くノ一の手 R15
雪江が帰ってから、お光はずっと考えていた。
あの薬売りの女、かなりの手練れだと悟る。
幼い頃から、お光は氣に敏感だった。もちろん、今は利久の方が上だが、子供の頃はお光の方が長けていた。そのお光に悟られることなく、この家に入りこんできた。しかも、見事に田舎風の中年女に化けてだ。
もしもあの時、あの女が薩摩弁を発するのではなく、刃物で切りかかってきたとしたら・・・・・・。
今頃、お光はこうしてはいられなかっただろう。それだけの油断がお光にはあった。
あのくノ一は、それだけの技を持っていながら何もせず、出て行った。ただ、お光をからかいに来たとしか思えなかった。
わざと薩摩の言葉を使って、自分が忍びだということを教えているのだ。そして、訳ありの胸の痣。利久の名をだし、あれを見せるということは、利久がそれを知っているということ。
そしてあの時、雪江がいなかったら、どうなっていたのだろう。あの女は何をしたかったのだろうか。
もし、小次郎が氣を読まずに入ってこなかったら・・・・。
もしもづくめで恐ろしくなり、その先はもう考えられなかった。
その日の夕方、利久はいつもと同じ様子で、何食わぬ顔をしてひょっこり帰ってきた。
「ただ今、戻った」
お光は無事な利久の姿を見て、ほっとする。
「お帰りなさい。お疲れでしょう」
「すまぬ。夕べは戻れなかった」
平気そうに見えたが、寝ていないのがわかる。いつもの笑みに力がない。
お光はすぐに夕餉の支度をした。支度と言っても冷や飯に、残り物の野菜と卵を入れた雑炊だった。
疲れた体には、こうした暖かく、腹にやさしいものがいい。寝ずの任務だとしたら、きっと飲まず、食わずで詰めていたに違いなかった。
利久がアツアツの雑炊を口にする。ほっとした瞬間だったのだろう。肩の力が抜けたようだった。
「うん、うまい」
その一言で、お光もうれしくなった。
利久は、暖かい食べ物を口にして初めて、自分がかなり空腹だったと気づいたらしい。お光が二口、三口を食べるかどうかの時にはおかわりをして、二杯を平らげていた。
「やはり、お光の料理が一番うまい」
返事の代りに、お光は微笑んで利久にお茶を手渡した。
「お前様、今日は・・・・・・」
せっかく、ゆっくりと落ち着いた利久だが、これはすぐにでも聞いてもらわなければならない。今日、雪江が来たこと、そして薬売りの女の話をかいつまんで話した。
利久の茶を飲む手が止まった。どうやら、そのくノ一に心当たりがある様子だった。
「あの薬売りは、別に私に危害を加えるつもりはなかったようです。ただ・・・・・・」
「ただ?」
お光は利久を見つめる。
「昔、お前様にお世話になったと申しておりました。そして、見せてくれました。胸の赤い痣」
利久は空を見つめる。遠い記憶を呼び起こしているようだった。
「赤い痣と?」
「はい、梅の花に似たかわいらしい痣でございます。まるで紅梅のようでした。一度見たら忘れられないでしょうね。ちょうどここんとこに」
と意味ありげに言い、右胸のふくらみを帯びた微妙な場所を指さした。
たちまち利久の顔が能面のように無表情になる。
それが誰なのかやっと思い出したらしい。そういう表情をするということは、都合の悪いことなのだろう。
男が昔、世話になった女。それをお光に言えない事情があるということは、大体の見当がつく。
お光は苦笑する。利久は、お光に隠し事ができないのだ。
その様子から察すると、あの女は利久が若い頃、接触した忍びなのだろう。わざわざ女がそんな印象に残る痣を見せたのだ。それを語れば、利久が誰なのかわかるということなのだろう。そうでなければ、お光を訪ねてはこない。
昔、利久が関係した女ということだ。そしてそれに気づいたお光が悋気(ヤキモチ)諍いを起こし、二人が喧嘩でもしたら面白いということなのだろう。
別にお光はそんな昔のことをとやかく言うつもりはなかった。
忍びの身では、修行のために女を抱くことも必要なのだ。そういう状況に追い込まれて、女にのめりこんでしまうこともあるからだった。
あのくノ一は、たぶん利久の初めての女、利久を男にした相手なのかもしれない。
「お前様」
利久は後ろめたそうな表情をしている。
「私は別に何とも思っていませんよ。全て任務、或は修行だったのでしょう」
利久はうなづいた。
「忍びの任務なら、致し方ございません。私もその昔・・・・・」
お光がそう言うと利久が目を剥いた。
「なにっ、お光もっ」
利久が何を考えているかわかる。お光も、女を利用した修行をしたと思っている。
お光は首を振った。
「私は知識だけを母に教えてもらっただけ。忍びとしては、飴売りや飯炊き女しかやったことはございません」
利久が深い吐息と共に、肩の力を抜いた。安心したのだろう。
忍びはその時々で、姿、身分を変える。
特にくノ一はお屋敷に入り込んだり、長期になる場合はその周辺の家臣の妻になったりもする。
そうすると自然の流れで、好きでもない男に身を任せなければならないこともあった。ひどい時には、手籠めにされることさえある。抵抗すればできる技を持つくノ一も任務の時は、普通の女として振る舞い、されるがままになるしかなかった。
くノ一と言えども女の体を持つ身、任務上とはいえ、そんなことをしていれば望まぬ子を宿すことになる。それで、ちょっとした防止の技法を施すのだ。
硬い和紙を噛んで柔らかくし、膣の奥に詰め込んでおく。完全ではないが、少しは危険度が減る。
そして男がその気を放つ頃に、気づかれないよう外し、内腿を台用するのだ。
まだ、やっと遺体解剖が隠れて始められた時代だ。女性がどんなふうに、どんなサイクルで子供を宿すのか、知る由もなかった。
当時の遊女も詰め紙をしたと言われている。しかし、それは避妊のためではなく、月のもの(生理)の時に使われたということだ。
馴染の旦那が来た時、月のものであったら、高級遊女ならば、体調不良で断るが、それほど売れていない遊女は、断ることに勇気がいる。旦那が他へ行ってしまうことを恐れたため、詰め紙をして相手をしたという記述がある。
内腿を使うというのは、女性が脚を閉じ、その内腿を締めつけて膣の代用をするということ。まやかしの香を焚き、夢中にさせればその技は容易にできるらしい。
「忍びの里を出て武家に養子に入った。侍として時には忍びの修業も続けることになった」
利久が語ろうとしていた。突然、利久が忍びの里を出ていった時のことだ。今まで語ろうとしなかった。お光も聞こうとしなかったことだ。
「侍として振る舞うことに慣れた頃、我らはある屋敷に集められた。薩摩、大隅の忍びばかりだった」
薩摩と大隅の忍びは、時として一緒に行動することもあった。
「我らは皆十五、十六の男ばかり。そこへ少し年上のくノ一たちが来た。女を知るための修業だった。くノ一たちは既に女を使う修行を得ていて、我らを実践で使ってみるということだった。それで私と組んだのが、あの・・・・」
「あのくノ一、ということですね」
言いにくそうなので代弁した。
「そう、あの者の本当の名は知らぬ。その顔でさえ、本当の顔だったのかわからぬ。でも、あの胸の赤い痣、あれだけはよく覚えていた。月あかりでそれが見えたのだ。あのくノ一はそれが嫌だったようで、私がその痣をじっと見ていると吐き出すように、白粉で隠してくればよかった、とつぶやいた。忍びにとって特徴のある黒子や痣は、その素性がばれる要因になりかねないから」
それはお光もわかっている。
「私は、まるで梅の花のような形をしている、紅梅のようだと言った。思わず出た言葉だった。そのくノ一はその表現を気に入ってくれて、焼き消そうと思っていたが、やめたと笑っていた」
きっとそれで利久は気に入られたのだろう。
「それから何度かあのくノ一と接触した。任務が終わると最後にチラリとその痣を見せてくれて、ああ、あの女だったとわかった」
利久は急に顔を引き締める。
「あのくノ一は、たぶんお律という奥女中として屋敷に入り込んでいる。今は我らの敵だ」
「敵? なぜ敵が自分の素性をさらけ出してくるのですか」
敵ならば、ひっそりとおとなしくしているのが常だ。
「あのお律はかなり派手に振る舞っている。それで我々は確信している」
そう言われてお光にもわかった。
「おとりということ」
そうお光が言うと利久がうなづいた。その後、利休は口をつぐんだ。しゃべりすぎたと思ったのだろう。
みんなの注目を集める行動をする者はおとりで、自分に周囲の目を向けさせる。ということは少なくとももう一人、影に潜む者がいるということだ。
利久が急に立ち上がった。
「ここは危ない。他へ移ろう。よいな。ここにはいられない」
それはお光も思っていたことだ。あのくノ一は命まで取らないとしても、この場所を知っていた。急に気を変えて、邪魔者を消しに襲ってくるかもしれないのだ。
何も持たず、着の身着のままで出ることになった。
ただ一つだけ、雪江が描いてくれた絵を丸めて帯の中へ押し込んでいた。
利久は布団を敷いている。その中へ夏の着物を丸めて入れていた。まるで人が寝ているように見せかけるのだ。
「忍びがこんなものに惑わされるとは思っていないが、一応、わずかな時間稼ぎだ」
利久がぽつりと言う。
「後で、雪江様には我らがここにいないことを知らせよう。もし、知らずにここへきて雪江様にまで何かあったら・・・・・・」
「はい」
考えただけでも身の毛がよだつ。それだけはお光も避けたいことだ。
現に今日も危なかった瞬間があったから。
避妊のために詰め物をするというのは、あちこちの本に書かれています。
内腿を使う性技、これは私の考えで書きました。こういうことも可能なのではないかと思います。