでいた。心の内を全部吐き出すのだ。言いたいことを言わないで抑え込んでいるからいけない。ちゃんと顔を合わせて話し合えば、解決することのない負のスパイラルからは抜け出せる。例え、その通りのことを龍之介が考えていたとしても、それならそれで雪江は受け入れられると考えた。
またもや中奥の龍之介の寝所まで強行突破した。お初が止める間もなく突進し、ガラッと荒々しく襖を開けた。
しかし、寝所は整っている布団が敷かれているだけで龍之介の姿はなかった。
「あれっ」
もう寝ていると思っていた。忙しいと言うのはただの口実でしかないと疑っていたから。
後ろから耳慣れた声がした。
「何事ぞっ。雪江がまた、中奥へ乱入してきたと皆が慌てふためいて表の方に報告にきた」
龍之介だった。
「あれ、本当に仕事だったの? まだ、表にいたんだ」
龍之介はそばに控えている小姓に下がるように言った。すぐに龍之介と二人きりになった。
龍之介は帯を取り始める。慌てて雪江がその帯を持ち、着物も取った。一応、簡単に畳んで枕もとに置く。
振り返り、目が合うと龍之介の顔がほころんだ。
はっとした。
もう怒っていない?
「あ、もう寝るんだ」
ここにいていいのか、それとも奥向きへ帰るべきなのか、その判断に迷う。龍之介はなにやらおかしそうに、雪江の上から下まで視線を動かす。
「そんな恰好をしていて寝る気があるのか」
龍之介が笑っていた。雪江は昼間のままの格好でいた。
「ここで寝ていいの?」
まだ少し遠慮がちに言う。
「ふん、いつだって勝手にくるであろう」
いつもの優しい目とちょっと人をおちょくる口調だった。
さっきまで吹き荒れていた吹雪のようなすさんだ心の中は、温かな春風が舞い込んできたかのようにほぐれていた。
「怒ってないの」
恐る恐る聞く。
「何を?」
「あの・・・・お光さんたちが忍びだったってこと、知ってて黙ってたから」
「ああ、あれか。あの時は雪江がわしに隠し事をしていたこと、正直、驚いた。あの時はかっとしたが、こちらも知っていて黙っていたことだ。雪江も口止めされていたのであろう。仕方がないと思っている」
さすが、龍之介だ。一時の感情にいつまでも囚われてはいなかった。
やはり思い切ってここへきてよかった。目を見て、きちんと話すことの大事さを思い知った。
でも、もう一つ内緒事がある。これはまだ言えないが、あることだけは伝えておきたかった。
「ねえ、もう一つ、今は言えないこと、あるの」
「なんと」
龍之介が驚いていた。
「これはまだ絶対に言えない。でもね、いつかは話せると思う。だからお願い、今は聞かないで。そういう約束だから」
大まかな言い方だった。しかし、このまま何も言わないで隠していることはしたくなかった。
「利久たちのことか」
うなづく。
龍之介は黙っていた。
布団の上に胡坐をかく。雪江も一緒に座った。
「それを知っている雪江の身の危険は?」
「たぶん、ないと思う」
隠れキリシタンということ、これは言わない方がいい。
「そうか、わかった。ではもう聞かぬ」
「へっ、いいの?」
もっといろいろ言われるかと思っていた。
龍之介はいつのまにか書状を持っていた。
「利久殿がさきほど書状を持ってきた。事情があり、あの長屋を引き払ったとのこと。雪江にはあそこへ行くなと書いてある。今は二人、別のところに身を潜めているそうだ。後日、利久殿が商売のために来るからその時にまた話をしたいとのことだ」
そう言って龍之介がその手紙を見せてくれた。
達筆で書かれていた。
「これでなにやら事情があるが、利久殿たちが怪しい薬売りの仲間ではないと見ていいだろう。わざわざこうして書状を書いてくる誠実さもある。二人がまたどこかに落ち着いたら、遊びに行くことを許そう」
ほぅと肩の力が抜ける。安心した。
今だ。言うなら今しかない。
「あのさ、ずっと考えていたんだけど、お光さん、体がかなり弱ってきているの。ゆっくりと養生してもらいたいから・・・・・・」
龍之介が真剣な表情で聞いていた。
「旅籠の「あかり」の離れに移ってもらったらいいかなって思ってる」
龍之介が「あかり」の離れを思い出しているのがわかった。
「あそこへ? 利久殿が嫌がらないか?」
「わかんない。まだ言ってないの。先に龍之介さんからの了解を得てからにしようと思って」
龍之介が何やら考えていた。
「雪江も考えたものよ。あそこなら気兼ねなく行かれるし、小次郎も着いていかなくてもいいだろうから」
「あ、わかっちゃった」
「関田屋のご隠居たちの了承を得れば問題はないであろう。あそこなら医者を待機させておいてもいいだろうし、誰かをつけておくこともできる」
「やったっ。ありがとう。龍之介さん、やっぱり大好き」
龍之介はにっこり笑い、雪江を抱き寄せた。
利久は、お光が風呂に行っている間に、雪江への書状を書いていた。これは雪江の夫である正和にも読んでもらうように、二人の連名で認める。
以前、桐野家から利久のことを調べる忍びが来ていた。理由を書かなくても事情故、身を隠すこともあるとわかってくれるはずだった。
とりあえず、雪江がお光を訪ねて、あの長屋に来なければ身の危険はない。それだけを知らせる書状だった。
慣れた道をさっと一走りして行く。桐野家の表の門番に書状を託すつもりでいた。しかし、すぐに小次郎が現れた。小次郎に直接、託す。
桐野家から宿屋へ戻るとき、長屋の様子を見てきた。家の中は別段、変わった様子はなかった。しかし、用心に越したことはない。いつまた利久がいない間にくるかわからないからだった。
一応、つけられていないかを確かめるために、遠回りをして宿屋に戻る利久だった。
お光が起きて待っていた。
「お前様、お疲れでしょう」
「いや、大したことはない。長屋も大丈夫だった」
「そう、よかった」
お光が目を細めて笑った。
風呂上りのほんのり桜色の頬がやけに眩しかった。蝋燭の明かりというものはこんなにも明るく人を照らすものだったのかと改めて思う。長屋では周りの貧しい人たちに合わせて、魚油を使った薄暗い灯りだけだった。
利久は自分の妻女に、いつもよりも眩しさを感じていた。そんな照れを隠すように立ち上がる。
「私もひと風呂、浴びて来よう」
と、慌てて廊下へ出ていた。
これから忍びの任務が忙しくなりそうだった。この宿屋に二、三日いたとしてもお光を独りにしておくことがためらわれた。どこか家でも借りて住むほかないだろう。目立たない田舎がいいのだろうが、それだと利久が頻繁に帰ることができなくなる。そして、お光の身の回りの世話をする人をつけなければならない。
自分の油断から生じた事だと思っていた。こんなに大事な時期に、こんなことになってしまって自分の不甲斐なさに情けなくなる。
明日、下町の方へ足を伸ばしてみようと思った。
風呂から戻るとお光は自分の床に入っていた。しかし、すぐさま体を起こす。
「お前様」
お光が布団の脇をあけた。
「ん」
利久は、そのままお光の床へ入っていく。
お光の咳がでるようになってから、利久は布団の中で抱き寄せて眠ることはあっても、肌を合わせることはしなくなっていた。
なんとなく、お光が壊れてしまうのではないかという恐れもあった。病を背負っているお光を、自分の欲望のためだけに抱きたくはなかった。
しかし、今宵はお光が決心していた。それをお光が言わなくても利久はわかっていた。
お光が利久の温もりを求めていた。今宵だけは病のことを忘れてお互いを求め合う。
そう、たぶん、もうお光を抱くことはないだろう。お光は日に日に衰弱していくから。