江戸時代にできるスポーツ
その日の午後、雪江は安寿と読書をしていた。
安寿にとっては楽しみのひと時で、最近、安寿のところへ行くと殆どがこの流行本を読んだりする。
しかし、雪江にとっては、拷問に近い時間だ。漢字の多い書を読むのに身が入らない。気が散る。落ち着かなかった。
特に今の雪江の頭の中は、末吉と侍の子供たちとどうすればコミュニケーションが図れるかでいっぱいだった。
「ね、安寿姫が声に出して読んでよ。そうすればここで先生からの注文のトランプの絵が描ける」
とちゃっかりしたことを言った。
性格のいい安寿は、そのまま雪江の言葉を受け止め、別段気にすることもなく、声に出して書を読み始めた。
雪江は、少しくらい安寿になにか嫌味でも言われるかと思ったが、あまりにも簡単に信じられてしまい、罪の意識を感じていた。
しかし、雪江が絵を描きはじめるとそんな意識はすぐにどこかに飛んでいってしまった。それが雪江のいいところであり、反省するところでもある。
手はトランプの絵を描いてせっせと動かしているが、申し訳ないことに安寿の声は、念仏のように耳から耳へと通り過ぎていた。
やはり、スポーツしかない。試合形式の五、六人でできるスポーツだ。
あのままでは、末吉はまたいじめられるだろう。今度は誰も見ていないところで陰険さが増してきたら・・・・・、そう考えるとかなり言いすぎた張本人の雪江は冷や汗が出る思いだ。
何かに打ち込めて、それで戦えるグループ試合が理想的なのだ。
弾むボールのない時代、バスケットボールやバレーボールなどは無理。やはり、羽根つきバドミントンか。しかし、それでは精々ダブルスでしか、戦えない。サッカーは、足の遅い徳田と雪江がいる台所チームにはかなり不利だった。
男女共に参加してもそう大差のない、練習がそれほどいらないものがいい。
雪江はあれでもない、これでもないと思案に暮れていた。
「ねえ、雪江様。この役者、素敵な方だと思いませんか?」
と話しかけられていた。
しかし、雪江の耳には届いていなかった。
全くなしの反応に、安寿がにらみつける。
「雪江様っ。ねえ、雪江様ったら」
安寿が声を張り上げて、やっと雪江は我に返った。
ふと見ると、今まで見たこともないような怖い顔の安寿がいた。
あ、やばい。聞いていないことがばれた。もう次はこの手は使えない。
反省の余地もない雪江だった。
雪江の考え事は、読書の後の夕餉の時にも及んでいた。
双子の夫たちはトランプ大会以来、かなり仲良くなったらしく、顔を合わせればポツリポツリと話をするようになり、笑顔を見せていた。多くは語らないが、お互いを感じている雰囲気は感じ取れた。
今夜は鳥のから揚げだった。お浸し風サラダにかき玉スープ、雪江としたらパンでもいいのだが、双子たちはご飯でないと食べた気がしないらしい。
先日、ミートソーススパゲッティだったが、米の飯を食わぬと落ち着かないと大騒ぎだった。だから、どんなメニューでも必ずご飯がついてきた。
雪江の頭の中は、まだどんなスポーツがいいか考えていた。きっと朝倉が見たら、「それほど勉強も熱心にすれば成績が上がっていた」と皮肉を言われることだろう。
蹴鞠は、元々勝ち負けを争うものではないから除外していた。剣道では、台所チームが不利だ。
大好きな鳥のから揚げも手につかない状態だった。
さっきから、皆が雪江を見ていた。
誰もが、雪江の心、ここにあらずとわかるほどだった。目が空を見つめ、口の中でブツブツと何かを言っている。突然、顔が明るくなったかと思うと、すぐに曇る七変化をやっていた。
「不気味な現象。雪江が黙って何かを考えているとろくなことが起らぬ」
と、龍之介が言う。
「何かものすごいことをたくらんでおられるのでしょうか」
明知までが不安そうに雪江を見て言った。
「雪江様は何かに夢中になっていると、他の声や音も何も聞こえないのでございます。夕餉の前に流行本をずっと読んでいましたが、たぶん何も聞こえてはいなかったと思います」
雪江は、その三人の話も聞いてはいなかった。
外は二月の重い湿った雪が降っていた。
双子たちが雪を話題にしていた。熱の出やすかった明知は、雪の日に外へ出たことがないという。
「では、雪玉を丸めて投げる雪合戦もしたことがないのだな」
龍之介が言った。
「はい、でも側近たちが丸めたものを投げたことはございます。縁側に立って目当ての木などに当てるという・・・・・・」
放心状態のような雪江の頭が急回転していた。
雪玉を投げる、目当てのものをめがけて当てる? それでいて団体でできる遊び・・・・・・。
「あっ」と雪江が大声をあげていた。
雪江の頭の中に、閃いたものがあった。
多少のことは動じないはずの龍之介が、雪江の突然の大声でご飯をむせて咳き込み、明知がつまんでいたたくあんを落とし、安寿がかき玉スープをこぼしてしまった。
雪江は周りにそんな迷惑をかけていたことも気づかずに、自分の考えの素晴らしさに浮かれていた。
ドッジボールだった。これなら小学校の休み時間に誰でも参加できる球技だ。投げて受け止める、受けずに逃げてもいい。練習もそれほどいらない。ルールも簡単だった。投げて当てるという行為が、お互いの鬱憤をはらせるというメリットもあった。
「よし、決まり」
雪江が再び叫んだ。
安寿がまた驚いて飛び上がった。
迷惑そうに顔をしかめている龍之介にも気づかずに、雪江はウキウキしていた。