役者はそろった その1
安永九年八月十五日 (1780年9月13日)
中秋の名月、雪江が江戸時代にタイムスリップした次の日だった。
行燈よりも明るい見事な満月が、だいぶ高く昇っていた。隅田川にも月見をする屋形舟が、幾艘も出ている。
「すみません。私です。自身番に投げ文をしたのは私なんです。堪忍してください」
お信乃がその場に平伏して泣き崩れた。
まさか、皆の前で同心までが出向いてくるとは思っていなかったのだろう。罪の意識が自分では抑えきれなくなったようだ。
龍之介も、この長屋の誰かが自身番に告げ口をしたと思っていた。しかし、それには十手持ちが来るのが早すぎた。
お絹もその両親も絶句していたが、我に返るとお信乃の横にならって平伏した。
「堪忍、雪江。姉さんがこんなことをするなんて。どうか堪忍してください」
雪江はキョトンとしていたが、お絹たちが自分に対して土下座をしているんだとやっとわかり、あわてている。
「やだ、そんな。やめてくださいよ」
雪江は体を震わせて泣いているお信乃の前に座り、背中をそっと抱きかかえた。
「私、こんな髪だし、口のききかたも変だろうから、そう思われても仕方ありませんよ。頭を上げてください。お絹もお父さんもお母さんも、ねっ、お願いだから」
そう言う雪江を見ていた。結構、雪江は寛大な心を持っていると思った。普通なら、自分を告発した人を責めてしまうだろう。
お絹は顔を上げた。その目には涙がいっぱいたまっている。
しかし、お信乃はますます激しく泣き伏していた。雪江がその背中をなでる。
そこへ、裕子が薄茶色の液体が入ったお茶のようなものを持ってきた。
「お信乃さん、これ、飲んでみてください。落ち着くと思いますよ」
まだしゃくりあげているお信乃を、雪江とお絹が起こして座らせる。裕子がなんとかその手に持たせると、一口飲んだ。よほど口当たりがよかったのだろう、二口、三口と飲んでいく。
龍之介には、初めての香りだった。香のような匂いがしていた。
「あれって、ミルクティ?」
雪江が裕子に聞いている。
裕子は器用に片目をつむってみせて、にっこり笑う。
「ロイヤル・ミルクティよ」
「先輩、私も飲みたい」
「雪江ちゃんは後でね」
子供を諭すように言う。
ひと心地ついたお信乃は、まだうなだれているが、ぽつぽつと語りだした。
「私、雪江さんがうらやましかったんです。どうみても、別の住むところから迷いこんできた人なのに、嘆きもしないで、お武家さまとうちのお絹と笑い合ってて・・・それが段々妬ましくなってきて・・・・。なにをやってもうまくいかない私と同じくらい不幸のどん底に突き落としてやるって・・・・。そんな恐ろしいことを考えました。投げ文をしたら、すぐに御用聞きの吉次郎さんに捕まってしまって。今度は自分のしたことが怖くなって、取り消すって言ったんです。でも取り合ってくれなくて」
お信乃は続ける。
「私、離縁されました。お姑さんに子供を取られ、亭主もなにも言ってくれなくて、もうこれから何をやって生きていけばいいのか・・・・・。だから許してくれっていうんじゃないんですよ。どうしたら雪江さんのように笑っていられるのか・・・・うらやましいんです」
普通は皆、そうやって嘆き、笑っている者をねたむのだろう。雪江が今、笑っていられるのは、小次郎の言葉とある種の「ご苦労なし」とも言える。つまり、楽観的ということ。
「いえ、実は私も内心では、自分がこの世で一番不幸だと思っていました。帰るところもない、自分がどこにいるのかもわからない。家族も友人もいない。でも、小次郎さんが、皆それぞれ困難を抱えているんだよって言ってくれて、気がらくになったの」
皆が小次郎を見る。照れくさいのか、明後日の方向を向いている。
雪江は続けた。
「そういえば、子供のころも、祖父母を困らせたことがありました。私、両親がいません。友達にはお父さん、お母さんがいるのになんで私にはいないのか、理解できませんでした。それで大泣きして困らせたことがありました。その時、祖父は、考えても答えの出ないことは考えるなって、そんなことを子供に言うんですよ。両親がいない、昨日のテストが悪かった。友達と喧嘩した。過去のことは変えられない。それをいつまでも考えていても、過去に戻ってやり直すことはできない。それなら前を向いて、今からできることをちゃんとやっていこうって。それで私は、祖父母を両親と考えることにしました。テストはもっと勉強すればいいし、友達との喧嘩は仲直りすればいい。だから、胃の縮む思いをしても、あまり考えすぎない癖がついていたんでしょう」
雪江は、聞きなれない言葉を連発していたが、まあ言いたいことはわかった。
「そう・・・・だったんですか。私もそう考えられれば、今の状況が変わるかもしれませんね」
「そうです。これは訓練みたいなものですから。少しづつ練習していけばいいんです」
雪江がお信乃ににっこりと笑いかけると、やっとお信乃の顔もほころんだ。
「まあ、私の場合、知らないところに迷い込んでしまったばかりじゃなかったんですけど。いろいろあって、一度に全部悩むことができなかったってこともあります。私、ここへ迷い込む前に大失恋したばかりだったんだから」
徳田と裕子が顔を見合わせる。
「じゃあ、あの時、豊和となんかあったんだ」
徳田が言う。
雪江はうなづいて、そうっという。
「そう、豊和と沙希が・・・・部室でキスしてた」
「ひゃ~、あいつ」
時々、意味不明な会話なため、裕子がひそひそと説明してくれた。
豊和というのは、雪江の以前のいい人で、その人が密かに逢引をしていたらしい。しかもその相手のおなごは、雪江の友人だったとのこと。まあ、それは気に病むことであろう。
豊和という男は、あの光を放つ道具の中にあった大写しのあやつであろうと見当がついた。なんと罪作りな男だ。おなごの両者を手玉に取るとは。
雪江は話しているうちに、また怒りがこみ上げてきたのだろう。ギュッと拳を握り、満月に叫んだ。
「豊和のバカヤロ―」
もっとも美しいと言われる満月に向かって暴言を吐くとは、失礼ではないかと思う。要するに雪江というおなごは、もともと単純にできているということだ。本人は真剣に悩んでいるつもりでも、他人よりは全然真剣に考えてはいない。