第8話 はじめての外
その夜は、いつもより静かだった。
店の中は落ち着いていて、人も少ない。
あすかはカウンターに座り、グラスを手にしていた。
視線は自然と入口へ向く。
――来る。
理由はないのに、そんな気がしていた。
カラン、と扉の音。
振り向く。
やはり、しょうたろうだった。
少しだけ息を整えながら店に入り、あすかを見つけると――
柔らかく笑った。
「……いましたね」
「……はい」
短い言葉。
それだけで、十分だった。
隣に座る。
距離は、もう迷うことなく自然だった。
「今日は、どうですか?」
「……落ち着いてます」
「それならよかった」
その会話も、もう何度目か分からない。
けれど、飽きることはなかった。
しばらく、いつもの時間が流れる。
グラスの音。
低い音楽。
短い会話。
けれど――
その中で、あすかはふと感じていた。
(……このままでいいのかな)
満たされている。
けれど、どこか物足りない。
もっと知りたい。
もっと一緒にいたい。
そんな感情が、少しずつ形を持ち始めていた。
「りょうさん」
しょうたろうが静かに呼ぶ。
「はい」
「今日……このあと、少し歩きませんか」
その一言に、時間が止まる。
店の外。
二人きり。
それは、今までとは明らかに違う意味を持っていた。
「……はい」
迷いはなかった。
会計を済ませ、店を出る。
外は冷たい。
けれど、空気がどこか澄んでいた。
「寒いですね」
「……はい」
並んで歩き出す。
最初は少しだけ距離があった。
けれど、自然と近づいていく。
街の灯りが、静かに続いている。
車の音が遠くに響く。
誰もいないわけではないのに、二人だけの世界のように感じた。
「こういうの、初めてです」
あすかがぽつりと言う。
「……何がですか?」
「お店の外で、こうして歩くの」
しょうたろうは少しだけ驚いた顔をする。
「……そうなんですね」
「はい」
少しだけ恥ずかしくなる。
けれど、隠す気にはならなかった。
「自分も……」
しょうたろうが言う。
「こういうの、あまりないです」
「……意外です」
「よく言われます」
少しだけ笑う。
その笑顔に、安心する。
歩いていると、風が強くなる。
あすかは思わず肩をすくめた。
その瞬間――
ふわりと、首元に何かが触れる。
「……え?」
振り向くと、しょうたろうが自分のマフラーを外して、あすかの首にかけていた。
「寒そうだったので」
「……でも」
「自分は大丈夫です」
そう言って、少しだけ笑う。
その仕草が、あまりにも自然で。
胸が強く揺れる。
「……ありがとうございます」
小さく言う。
マフラーから、彼の温度が伝わる。
さっきまでより、少しだけ近く感じる。
しばらく歩く。
言葉は少ない。
けれど、その沈黙が心地よい。
ふと、足が止まる。
小さな公園。
ベンチがひとつ。
しょうたろうが、そっと座る。
「少し、休みませんか」
「……はい」
隣に座る。
距離は、もうほとんどない。
肩が、わずかに触れる。
その感触に、心臓が少し速くなる。
「りょうさん」
「はい」
「今、楽しいですか」
その問いは、真っ直ぐだった。
逃げ場のない言葉。
けれど、答えは決まっていた。
「……楽しいです」
はっきりと、そう言える。
「よかった」
彼は、小さく息を吐く。
「自分もです」
その言葉に、胸が満たされる。
沈黙。
けれど、今までとは違う。
少しだけ緊張を含んだ空気。
そのとき、風が強く吹いた。
思わず、体が揺れる。
――その瞬間。
彼の手が、あすかの手に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、そのまま離れない。
指先が、重なる。
逃げることも、避けることもできた。
けれど――
どちらも、しなかった。
ゆっくりと、手を繋ぐ。
自然に。
何も言わずに。
心臓の音が、大きくなる。
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ、安心している自分がいる。
「……りょうさん」
「はい」
「このまま、少しだけ」
彼が言う。
「一緒にいてもいいですか」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
「……はい」
それしか言えなかった。
冬の夜。
冷たい空気の中で。
ふたりの手は、確かに繋がっていた。
それは、ただの偶然でも。
ただの流れでもない。
確かに――
ふたりが選んだ、一歩だった。
手を繋いだまま、時間がゆっくりと流れていく。
公園のベンチ。
冷たい夜の空気。
遠くで鳴る車の音。
そのすべてが、どこか遠くに感じられた。
あすかは、自分の手を見つめる。
しょうたろうの手が、そっと重なっている。
強く握るわけでもなく、離れるわけでもない。
ただ、そこにある温もり。
それだけで、心が満たされていく。
「……あすかさん」
不意に、名前を呼ばれる。
一瞬、思考が止まる。
今まで「りょう」と名乗っていた。
それなのに――
「……どうして」
「編集者さんと話してるの、前に少しだけ聞こえて」
しょうたろうは少しだけ申し訳なさそうに言う。
「本当の名前、そっちなんですよね」
あすかは、少しだけ目を伏せた。
隠していたわけではない。
ただ、どこか距離を取るために使っていた名前。
「……はい」
小さく答える。
「どっちで呼べばいいですか」
その問いに、少しだけ考える。
そして――
「……あすかで」
自然と、その言葉が出た。
しょうたろうは、少しだけ微笑む。
「じゃあ、あすかさん」
その呼び方が、胸に響く。
沈黙が戻る。
けれど、それは心地よいものだった。
「……あすかさん」
「はい」
「さっきの、手……」
言葉を選ぶように、少しだけ間が空く。
「嫌じゃなかったですか」
その問いに、あすかはゆっくりと首を振る。
「……嫌じゃないです」
むしろ――
そう言いかけて、言葉を飲み込む。
けれど、その続きを彼は感じ取ったようだった。
少しだけ、手に力が入る。
優しく、確かめるように。
その仕草に、胸が静かに揺れる。
「……あすかさん」
「はい」
「自分、あまりこういうの慣れてなくて」
しょうたろうは苦笑する。
「でも……」
少しだけ真剣な表情になる。
「今は、離したくないって思ってます」
その言葉が、まっすぐに届く。
飾りも、駆け引きもない。
ただの本音。
あすかの胸の奥で、何かがほどける。
ずっと抑えていた感情。
誰かに近づくことへの怖さ。
それが、少しずつ溶けていく。
「……私もです」
気づけば、そう答えていた。
自分でも驚くほど、自然に。
風が吹く。
白いマフラーが揺れる。
その中に、彼の温もりが残っている。
少しだけ距離が縮まる。
肩が触れる。
体温が伝わる。
「……寒くないですか」
彼が小さく聞く。
「……大丈夫です」
本当だった。
寒さよりも、温もりの方が強い。
しばらく、そのままの時間が続く。
何も起きない。
けれど、それでいいと思えた。
やがて、あすかが小さく息を吐く。
「……こんな時間、初めてです」
「どんな?」
「……安心してるのに、少しだけドキドキしてる時間」
その言葉に、しょうたろうは少しだけ笑う。
「自分も、同じです」
手を繋いだまま、立ち上がる。
帰る時間。
けれど、どこか名残惜しい。
歩き出す。
今度は、自然と手を繋いだまま。
もう迷いはなかった。
「……あすかさん」
「はい」
「また、会ってくれますか」
その問いは、これまでとは違う。
ただの確認ではない。
意思のある言葉。
あすかは、少しだけ立ち止まる。
そして、彼の方を見る。
「……はい」
迷いはなかった。
「会いたいです」
その一言に、すべてを込める。
しょうたろうは、ゆっくりと頷く。
「自分もです」
再び歩き出す。
夜の街は静かで、冷たい。
けれど、ふたりの間には確かな温度がある。
それはもう――
偶然でも、ただの出会いでもない。
確かに始まった関係。
まだ名前はついていないけれど。
ふたりは、同じ方向へ歩いていた。




