夫婦の準備
夕餉のあと、早速雪江は台所へ行って、徳田に話してみた。
「ドッジボールなら、オレも左手投げの外野専門ってことで参加できるな」
と賛成してくれた。
台所チームは、徳田と雪江が入らないと侍の子供たちの人数と合わなかった。裕子は、球技でも直接ボールに触るスポーツには興味を持たないから。
その場で、徳田と簡単なルールを話し合った。
うろ覚えだが、内野、外野同士のパスはだめで、首から上に当たったら反則、相手のチームにボールがいくことになる。外野は、当てたら中へ入ることができるが、別に入らなくてもよい、などということ。
「まあ、単純な遊びだけど、チーム同士のパスを素早くする練習をさせた方がいいな。オレがいろいろ考えておくよ。雪江は正和様に許可をもらってくれ。あの多田様が気にしていたからな」
「うん、わかった」
その夜、雪江は中奥にある龍之介の寝所へ泊るように言われていた。
普通なら、龍之介が奥向きの雪江との寝所へ来るべきなのだが、明知たちが来てからは殆どこない。
早めに行って、そこで夜着に着替える。
龍之介は、また小次郎と道場へ行って剣の稽古をし、湯あみを済ませてからくるから、いつもの如く遅いのだ。
普段の雪江ならばブーブー言うが、今夜はドッジボールのことを考えているから、時間の経過など忘れていた。
龍之介が現れても、雪江は行燈の前で思案にくれていた。
「遅くなって悪かった」
と、龍之介が声をかけてきても「あ、うん」と気のない返事をしていた。龍之介が雪江の背後から、手元の紙を覗き込んだ。
「これが、今日の雪江の心を奪っていた原因か」
大げさな龍之介の言い方に雪江は笑った。確かに今日の午後は、この事ばかり考えていた。そんなにあからさまだったのかと今更ながらに思う。
「実は、・・・・」
雪江は蹴鞠の事件のことから順番に話していた。一応、侍の子供たちと末吉との間に起ったこと、すべてありのままに話す。雪江が挑発したこともだ。
それで双方がいじめとか、威張っている方からの一方通行ではなく、堂々とぶつかり合える遊び、ドッジボールのことを考えたことも言った。そのルールも説明した。
すべて語る。それを聞いていた龍之介が笑みを浮かべていた。
「わかった。それはいいが、よくもまあ、男女の力の差も関係ない遊びを考えたものよのう」
龍之介は半ば、呆れたように言った。
「この遊び、子供の頃、昼休みとかにクラスのみんなでやって遊んだの。積極的な子はどんどんボールを取って投げるし、自信のない子は逃げればいい。要するにボールに当たらないで残っていればいいの」
龍之介が承知してくれたことで、安心していた。やっと行燈の火を消し、布団に入る。火鉢で温まっていた寝所だが、雪江の体は冷え切っていた。
暗闇の中、龍之介が言った。
「一応、いくつかの条件を出すぞ」
「え? マジッ」
条件だなんて、とてつもないことだったらどうしようと思う。
「雪江の身分は最後まで明かさぬこと。台所の下働きとして参加するのだ。よいな」
それを聞いて安心する。
「うん、私もそのつもりだった。多田さんもその方がいいって言ってたし」
その方が堂々とプレイできる。ポニーテールにして、まだ長さのそろわない前髪をおろすと見た目の感じが変わるから、雪江の顔を知っている人ですぐにはわからないかもしれない。別人になれるということが雪江をわくわくさせていた。
「そして、雪江がその侍の子供たちに、その遊び方を丁寧に教えるのだぞ。よいな。手を抜いてはいかん」
「わかってる」
それは正々堂々と戦うための基本だった。
「そして・・・・・・」
と、まだ龍之介の言葉は続く。
「え~、まだなんかあんの? 」
多少、抗議めいた声を出す。
「まあ、聞け。これは肝心な事ゆえ」
「うん」
「当日、侍と台所の子供たちの仲間をバラバラにして、混ぜた組にする」
「えっ」
「よいな。侍と台所の戦いではなく、双方、互いに共に戦う同士にするのだ」
「あ・・・・・・」
「いくら遊びでも、勝った方はうれしい。負けた方はくやしい思いをする。それではいつまでたっても双方が歩み寄れぬ。侍の子と台所の下働きの者たちが協力しあえる仲間として戦うのなら、後腐れなくできるであろう。そうは思わぬか」
雪江は龍之介の考えに感心していた。これは思いつかなかったことだった。どうしても侍と台所のチームに分かれて戦うことしか念頭になかったから。これならば、勝っても負けてもいがみ合うことなくできると思う。仲間同士の友情が芽生えるかもしれない。
「すっごい。龍之介さん、頭いい、マジでっ。私、全然そんなこと思いつかなかった」
というと、龍之介は暗闇の中で笑う。
「よいか、雪江。なぜ、この世に男と女がいると思う? お互い惹かれあい、生涯を共にするのかわかるか?」
「え、男と女・・・・・・」
思わず息を止めて考えこむ。
それはいくつか想像はできる。
子を成すため? それだけじゃないと思う。
「う~ん、お互い違うから、かな。その方が面白いし」
よくわからなかった。でたらめの答えになった。
「そう、男と女は物の見方、考え方が多少違っている。外へ出る男の考えと、奥でそれを見守る女とでは違って当然、そうは思わぬか」
「あ、なるほど」
「それに、一人で考えるよりも二人で話し合えること。自分だけではどうしても抜け出せない考え方が、別の方向から見れば見えることもある」
「うん」
雪江は、龍之介の考えが気に入っていた。考えの及ばない雪江をバカにするのではなく、自分は雪江と違った目を向けることができる、だから、雪江の考えていなかったことが言える。そしてそれは逆の立場もあり得るということなのだ。
「その二人が、一緒になって初めて一人前になれる。外のことと、内のことが把握できるのだ。その二人が子を成し、人を育てる。別の考えと別の目を持った二人が力を合わせてな。それが男と女、生涯を共にする意味なのだと思うが」
江戸時代の男の人って、女の人をもっとコントロールして自分のいいように従わせるってイメージがあった。そんなふうに考えてくれるとうれしい。
「その考え方、好き。すごくわかる気がする」
というと龍之介が「なんだ、その言い方は」と笑った。
「一人では苦難を乗り越えられないかもしれないが、二人ならお互い助け合って新たな道も開けるだろう」
と龍之介がつけ加えた。同感だ。
「ねえ、私もなにかの役に立ってるの?」
と聞いてみた。
まだ夫婦になって日が浅い。相談と言ってもそれほど大きな問題にもぶつかってはいない。
「ん、毎日驚かされている。退屈しない」
と言われ、ふくれっ面になる雪江。
「え~、そんなのつまんない」
いつのまにか接近してきた龍之介、すぐ横にいた。
「なによりも雪江を守りたい、一緒にいたいという気にさせられる。だから、毎日が楽しい」
と龍之介が言う。
照れ屋の龍之介がここまで言ってくれることは滅多にないことだった。暗闇だから言えたのだろうが、その心がうれしい。ジンとしてしまう。
「雪江、今宵わしがなぜ、そなたをわざわざ中奥へ呼んだかわかるか」
「へっわかんない」
「鈍いのう。明知殿と安寿姫が、そろそろ二人の仲が戻りつつあるのだ。だから、お互いの寝所が近い奥向きから雪江を連れ出した、ということ」
「あっそうなんだ」
そう言えば、以前にも龍之介がそんなことを言っていた。広い奥向きでも夜は静まり返る。ちょっとした物音も響くし、声も通る。
「気兼ねなく、な。そうであろう」
「ねえ、龍之介さんと明知様。男同士でそういうことまで話すの?」
と、興味本位で聞く。
年齢で言えば、高三の男の子たち、女の子の話題で盛り上がる年頃だった。
「まさか、武士ともあろうものが、そのようなことは口にせぬもの。しかし、明知殿の考えていることが大体わかるのだ。考えも似ているのだろう。同じ顔をしているだけあってな」
龍之介も双子の不思議がわかってきているようだった。
明知と安寿が、また仲の良い夫婦に戻れることを祈って、雪江もまた、龍之介の背中に腕をまわした。
「夫と妻は半身、夫婦がそろって一つの形となる」というのは新渡戸稲造さんの言葉です。私もそう思います。
福沢諭吉は「武家の女性は、人間としての最小の自由も誇りも奪われていた」と。
たぶん、同じ意味でのことを言っていますが、それをどう捉えるかの違いなのだと思います。
女は夫を主とし、従い、嫉妬をするな。言葉を慎め。金銭的なことは夫に知られずにうまくやりくりし、内助の功とする。
「ああ、耳が痛い」