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龍之介、雪江に振り回される

 雪江が急に上屋敷の兄のところへ通うようになっていた。兄が屋敷でくつろいでいるのは夕餉の後だから、雪江もこちらで夕餉を済ませてから出向く。そうすると、その夜は上屋敷へ泊ってきた。


「絵を習いたいと思って」

と言った。

 兄は本物そっくりの風景画から、何やらぼかした油絵まで描く。

 雪江もその血を受け継いでいるのだろう。時々すごく単純な線で、人の物語や風景を描いていた。それは雪江がいたその世の様子で、学校という学習所や茶を飲むところ(喫茶店)、食事をするところ(レストラン)もあり、正月も開いているというコンビニも描かれていた。


 忘れたくないのだそうだ。それはそれなりに楽しかった思い出、人の記憶は月日と共に薄れていくから、何かに描きとめておきたいのだろう。

 その雪江の絵のおかげで、龍之介は雪江のいた世界の一部が見られるわけなのだが。


 今宵は龍之介も一緒に来てきた。毎晩のように上屋敷に泊まりこむ雪江に放ったらかしにされている気分だからだ。

 そんな龍之介の心も知らずに、雪江は到着した途端、さっさと兄のいる絵を描く床張りの部屋アトリエに入っていった。


 また放ったらかしにされた。ため息がでる。

 実に面白くない。

 それでもしかたがないので、雪江が出てくるまで久しぶりに上屋敷の道場で、小次郎と剣の稽古をしていた。


 龍之介が稽古後、湯あみを終えて昔の自分の部屋だった座敷に戻ってきた。

「正和、探したぞ」

と、いきなり正重が顔を出した。

「はっ、湯から上がったところでございます」

 兄はいつもより上機嫌だった。

「大体の手ほどきは終わった。もう後は雪江一人で仕上げられるであろう」

「はっ、さようにございますか」


 ほっとした。いつまで雪江はこんな生活を続けるのだろうと思っていたから。

「して、その絵とは?」

「なんだ、聞いておらぬのか」

「はあ」


 正重はどこか遠くを見る。

「綾が雪江を抱いている、あの絵だ。あれを水彩で描いている」

 龍之介も見せてもらった、あの精巧な生き写しのような絵。たしか同じものを正重も描いていたはず。


「なぜ、あれを?」

「さあ、わしにもその理由を言わぬ」

「兄上にも・・・・ですか」

 そこのところが少し引っかかった。あの雪江が、正重にも内緒にしていることに。

「まあ、わしは雪江が同じ絵を描くことに満足している。あれはもう少し書き込めば、いい絵が描けるであろう」




 雪江が、球をぶつけ合う遊びの試合をすることになっていた。本人たちはそれがどのくらいの影響を及ぼしているか知らないだろう。

 子供たちは所構わず、そのことを口にしていた。

 家ではもちろん、学習所でも夢中になって話している。しかもそれが、侍対台所役という身分違いの戦いとなる。周りも何も口にはしないが、複雑な気持ちでいる事だろう。


 龍之介は、徳田と裕子には侍の家臣と同様の立場として家禄を与えていた。侍と同じ身分なのだ。だから台所役人という役名がついていた。

 このことをきちんと今回の試合の時に、皆に知らせておくつもりでいた。そうすれば今回のようないじめも起らなかったかもしれない。


 龍之介の周りの家臣たちも、その試合のことを噂するようになっていた。皆、台所役のうちの一人が雪江だということは知らないようだ。それはそれでいいのだが、中には雪江の顔を知っている者もいる。それが発覚しないように事前に一言言っておく必要があった。 


 先日、小次郎を偵察に送り込んだ。本当は龍之介が直接、見に行きたかったが、雪江に拒否されるだろう。

 小次郎がそのことを報告する前に一度深呼吸をして、心を整えることを必要としていた。


「若、心を落ち着けてよく聞いて下され」

 そう真顔で言われる。そういう前置きをされる方が動揺するであろう。

 雪江は一体どんなことをしているのか。大体のことは聞いていた。ただ単純に球を投げて、当たったらどうのという遊びだと思っていたのだ。違うのか。思わずぐっと拳に力が入った。


 小次郎は、まるで極秘の情報を教えるかのように、声をひそめて言った。

「まず、丸い柵の中に閉じ込められた鶏をご想像ください」

「に、鶏と申したか?」


「はい、飛べないあの鶏でございます。その柵が二分されていて、それぞれ鶏、つまり子供たちが入っております。その外には、鶏を捕まえようとする料理人がいる、そんな様子」


「鳥を捕まえる料理人・・・・・・」

 多少、大げさだと思ったが、なるほど想像がしやすい。

「あの、大きな徳田殿はまさしくその柵の外にいる料理人でございました」

 そこで言葉を切る小次郎。

「うむ」

 ごくりと唾を飲み込んだ。


「はじめは侍たちの方が球を手にして、台所の方へ投げました。皆、それを簡単にかわしておりました。その投げる球は威力もなく、和やかな雰囲気でした。皆、楽しんでいました。しかし、一たび、その球を徳田殿が手にするとその場は一変しました」

「ん」


「あの上背からたたきつけるようにして投げられる球は、目にも止まらぬ速さで飛ぶのでございます。ビュウという音と共に・・・・」


「ちと待て。確か徳田殿は、人数の関係で入っておるが、利き腕ではない左で投げると聞いていたが」

「はい、さようにございます。それでもあの者の投げる球の勢いはすごかったのでございます。そしてあろうことか、その球をあの雪江様がお受けになられました」

「な、なんと」


「ものすごいあの球を何食わぬ顔で受け、呆気にとられている侍の子たちの方へ投げつけたのでございます」

「ん、不意を突いたわけだな」

「はい。わあ~、キャアの大騒ぎになりまして、侍の子が当てられておりました。逃げきれぬ素早さでございました」


 何となく想像がつく。

「それからでございます。徳田殿と雪江様が球を手にすると、侍の子たちが恐怖におののき、ギャーと叫んで逃げ回るのでございます」

 その恐怖もわからなくもないが、侍の子が感情をむき出しにして叫んではまずいであろう。


「誠にあの様子は、今宵のメシにされる鳥たちに見えました。あの球に当たったら、柵から引きづり出され、羽をむしられて・・・・・・」

 小次郎も悪趣味な想像をしていた。


「雪江は、我が奥方と知れてはおらぬであろうな」

 最も気になるところだった。

「よくお顔を知っているものが見れば・・・・わかるかと存じますが、髪をまるで少年のように結わえておいででした。あれでは一、二度雪江様を見ただけのものではわからないかと」

「うむ、わかった。しかし、誰が見に来るのかわからぬ。一応、家老たちには一言申し付けておけ」

「はっ、かしこまりました」


「もしかすると、兄上が来るかもしれぬのだ」

 とたんに小次郎が、最も悲劇的なことを聞いたと言わんばかりの悲痛な表情になる。


「ま、まさか。そのようなことが・・・・・・」

 おろおろし始めた。

「どこから洩れたのかは知らぬが、兄上にはすべて筒抜けじゃ。雪江が絡んでいることもご存じであった」


「あの雪江様のお姿を・・・・・・殿にお見せするのでございますか」

 小次郎は放心状態のようになっていた。

 その様子に、龍之介も怖じ気づく。

「う、うむ。やはり、まずいか」


 龍之介がそう問うと即座に小次郎がうなづいてしまい、その無礼のほどに気づき、ひれ伏していた。

「なんというご無礼を、お許しください」


「よい、今更なんじゃ。それよりも兄上に何というかだ。先日も雪江は奥方らしくしているかと尋ねられ、即答することができなかった」

「ごもっとも」

と、小次郎がつい言ってしまい、その失礼のほどに再びひれ伏す。


 龍之介はため息をつく。

「よい。そちにはなんと言われようと腹も立たぬ。気にしておらぬ」

「恐れ入ります」

 小次郎が深々と頭を下げた。正直すぎる小次郎。

「よいか、雪江には兄上が来ることは伏せておくぞ。あれのことだ、兄上が来ると知ったら、内緒で別の日に試合をするかもしれぬ」

「はあ」

 たかが子供の遊びなのに、いろいろな人を巻き込むことになっていた。



 夕餉の時、雪江にその様子を聞いてみると、涼しい顔でうまくいっていると言っていた。


「侍の子供たちの親が、ぜひ見たいと言うので中奥でやるようにな」

 中奥には、剣の試合を皆に披露する場所があった。

 雪江がたちまち顔をしかめた。


「え~、あそこってさ、玉砂利だよね。逃げるとき足を取られちゃわないかな」

「よいではないか。両者共、同じ条件であろう。どちらかが得をするわけではない」

「まあ、そうだけど」

 そこで雪江は言葉を切って、はっと龍之介を見る。

 何かに気づいた様子だった。

「まさか」


 ギクリとする。兄上がお忍びで来ることが知れたのか。


「龍之介さんも来るの? まさかよね」

 龍之介も閉め出されるのかとがっかりしたが、正重のことではないと知って少し安心する。

「まあ、わしは・・・・そうだな。気がむいたら見に行こうかと思うが」

 あまり関心のないように言っておく。雪江はその言葉に安心している様子だった。龍之介なら来ても来なくても別に構わないというあしらいである。


「でもさ、安寿姫が見たいって言うの。時々袴姿のまま、お座敷に遊びに行ってるから、何をしているのかって聞かれて、つい、試合のこと、言っちゃった」


 雪江のことだ。どうせ、袴姿の方が楽だからと、朝からその格好でいたのだろうと思った。

「そいで安寿姫が来るって言えば、明知様もくるよね。どうしよう」


 この中屋敷に仕えている家臣たちは、龍之介が加藤家からの養子で、明知とは兄弟にあたるということを知っていた。双子とは言わず、よく似た兄弟あにおとうとということにしていた。


「では、御簾みす(すだれ)をかかげて、外からは誰が座っているかわからなくしてしまおうか」

 我ながらいい案だった。


「みす?」

「そう、寝所にかかげてあるであろう」

 そういうと、雪江の目玉がクルリと回る。思い出しているのだ。


「あ、ああ、あれね。それ、いいかも。それなら明知様も温かくしてゆったりと見ていられる」

「そうするか」

「うん」


 単純な雪江は、もうそのことは話がついたとばかりにうきうきしていた。

 それならこっちにも都合がよかった。御簾とは我ながら冴えている。その奥に兄の正重が座っていたとしても、気づかれないかもしれない。

 龍之介は、気がかりの荷が下りたとばかりに安堵していた。

小次郎が龍之介に、気を落ち着けて聞いてくださいという前置き。そう言われた方は本当に不安になるんです。

昨年、奥歯を抜くときに、歯医者が私に言いました。

「今から抜くけど、もし歯が途中で折れたり、割れたとしてもパニックにならないでね」と。

それまで恐怖もなにもなかった私。そんなことが起る可能性があるのかとものすごく不安になりました。


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