利久のある昼下がり
つなぎの話にて、短いです。
いつものように化粧品や小物、反物、草履などを縁側に広げている。
雪江のいる桐野の中屋敷を訪れていた。
もう馴染みになった奥女中たちと、他愛のない世間話に調子を合わせるが、利久の意識は雪江が現れるのを待っていた。特に今日は来るという勘も働いていた。
利久は雪江に会うことを心待ちにしている自分に気づいた。まだそんな人らしい心があったのかと自分を嘲笑いたくなる。
つい最近まで、その存在すら知らない娘だった。それが突然、利久とお光の生活に入ってきていた。
利久が仏心を出して咄嗟に助けた娘。その雪江が今、お光の残りわずかな日々を明るくさせてくれていた。
雪江は、利久たちがが忍びの者だとわかっても、その態度を変えなかった。常人ならば恐ろしがって、もう二度と近づきはしないだろう。
キリシタンだということも知っていた。そんな世間様に顔向けできない事ばかりの利久たちなのに、全く態度を変えることなく笑顔を向けてくる。
雪江は未来で育ち、この江戸へきたという。いくら武家の娘らしくないと言っても、風変わりな人は大勢いる。途方もない話だった。
だが、利久にはそれが本当のことだとわかった。いつも一緒についてくる徳田も、先日会った裕子もどこか違う氣を持っていた。
奥女中たちが、それぞれ自分の好みの物を買い、そそくさと自分の仕事に戻っていた。もう誰もいなくなる。
利久はあきらめて、荷物をまとめて帰る準備をしていた。
自分の勘も大したことはないと思い始めていた。
今日は雪江は来ないのだろう。疲れているのか、こんなことで勘を鈍らせていたら、いつか自分の身も危なくなるかもしれない。
もう少し気を引き締める必要があると感じていた。
あまりにも人の多い江戸で町人として暮らしていると、自分が本当に堺と江戸を行き来して商売をしている行商人だと錯覚することがある。
毎日が単調で、それも楽しいからだ。病身の妻をいたわり、地道に暮らしていく利久という男が本当の自分なのだと。そんな人生もあるのだなとつくづく感じていた。
そこまで考えて苦笑する。本当に自分はどうしてしまったのか。
ぬるま湯につかりすぎて、それが当たり前になってしまったような。これではいざという時に動けなくなりそうだった。
少し山へこもる必要があるかと考えた時、雪江が現れた。その手には、紫色の布に覆われた何かを持っていた。
「よかった、間に合った。利久さん、ちょっと待って」
「はい」
利久は、ほっとした自分の心をあからさまに出さないように落ち着ける。そして、一度片づけた荷をまた、広げようとした。
しかし、雪江は慌てて言った。
「あ、ごめんなさい。そうじゃないの。これを見せたくて・・・・」
雪江は手に持っていた物をそこへ広げた。
一枚の絵だった。
以前、雪江が見せてくれた、母と子の生き写しのようなあの絵を大きく書き写したものだった。
「これをお光さんにって思って、描いてみました」
と言う。
それは、少し顔がぼかしてあった。わざとそうしてあるとわかった。それを見るものが自分の胸の内にある顔をそこに思い浮かべられるように。
「雪江様がこれを?」
絵の才がなくては、ここまでなかなか描けない。
雪江は恥ずかしそうに言う。
「意外だと思うでしょ。父が上手なんです。私も絵を描くことが好きで、あ、でもこんな感じの絵は初めてだったから、父上に教えてもらったりして、ちょっと時間がかかっちゃった。お光さん、気に入ってくれるかな」
もちろん、お光は気に入るだろう。気に入るどころか、毎日合掌してあがめるかもしれない。
心を許している妹のような存在の雪江が、お光のために描いたものなのだ。心打たれて涙するかもしれなかった。
キリシタンの集会に行くことができなくなってから、お光はいつもどこか寂しそうだった。心の拠り所を失ったかのような、心に隙間風が入り込むかのように張りのないぼうっとした感じでいるときがある。
だから、利久には欠かさず参加しろとうるさい。そして、その場の様子や教えを聞きたがった。
利久としては、お光が行くから一緒に行っていただけで、自分自身は別に行きたくないのだが。
「お光は大変喜ぶと思います」
というと、雪江は幼い少女のようなあどけない笑顔を向けた。
「本当は少し不安だったんです。自分の描いた絵を送るなんて、図々しいって言うか、恐れ多い事かなって思って」
「いえ、雪江様のお心が伝わってきます。それによく描けています」
雪江はその絵をまた布に包み直していた。
「もし邪魔にならなかったら、これ、お光さんに持って行ってください」
利久は差し出された包みに一度、手をかけるが、それを押し戻していた。
「いえ、雪江様が直接、お光にお渡しください。その方がお光も嬉しいかと存じます」
雪江がまた受け取る。利久を見る。
「あ、わかりました。じゃ早速、明日にでもお伺いしますとお伝えください」
雪江はその絵を抱えて、そう言った。
「はい、そう伝えます」
温かい気持ちで桐野家を出た。
お光の喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。
桐野の中屋敷から出て、路地を曲がる。
利久は顔を引き締めた。ここからが本当の仕事だった。
気を充分に張り巡らせ、そしてその気配を消す。行商人としての朗らかな表情、そしてその奥に潜む計算づくのしたたかさを現わす。少し猫背で、うつむき加減の冴えない男。それが行商人の利久だった。
利久は、その屋敷の裏門へ回った。そこの門番にぺこりとお辞儀をし、愛想笑いを向けた。
それが同じこの小路にある薩摩の支藩、大隅藩嶋田家の中屋敷だった。
すでにお分かりかと思いますが、大隅藩という藩は存在しません。
鹿児島市に城があるから、薩摩藩と言うこと。城がどこにあるかで藩の名前が決められたそうです。
本当の薩摩の支藩は、佐土原藩です。