ドッジボールの練習
翌日、さっそく雪江は道場へ行った。多田と侍の子供たちに、ドッジボールを教え、試合ができるようにするためだった。
場内では、多田が一人で素振りをしていた。子供たちはまだ、来ていない様子。空を切る鋭い音が鳴り響く。いつもよりずっとシリアスな表情は、かなり男らしくみえた。しかし、その多田もすぐに雪江を認めると、その表情をくずし、人のいいおじさんになった。
「雪江様」
「あ、え~と、一応何をするか決まりました。それをお知らせしようと思って」
多田の表情が引き締まる。雪江が今から言うことがそれにふさわしいかどうか、それも判断しなければならないのだから。
「一応、正和様の了解は得ています。今からそのやり方を説明しますね」
雪江は説明しやすいように、大きな紙にドッジボールの図を描いてきていた。未知のものを教えるのだ。よく噛み砕いて説明する必要がある。
球はボール、コート、パスなどのカタカナ用語をそのまま用いることにした。つい、口走った時に通じなくなるから。未知のものは、最初からその用語を教えた方が、そのまま覚えてくれる。そういうものだ。
さらりと説明したが、多田は理解不能だという顔をした。実際にやってみないとわからないだろう。
「どうですか?」
と聞くと、
「あ、はあ。まあ」
と煮え切らない返事が返ってきた。
そこへ、がやがやと子供たちが入ってきた。例の侍の子供たちだった。
多田と雪江が、紙を床に広げて座っているのを見て、足を止め、仰天していた。自分たちに暴言を吐いた女と自分たちの師匠がこんなところで何を話しているのかという単純な子供たちの考えがみてとれた。
多田が慌てていた。彼は正直で真っ直ぐな人だから、どう雪江のことを説明したらいいか、すぐに考えつかなかったようだ。
「ああ、もう稽古か。早いな」
「はっ」
少年たちはそう返事をしたが、それぞれ顔を見合わせて困惑している様子だった。
雪江がすっくと立って、子供たちを見た。雪江は台所の下働きの女中として、演じるつもりだ。
少年たちの顔が険しくなった。なにかまた言われると思ったのだろう。
「昨日は大変失礼いたしました。わたくしもいろいろと言いすぎましたことをお詫び申し上げます」
言葉では謝る雪江だが、自分が間違ったことを言ったつもりはないので、別に許してもらえなくてもいいと思っていた。だから、その言葉は淡々としていて、頭を下げたが、それはかなりそっけなかった。
もし、龍之介がこの場にいたら、きっとその心が見破られて皮肉の二つも言われているところだ。
「そこで、このままですと桐野家にお仕えするこのお屋敷内で、いがみ合うことになるかもしれません。些細なことがいずれは大きな問題になる前に、同じお屋敷に仕える身として、我が台所の方とお侍さまたちの方とで交流するため、親善試合をしたいと思います」
と、かなりつっけんどんな言い方をした。
侍の子供たちは、引いていた。言葉が出ないほどに驚いていた。
身分の下の者たちと交流を深めるということが信じられず、雪江のあまりにもそっけない、女らしくない言い方に呆れていた。
当時の武家の婦女子は、七歳から男女別にして遊ぶことも席も同じにせず、衣装も同じところへ置かずとされていた。
前にも武家の男女のことを述べたが、嫁は夫ばかりでなく、姑、そしてその息子につくす。家庭的であり、さらに神経を鍛え、感情を表に現さずにいることを求められた。いざという時には、薙刀を操り、自分を守るほどの勇敢さもあれと言われた。そして、音曲、歌舞、読み書きもそつなくこなしていたという。
武道、華道、茶道、などの道はすべてその姿勢と精神も同時に養っていたと思われる。
多田が一歩前に踏み出た。少年たちはやっと我に返り、竹刀を床に置き、皆、慌てて道場内に正座した。
「そう、これは正和様も御承知のことだ。子供たちがそれでお互いの交流を深めてくれるのならと」
また、生意気な少年が口をきく。
「親善のための試合とは、我らとあの台所の者たちと何をしようというのですか」
その発言にあおられて、他の少年たちも口々に言った。
「剣の試合か」
「あ奴らは、剣など持ったこともないであろう」
「我らが、そんな身分の違う者たちと戯れることが許されるのか」
「あ、いや。剣の試合ではない。それはあちらに不利じゃ。こちらでは連日稽古をしている身、不公平であろう。それで両者とも全く新しいことを、同じ立場でやろうというのだ。それで雪江殿が、そのやり方を教えにきてくれた。そちたちの指南役だ」
再び、皆が雪江を注目した。
「親善試合を前提にするのは遊びのような球技で、ドッジボールと言います。そのままの言葉で覚えてください」
さらに説明を加えようとしていた雪江の言葉を遮った者がいた。あの一番生意気な少年だった。
「遊びのような球技を身分の違う者たちと一緒にやれと申されるのでございますか」
また、この少年だ。最年長でリーダー格。
その言葉に他の少年たちが
「そうだ」
「下々の者たちと戯れるなど許されない」
「身分が違う」
と口々に言っていた。
雪江は、すでにそう言われる場面を想像していたから、腹もたてなかった。むしろ、大人ならそれらの言葉をすべての見込み、顔には出さないだろうが、少年たちはつい、その正直な心をつぶやいている。
これが正直でわかりやすくて面白かった。ただ、一度始まると、それらのつぶやきがなかなかおさまらないことが難点だ。
「静粛にっ」
多田の声は、厳しい声だった。少年たちのひそひそ話がその一言で止まり、姿勢を正した。
さすが、師匠だった。一言で子供たちがシャキッとする。
多田は子供たちを見る。
「何度も申しておるように、桐野の殿は武士であるからとか、家臣であるから、町人であるからと、人を区別することを嫌っておる。町人でも正しい事を言えば、それに耳を傾け、聞き入れる姿勢が大切だ。それを認められるような器量を持てと仰せられている」
少年たちが叱られているかのようにシュンとし、神妙な面持ちで聞いていた。
いいぞっ。多田さん、もっと言えと雪江は心の中で応援をしていた。
「わかるか。武士も人だからだ。もちろん町人も人。その人が、他の人々の先に立つにはそれなりの手本となる行いをして見せなければならない。そのため我らは剣の腕を磨き、知識も得て頑張っている。のう、そうであろう」
多田が間をおいて、一人一人の顔を見た。
少年たち、それぞれに、この言葉が響いているのがわかった。
本当に多田は子供の指導が上手だ。一方的に諭すだけではなく、一人一人の目を見ることで、その言葉が自分に言われていることを認識させていた。褒めることも惜しまずにするのだろう。信頼されている人だと思った。
「我らの生活もその町人や下働きの者たちがいてくれるから、成り立っているのだ。屋敷を立てる大工、今、着ている布を織る機織りの者、この竹刀もそうだが、武士の命、刀でさえ、その職人、彼らの町人と呼ばれている者たちが作る」
その言葉で、子供たちはそれぞれの着物や、竹刀、建物を見回していた。
「台所で働く者は、正和様や奥方様の口に入るものを真剣に吟味して作っている。人は食べ物からその健やかな体が作られ、その味を楽しむこともできる。それを毎日懸命にこなしている者たちなのだ。それはそれですごいことだと思わぬか」
少年たちはその言葉に、ものすごい発見をしたかのように目を見開き、うなづいていた。その言葉の意味を噛みしめているようだ。
「あの・・・・・・、台所の末吉と申すあの者はな、芋を向くのがすこぶるうまいのだそうだ。他の者がやっと三つむくところを、五つむいてしまうと聞いた。今の時期、水も冷たい。その真っ赤な手で、器用に包丁でむいていくのだ」
雪江は、この多田があれから台所を訪れて、その目で末吉の働く姿を見たのだとわかった。
確かに末吉は、芋の皮をむくのがうまい。器用に芋を転がして、チャチャとむいていく。職人技のようだった。雪江もあんなふうにはできなかった。
「そちたちもこの寒い中、かじかんだ手や足で、連日剣の修業をして、勉学に励んでおる。それもすべて、我ら殿のため、そうであろう。台所は台所でできること、我らは我らのやり方で殿に義を尽くしておるのだ」
多田がそこまで一気に言った。その言葉の深さに、雪江の肌が粟立った。少年たちももう戸惑いはなく、真摯に受け止めていた。
「それでよし。では、この雪江殿のドッチ?ボールというものの説明を聞こう」
多田には従っていた少年たちが、雪江に教えを乞うと言われた途端、顔をしかめていた。
ここで、一人づつ紹介しておこう。
末吉をいじめたリーダー格の池田輝政、十三歳。一番背も高く、剣の腕前も六人の中では抜きんでていた。生意気だが、それなりに画期的で頭の回転も早かった。雪江は密かに、テルと呼び名をつけた。
山内重昌も同じく十三歳。のんびりタイプで、ぽっちゃりしている。性格は温厚、自信に満ち溢れていて、落ち着いている。まるで徳田のミニチュアのようだ。呼び名はおっさん。
滝川雄介は、好奇心旺盛でいつも輝いた目で人を見ている。十二歳。輝政とよくつるんでいる。剣の腕前はまあまあ。顔もかわいいし、タッキーと呼ぶ。
浅野長治、十二歳。おとなしく内向的。剣は得意で黙々とやる。長さん。
寺沢秀久、十一歳。リーダーの輝政の金魚のふん。付きまとっている。シューと呼ぶ。
池田一直、輝政の弟だが、タイプが全く違う。剣などは苦手だが、勉学は優れている。いっちゃん。
「師匠っ、この者、この不埒女に教えを乞うのでございますかっ」
と輝政が抗議してきた。
「ふらち・・・・女と?」
多田が、思わず口にしてしまい、チラリと雪江を見た。その言葉の恐ろしさに怯む。
子供たちの口からすらすらと、その不埒女という言葉が出るということは、雪江のことをそう噂していたに違いなかった。
雪江にとっては、不埒女でも暴言女でも構わなかった。相手がそう出るなら、こっちもビシビシやれる。
「はい、私がその不埒女の雪江です。よろしくっ」
と、声を張り上げ、にっこり笑った。
案の定、少年たちはまたお互いにひそひそと聞こえる会話をする。これが実に愉快だ。
「なんと不埒な」
「たわけ。不埒女だから不埒なのだ」
「あ、そうか」
と言っている。
別の半分の少年たちは、
「母上と同じおなごとは思えぬ言動」
とため息。
「名を雪江・・・・と申しましたか。確か、奥方様も雪江様」
と、一直がつぶやいた。
それを聞いた少年たちは、恐ろしいことに気づいたように「オオオ」とうなっていた。
雪江は、一直を見直す。一番若い彼が雪江の名前を知っていたとは意外だったからだ。
しかし、それを聞いていた兄の輝政のひそひそ叱責が飛んだ。
「一直っ。なんと恐れ多いことを、軽々しく申すでないっ」
「そうだ、雪江様が・・・・こんな不埒なわけがない」
「ただの同名なだけだ」
と、次々に声が飛ぶ。
一直は少し考えて、
「そうだった。雪江様は、いつも奥向きで静かに書を読み、絵をお描きになっているそうだ。出しゃばらず、鈴を転がすようにコロコロと笑われると聞いたことがある」
少年たち一同がその言葉にほっとしていた。
雪江もそれを聞いて吹き出しそうになった。
たぶん、それは安寿のことだろう。雪江のことと安寿が一緒になって噂になっていたようだ。
「同じ名でも月とスッポンじゃっ」
「そうじゃ、そうじゃ。月とスッポンじゃ」
これで、奥方の雪江と台所の雪江、全くの別人ということになった。その方がやりやすい。
さあ、あからさまな陰口はその辺で、というように雪江は皆をギロリと睨みつけた。少年たちは、陰口が聞こえたかと今更のようにあわてて口を閉じた。
「不埒女でもお雪でもいいです。じゃ、ドッジボールの説明するからね。よおく、聞いておくように。わかったっ?」
その言葉の中には、何度も同じことを聞き返すなよという意味が込められていた。いわゆる、脅しだ。
先ほど多田に見せていた紙を、改めて子供たちの前に広げ直した。彼らは自然にそれを囲み、輪ができていた。なんだかんだ言っても子供だ。興味はあるのだろう。
人数の関係で、普通の四角いコートではなく、円系のコートにすることにしていた。
もともとドッジボールはイギリス発祥ともいわれ、二十世紀前半に日本に入ってきた。それはまだ、円系のコートでやるデッド・ボールというものだった。その後、ドッジボールと呼ばれ、四角いコートになったとされている。通常は各チーム十二名から二十名らしい。
「いい? このゲームはボール、つまり球ね。ボールを相手に投げて当てていくの。投げられたチームはそれを受けても逃げてもいい。要するに、決められた時間内で、何人がこのコートの中に残っているかを競うの」
雪江は、カタカナ用語を使うたびに、その紙の隅に書いてある訳を指さしていた。子供たちのことだ。すぐに覚えていく。
「あてられたら、この外、つまり外野へ出る。外野から中へ投げることも、攻撃することもできるの。そして、相手チームの誰かを当てることができたら、また中へ入れる」
武士の子供たちはまた、怪訝そうな顔をしている。
「逃げると申されたか。武士が逃げるなど・・・・」
「うん、そうだな。敵に背中を見せるようなことをせよと申されるか」
「そんなことが我らにできようかっ」
また、聞こえないつもりで口々にひそひそとやっていた。
「逃げたくなかったら、ボールを取ればいいの。その代り、取り損ねたら外野行きよ」
というと、皆が押し黙った。うまく取れなかったら外野行きという言葉が怯ませたようだ。
それを聞いていた多田が口を開いた。
「なぁに、雪合戦のようにやればいい。あれは雪玉から逃げるのではなく、避けるものだ。それと同じであろう。球をとってもいいし、避けてもいいのだ」
多田のことに子供たちの顔が、ぱっと明るくなった。
「ああ、それならできます」
「なるほど、避ければよいのですね。それをコートという区切られた中でやればいいということ」
一直が言った。呑み込みの早い子だ。もうカタカナ用語を覚えている。
「細かいルールはその都度説明していこっか。今日はボールをパスすることの練習。これなら時間があるときにペアになってできるし」
ちょっと意地悪で、紙に書いてないことまでカタカナで言ってやった。
二列に並ばせて、向かい合う。蹴鞠用のボールに綿を巻き付けて、さらに布でぐるぐる巻きにしてあるものを使うことにしていた。幼児の頭ほどの大きなになっていた。これなら万が一、顔にぶつかっても痛くはないはずだ。顔は反則になるが、絶対にぶつからないという保証がないからだ。
お互い、遠慮がちに投げて、受け止めていた。
「甘いっ。そんなんじゃ相手に簡単に取られちゃう。相手がボールを手にしたら、今度はこっちに投げられるのよ。きちんと攻撃しないと今度は身内が危ないことになるの」
お互いを離れさせて、思い切り投げる練習に切り替えた。それでものどかなボール投げの練習にすぎなかった。じれったくなった雪江は、一直のボールをひったくる。
「こうすんのっ。多田様、受けて」
雪江は慌てて構えた多田の腹をめがけて思いきり投げた。バシッという音がして、多田がそれを受け止めていた。
子供たちが、オオオとまたうなる。
「よっし。このくらいに投げるのよ。わかった。じゃ、多田さん、今度は私に投げて。顔にぶつからないように、低めのボールにしてね」
そう言って雪江は腰を落として構える。多田が躊躇していた。
「いいから投げてっ、思い切り」
と叫ぶと、スイッチが入ったかのように多田が動いた。
多田のボールは、雪江の胸のあたりにきていた。この辺のボールははじく可能性があるから無理して取らない方がいいと判断する。涼しい顔をして、ひらりとかわした。
皆が、雪江がそのボールを取るものだとばかり思っていたようだ。おおっという声がまた、洩れていた。
「取れるボールと取らない方がいいボール、判断してね。無理して取らないでいいの。そして、取ったボールはすぐに投げる。相手に逃げる暇を与えないこと。わかったっ」
少年たちはわかったのかわからないのか、ぼけっとしていた。
「わかったの?わかったら返事をしなさい。はいって」
「あ、はい」
子供たちの声が合わない。
「わかったのっ」
「はいっ」と今度ははじけるように揃って言った。
「声が小さいっ、もう一度」
「はいっ」
「よしっ、今日はこれまで」
「はいっ、どうもありがとうございました」
最後は気持ちよく終わっていた。
甲斐を治めていた武田信玄が、こう言っています。
「人は石垣、人は城」と。信玄は、領民に負担がかかる城づくりや石垣を作りませんでした。そんなものがなくても、人の信頼があればそれ以上に強くなれるということでしょうか。
戦さをすれば、兵としても農民が繰り出されたため、その収穫期を避け、戦場になれば、田畑が荒れるため、敵陣に入り、攻めていたと言われています。
さらに武田二十四将と呼ばれ、信玄自身もこの中の一将として数えられています。上に立つ信玄も同じ立場で話し、軍議を行ったと言われています。
参考にさせてもらっています。