悩める雪江と逃亡の二人 1
雪江の目線とお光の目で書いています。
雪江は、自分の部屋でずっと考え事をしていた。
お初たちが気味悪がるほど静かだった。
お光の長屋を出てから、小次郎がそっと言ってきたのだ。あの薬売りは明らかに怪しかったと。そしてお光もそれをわかっていながら誤魔化して、追い返していたのだそうだ。
小次郎は割と強い口調で、雪江に言った。
「よろしいですな。今日のことはすべて若にご報告いたします。今後のことも若のお許しがなければ、当分の間、雪江様を絶対に屋敷の外へお出ししませぬ故」
いつもなら雪江が怒りだしそうなことは絶対に言わない小次郎が、厳しい態度でそう言った。
本当に身の危険を感じているのだろう。そうなると、小次郎は態度を強化する。龍之介側に立って、雪江の睨みにも屈しないのだ。
小次郎がこれだけ強く言うということは本当に危なかったと見える。あのお光の家での出来事は、確かに雪江もおかしいと思っていた。あのお光もいつもの態度ではなかった。
今頃、小次郎が龍之介に逐一報告していることだろう。きっと夕餉の後にかなりきついことを言われるに違いなかった。
しばらくお光のところへ行くなと言われるだろう。仕方がないがお光と会えなくなるのはつらい。病で衰弱していくお光のことが心配で仕方がなかった。
お初がお茶とクッキーを用意してくれるがそれにも手をつけず、いろいろ考えていた。
お光たちにも都合の悪い事情があるのだろう。そもそも忍びが江戸市中の長屋でのんびりと暮らしていること自体がおかしい。それは潜伏して何かの機会を待っているということなのだろう。
あの怪しい女は、雪江たちがいることを知らず、お光たちに接触してしまった、それだけの事……だと思いたかった。
しかし、小次郎はお光もなにやら怪しいことに係わっていると考えている。だから、それがわかるまでお光のところへは当分行かせないと言ったのだ。
命が尽きようとしているお光、最期の最期に何をしようというのか。
お光を守りたかった。どこか安全なところで静かに最期を迎えさせてやりたかった。
「そうだ、今こそあの離れに」
言うが早いか、雪江はすっくと立ち上がり、襖をバシッと開けて、廊下を小走りする。
この名案に興奮していた。あの長屋が危ないのなら、お光を安全なところに移せば雪江が再び訪れることができる。旅籠の「あかり」の離れならうってつけだった。
奥向きから中奥へ入っていった。
雪江がいきなり中奥へ乱入することは珍しくなかったから、家臣たちも驚きの目を向けるが何も言ってこない。
「龍之介さんっ」
あちこちの部屋を捜し歩く。
居間、龍之介の自室や寝室などを覗いて行って、いつも簡単な政務や私事のことなどをこなす部屋にいた。
がらりと襖を開けると、小次郎が驚いていた。
龍之介は、いきなり入ってきた雪江をジロリと睨みつける。
「なんじゃ、不躾であろうっ」
「あ、ごめん」
いきなり入ってきたのはやばかったと思う。
「まあいい。そなたには改めて話がある。ここへ座りなさい」
何やら重い空気に包まれていた。ちょうどお光の長屋でのことを話していたのに違いなかった。
小次郎が雪江に向き直り、平伏する。
雪江はその前を行き、龍之介と向かい合って座った。
タイミングがよかったのか悪かったのかわからない。嫌な予感がする。
「今、いろいろと小次郎から聞いたところだ。何のことかわかるな」
「はい」
龍之介も小次郎も、別人のようで怖い。
「わしは最初から、雪江があの者たちに係わることを良くは思っていなかった」
それはわかっていた。それで喧嘩もした。
「しかし、利久殿はそなたを助けてくれた恩人。あの者たちが直接、雪江に危害を加えることはないと判断したから、時々訪ねていくことを許した」
その通りだ。雪江も神妙な顔でうなづいた。
龍之介はちらりと小次郎を見る。
「しかし、今日、怪しい女が来ていたそうだな。それだけではなく、あのお内儀もただの町人ではないと小次郎が察した」
龍之介は、一つ一つ確認を取り、雪江にその事実を認めさせていた。
雪江も、お光も忍びということを知っていた。しかし、それは伏せてある。ここでうなづいていいのかわからなかった。
雪江がただ黙っていると、龍之介がイライラしたような声で念を押す。
「怪しい薬売りの女が、あの長屋に来たことは認めるのだな。小次郎が中へ入っていくとあのお内儀がその女を庇うようにして追い払った」
それは事実だ。やっとうなづく。
「もしかするとあのお内儀も、闇の者かもしれぬ。怪しい女というのは、実は仲間で何かの報告にきていたということも考えられる。雪江が来ていたことを知らずに入ってきたが、まずいと思い、あのお内儀がわざと声を荒げて追い払う真似をしたのかもしれぬ」
雪江は、龍之介がお光のことを闇の者と言ったことが気にくわなかった。
そうかもしれないが、ものすごくダークなイメージなのだ。雪江を騙しているようなそんな感じ。
確かにお光は忍びだった。でも今は違う、そう思う。
龍之介が黙る。雪江も黙っていた。
再び重苦しい雰囲気に包まれる。
その龍之介が口を開いた。有無を言わせない強い口調だった。
「雪江っ。今後、あの長屋に近づくことはこの正和、絶対に許さぬ」
はっとした。
顔を上げて龍之介を見る。龍之介も正面から厳しい目で雪江を見ていた。
いつもならギャンギャン文句を言う雪江でも何も言えなくなりそうな怖い目。
以前にもそういう目を向けられたことがあった。それも遠い昔ではない。火事のことで雪江が行方不明になった時、迎えに来てくれた。あの時もそんな真剣な目をしていた。
わかっている。
龍之介は決して雪江に意地悪をしてやろうとか、わざとお光と会せないようにしているわけではなかった。
本心から雪江を心配してくれているから言うのだ。
「よいか。今まで黙っていたが、あの利久は・・・・・・忍びの者なのだ」
その口調はまるで、お前の後ろに幽霊がいる、と告知するかのように重々しいものだった。雪江が怖がることを期待しているようなそんな感じで。
しかし、雪江は既に知っていた。むしろ龍之介がそのことを知っていたことを喜んでいた。今まで夫婦の仲で秘密にしていたのだ。なんでも話していた雪江にとってそれはかなり負担だった。これで龍之介に内緒のことが一つ減ったと、心が軽くなった気がした。
それでつい、口走ってしまった。
「あ、なんだ。龍之介さん、知ってたの?」
ぎょっとしたのは龍之介だった。
利久たちが忍びの者だとわかれば、雪江が怖がってもう会わないと言ってくれると思っていたようだった。
「雪江、そなたはあの者が忍びだと知っていたのか。忍びだと知っていて今まで・・・・・・」
龍之介はその後の言葉を失った。小次郎もあっけにとられていた。
雪江は、それがそんなに重要な事だと思っていなかったから、そのリアクションに驚いていた。
言葉をうまく選ばなければならなかった。うっかりして核心に触れることを言ってはならなかった。
お光の十字架を見て、利久が突然天井から降ってきたなんて言ったら、龍之介はそのショックから口から泡を吹くだろう。
「あ、うん。お光さんが私を信用して教えてくれたの。あの二人、同じ忍びの里で育ったって」
その雪江の言葉に目を剥く龍之介。
「なにっ、やはり、あのお内儀も忍びの者っ」
「あ、やばっ」
先ほどはお光も怪しいと言っていただけだった。
「雪江っ、そなた、それを知っていてわしに隠しておったのだな」
割と淡々と言われた。ぎくりとする。
龍之介の顔が青ざめていた。すぐ近くにいる龍之介が、ずっと遠くにいるようなそんな他人のような距離ができていた。
今までどんな喧嘩をしても、こんな雰囲気になったことはなかったのに。
ぐっと腹のあたりが冷えるような感覚を覚えていた。
「よいな。わしが許すまでこの屋敷から外へ出ることはならぬ。そして次に利久が来たら」
龍之介は一度言葉を切って、小次郎を見る。
「小次郎、そちがずっと監視せよ」
龍之介は真顔でそう言って、もう話はお終いだというように立ち上がった。
「雪江っ、わしは今宵、忙しい故、こっちで夕餉を済ませる。そなたはわしの沙汰があるまで奥向きから出てはならない。よいな」
龍之介が座敷を出て行った。小次郎も戸惑った目で雪江を見たが、すぐに平伏して、そそくさと龍之介の後を追った。
龍之介は怒っていた。雪江が隠し事をしていたことを。
雪江は放心状態だった。最悪中のサイアクだった。
嫌われたかもしれない。龍之介は雪江にがっかりしただろう。信じていた妻に裏切られたような、そんな心中かもしれなかった。
今宵は雪江と一緒に夕飯を食べないと言った。それは雪江と顔を合わせて食べたくないということなのだろうか。顔も見たくないということ?
雪江はそのまま呆然と座り込んでいた。
お光は先を行く利久の後を小走りになって追う。普通の町人として目立たずに歩くように努めた。まだ人の通行があるうちに人ごみに紛れて長屋をでた。
夜中にひっそりと動くよりも、何気ない用事で外を歩くふりをした方が人の関心を受けないからだ。知った顔に出会ってもいつものように挨拶をして先を行く。
「お前様、今宵はどこへ?」
もう知った顔に会わないと思われる界隈に入った。
利久はにやりと笑った。
「どこか宿屋へ入ろう」
何か企んでいる様子だった。悪戯な氣がうかがえた。
「若い商家のお内儀とその店の番頭との秘めた逢引に見せかけようか」
お光は利久の言う事を反芻する。利久にしては珍しくおもしろい戯言を言う。思わず吹きだした。
それは面白いが、実際にそんなふうに見えるかどうかだ。
「無理でございましょう。それなりの恰好でないと・・・・・・」
「なあに、夫婦だと言って伏し目がちにしていれば、勝手に向こうが察してくれるさ」
利久は大きな宿屋へ入る。
利久の言う通り、満面の笑みを向ける女中の裏側には、このような夜に突然、入ってきた二人の間柄を目まぐるしく詮索しているのが伝わってきた。
本当の夫婦者が旅支度もしていないのに、こんな宿屋へ入ること自体が珍しい。荷物も持っていない。道中の埃にもまみれていない。
それに普通、町家の男女ならこんなに立派な宿屋へ入らない。多少金を持っていなければ泊まれないところだ。
「一番いい部屋、空いているかしら」
お光の言葉に女中は息を飲み、当主を呼んできた。極上の客なのだ。それなりの待遇をしなければならない。
「は、はい。当宿の自慢のお部屋、空いております。ただ今、用意をさせますので、こちらでお待ちくださいませ」
人の好さそうな当主の中年の男がペコペコと頭を下げる。小太りのお内儀までが出てきた。
奥まった座敷に通される。女中がお茶を持ってきた。
「今日はどちらからお越しになられましたか」
当主がにこにこして社交辞令で尋ねてくる。お光はそっと伏し目がちになり、ぼそっと答えた。
「ああ、ちょいと川向うの下ったところから。もう今宵は疲れてしまったのでここら辺で宿をとろうかと・・・・・・ねえ、お前様」
かなり無理な理由を言う。利久も突然、お前様と呼ばれて戸惑っているふりをした。
へい、と口ごもった返事をし、ばれないかとどこかオドオドとした番頭のように頭を下げた。
宿屋のお内儀の顔が、好奇心で輝きを増す。どう見ても不自然だ。こんなところの宿に泊まるのなら、無理してでも帰った方が安くつくはずだった。
利久が言われた通りの宿賃を前金でポンと払うと、当主夫婦は真ん丸の目をさらに大きく見開いた。
今まで利久たちは町人のふりをして、慎ましい生活をしていたが、突然のこういう出費はすべて令を下している藩から出るのだ。たまにはこういう贅沢もいい。
部屋の準備ができたと女中が告げた。
お光は、澄ました顔で利久の先を行く。通常、夫婦者だったら夫が先で、妻がその後を着いていく。二人の態度はどう見てもお光の方が態度がでかく、利久はその使用人でしか見えなかった。
通された部屋は二階の奥まった所にあり、着替えや化粧をする小部屋と立派な調度品、掛け軸の下げられている座敷、そしてその奥には既に二組の布団が敷かれている部屋もあった。
お光は、ぺこりとお辞儀をして出ていこうとしている女中に言った。
「あ、もうお茶は結構よ。今日は疲れたからお風呂に入って早く床につくから、そっとしておいてね」
「はい、かしこまりました」
女中は深々と頭を下げて出て行った。
女中の足音が完全に聞こえなくなるまで二人は澄ました顔で座っていた。やがて辺りがシンとするとお光が笑い、利久も顔を緩ませた。
「私達、完全に不義密通の関係に見られているようです」
「うん、今頃女中たちが噂をしているだろう。お光の演技もなかなかのものだ」
「お前様も本当に商家の番頭のようでしたよ」
お光は改めて座敷を眺めた。
「本当に立派な部屋、こんなところに泊まる人たちって一体、どんな人たちなんでしょう」
石和温泉の旅館へ行ったときのこと。着くとすぐに抹茶のサービスをしてくれました。普通は部屋へ案内されてから、部屋の中でお茶を飲むのに。もちろん、部屋にもお菓子とお茶はありました。
和洋折衷の朝食バイキングはすごかったです。