利久の過去 R15
利久は、安倍信孝として薩摩藩嶋田家に仕えていた。
普段は他の侍と同じように城に詰め、榊からの指令で、特別任務として忍びも行っていた。
その頃の利久は、いつか榊の右腕として認められるような武士になりたいと思い、必死だった。その任務に全力を尽くすことがすべてだった。
お光が待つ家へ帰ることは稀で、ほとんどの時間を城で過ごしていた。利久が寝る間も惜しんで勤めることが、妻であるお光にも幸せに繋がると信じて疑わなかった時期だった。
家へ戻ってもわずかな仮眠をとり、またすぐに城へ帰る。
食事も目の前に出されるから、ただそれを義務的に胃袋に詰め込むだけで味わうこともなかった。お光のその日の一日の話なども聞いてはいなかった。
いつしかお光は笑わなくなっていた。
そのことも当時の利久は気づくことはなかった。利久が帰ると、恭しく頭を下げ、その着替えを手つだい、飯の支度をする。下女と何の変りもなかった。
そんな時、利久はお光の寝所を訪れた。一度は自分の寝床についたが、眠れずにいたのだ。もうずっと前から、利久が寝たい時に寝て、夜中でも起きて城へ詰めるから、お光はいつも台所近くの女中部屋のような小部屋に一人で寝ていた。
その日に榊から呼び出しがあり、江戸へ行ってもらいたいと次の任務を仰せつかった。
「妻女とは二、三年ほど別れることになるかもしれぬ」と言われ、お光の事を思いだした。
暗闇の中、利久はお光の部屋へ入っていった。
お光は、利久が来たことに気づいていた。
二人とも忍びの里での修行で、夜目が利いた。暗闇でもわずかな光だけでその表情が見えていた。
お光は、利久が布団に入ってきてもなんの反応もなく、ただ黙って目を閉じていた。まるで気が付いていないかのようにその表情を変えなかった。
構わず利久はその滑らかな肌に触れていた。久しぶりにくちびるを這わせ、痩せている体に似合わない豊満な胸に触れた時だった。
左の乳房だった。その手が止まった。
そこに何かがあったのだ。今まで触れなかったものが、石のような固い異物が、柔らかな乳房の中にあった。
利久がそれに気づいたからだろう。お光は途端に体を固くし、利久の手を外した。そして肌蹴られた夜着を直し、利久に背を向けた。
まるで私には全く興味のないことだと言わんばかりだった。
「お光」
我ながら動揺していた。絞り出すような声しか出なかった。
「・・・・はい・・・・」
「なんだ、それは」
詰問していた。利久は上体を起こす。
お光は答えない。背を向けたままでいた。
「それは何だと申しておるっ」
今度は怒鳴っていた。
お光は布団をかぶった。
「なんでもありません」
その布団の中のそっけない言い方に、利久はかっとした。
その布団をはがし、お光の顔を自分に向かせていた。そのお光の目は、なんの感情もない人形のようで天井を見つめていた。
「何でもないことがあるかっ。一体、これは・・・・・・」
その時、利久ははっとした。
女人の乳の中にあるしこりは、段々と大きくなっていく病と聞いたことがあった。
お光のものは、手で触れるとその存在がはっきりとわかるくらいの大きさだ。それから推測するとかなり以前からあるものだろう。
そして、利久は考えていた。
自分はそれに気づかないでいた。この前は一体いつ、お光を抱いただろうと。
ひと月前、いや、もう二月になるかもしれない。思い出せないほど久しくお光に触れていなかった。
「この病を・・・・・・知ったのはいつから・・・・・・」
「わかったのは、半年前でございます」
淡々と言った。それがまた、利久のカンに触った。
「お光、なぜ言わなかったっ」
激しくお光を責めていた。
こんなに大事なことを、夫である利久に一言も言わないでいたのだ。半年もたっていたというのに。
人形のような生気のなかったお光の目に、怒りが入った。
「お前様にとって私は、ただ家にいる下女と同じでございましょう。その下女が何らかの病にかかったとしても何の係わりもないことでございます。私がいなくなったら、別の女を雇えばよいのです」
「なっ・・・・・・」
利久は、そのお光の言い方に猛烈な怒りを感じていた。しかし、拳を握りしめ、堪えた。言葉が続かなかった。
お光もようやく体を起こした。二人は布団の上に向かい合って座っていた。
いつ顔を見合わせてご飯を食べただろうか。今日も利久は一人で、黙々と箸を動かしていた。何を食べたのかも覚えていない。
常に頭の中は、城でのことを考えていた。榊の指示に従い、自分がどう動くかを考えていた。利久自身が、あの城を守るのだと自負していた。
二人は、ここで幸せになるために頑張ってきたことを思い出した。振り返って見ると利久は自分の役目が認められ、上へ行けば行くほどお光から離れていたことに気づいた。
お光との生活のために、お光の笑顔を見るために頑張ってきたことが、お光の笑みを曇らせていたことに気づいた。
「早速医者に」
「もう、数人に診ていただいております。皆、同じ診断で、石のように固いしこりは、段々大きくなっていくとのことです」
お光は他人のことを話すように淡々と語った。
「直せないのか」
お光は首を振った。
「このまま放置するしか術がないと言われました」
「なぜ、そのことをすぐに私に言わなかったのだっ」
利久はまだ、お光を責めていた。お光を責めながら、自分自身をも責めていたのだ。なぜ気づいてやれなかったのだろう。いつもお光を見ていれば、その表情でなにかが起ったことがわかったはずだった。
お光の命の火が消えると予言されていた。
「お前様は、ここのところずっと私の事など見てはいなかった。目では見ていても通り過ぎていた。まるで路傍の石のように」
痛いところをつかれていた。本当にその通りだったから。
「お役目が大変そうなので、何も言いませんでした。でも今のように私に怒りをぶつけるのはお門違いかと存じます」
お光が怒っていた。凄味のあるその目は、利久がずっと憧れていたお光の父親、忍びの長の目だった。
きりっとした切れ長の、遠くを見据え、人の心の中まで見えるかのようなその澄んだ目。すくみ上りそうな迫力のある目だった。
お光を大事にすると誓ったのに、と思う。
一人、この病を抱えて、さぞかし不安だっただろう。誰にも打ち明けられず、随分苦しい思いをしたことだろう。
生涯を共に歩いていこうと決めたのに、利久はいつの間にか先を歩き、お光を振り返ることもしないでいた。
初めのうちはお光も一生懸命に着いて来ようとしていただろう。しかし、段々と疲れて行き、諦めてしまったのだ。
「すまない・・・・・・」
ぽつりと言った。そんなお光のことを考えて出た言葉だった。許してもらえないかもしれない、でも今、利久が言えることはその言葉しかなかった。
「そんな辛い思いをさせていた、一人で苦しかったであろう」
お光の目から、怒りが消えていた。
利久はお光を抱きしめた。お光はそのまま利久の胸の中にいた。やがてその細い腕を利久の背中に回していた。
「すまない」
忘れていた温もりだった。
「お前様、わかってくれたらそれでいいのです」
優しい、いつものお光の声だった。
「お光・・・・・・本当にすまない」
その翌日から、利久は朝、お光の作った朝餉を食し、弁当も持っていった。そして、夕餉には家へ戻っていた。
お光と向き合って食べ、城での他愛のない話をし、お光の一日のことを聞いていた。
最初はお光も、一日や二日のことだろうと思っていたらしいが、連日で続くと、嬉しいよりも今度は不安にかられた様子だった。
「こんなに毎日早く帰ってきて、それでよろしいのですか」
利久が無理していると思ったらしい。
「よい。心配するな。明日、榊様より直々にご返事をいただくことになっているが・・・・・・」
「はあ、何のご返事でしょうか」
不安そうだ。利久が何かを決意していることを感じ取っていた。
「この沙汰があればすぐにでもここを立ち、江戸へ行く。今度は長くかかる」
お光がはっとして顔を見た。
江戸入りとは、お光の一人ぼっちの生活を意味していたから。お光は顔を曇らせてはいけないと必死で堪えているのが分かった。そんないじらしいお光を抱き寄せる。
「お光も一緒に連れて行きたいと頼んでいる。今回は江戸屋敷ではなく、町人として長屋に暮らすことになるから、妻も連れて行った方が自然だと申し出たのだ」
それはほぼ確実に決まっていた。
「ああ・・・・・・」
お光が利久の胸にしがみついてきた。嬉しかったらしい。その細い肩をしっかりと抱いた。
「江戸へ行けば腕のいい医者もいるだろう。皆、長崎にて蘭方医学を学び、江戸へ帰っていくのだ。その経験を応用してのすぐれた医者がいるかもしれぬ」
「はい」
榊が承諾してくれた。正式に決まった。
すぐに江戸へ旅立つ準備をしていた。
そしてお光には言っていなかったが、この役目が終わったらしばらくの暇をもらうことになっていた。
ただ何もせず、お光のそばにいてやりたかった。その命が尽きるまで最期の日までついていてやりたかった。