第7話 触れる理由
その夜は、少しだけ遅かった。
仕事が長引き、気づけばいつもより遅い時間になっていた。
(……今日はやめておこうか)
そう思いながら歩いていたはずなのに――
気づけば、足はあの店の前で止まっていた。
小さく息を吐く。
迷いはあった。
けれど、それでも扉に手をかける。
カラン、と音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
その声に軽く頷き、カウンターへ目を向ける。
――いない。
ほんの一瞬、胸の奥が落ちる。
その感覚に、自分でも驚く。
(……こんなに)
会えないことが、少し寂しい。
そんなふうに思ってしまう自分がいた。
席に座る。
グラスが置かれる。
けれど、今日は少しだけ味が分からない。
視線は、自然と入口の方へ向いてしまう。
何度か扉の音が鳴るたびに、無意識に顔を上げる。
違う人。
また違う人。
その繰り返し。
どれくらい時間が経っただろうか。
グラスの中身が、半分ほど減った頃。
カラン、と扉の音。
反射的に顔を上げる。
――彼だった。
少しだけ息が整っていない。
急いで来たような様子。
そして、私を見ると――
はっきりと安心したような表情を浮かべた。
「……よかった」
小さく、そう呟く。
「……何がですか?」
そう聞くと、彼は少しだけ照れたように笑った。
「今日は、いないかと思ってたので」
その一言に、胸が強く揺れる。
(……同じだ)
自分と同じことを思っていた。
その事実が、思っていた以上に大きかった。
彼は隣に座る。
いつもより少しだけ距離が近い気がする。
「遅かったですね」
「すみません、仕事が長引いて」
「……大変ですね」
「まあ、慣れてます」
そう言いながらも、少しだけ疲れた表情をしていた。
しばらく、静かな時間が流れる。
いつものように会話をする。
けれど、今日は少し違う。
どこか、互いに意識しているような空気。
言葉にしなくても分かる距離。
「りょうさん」
彼が静かに呼ぶ。
「はい」
「今日は……少しだけ、疲れてますよね」
その言葉に、少し驚く。
「……分かりますか?」
「なんとなくです」
彼は軽く笑う。
「無理してる感じがしたので」
その一言で、力が抜ける。
「……少しだけ」
正直に答える。
「今日は、少ししんどかったです」
そう言うと、彼は黙って頷いた。
それ以上は聞かない。
けれど、ちゃんと受け止めてくれている。
その距離が、心地よい。
ふと、手元に視線が落ちる。
指先が、少しだけ冷えている。
そのとき――
彼が、そっと手を伸ばした。
「……また、いいですか」
前と同じ言葉。
けれど、意味は少し違う。
私は、迷わなかった。
そっと手を重ねる。
指先が触れる。
その瞬間、静かに何かが流れ込んでくる。
温度だけじゃない。
安心感。
落ち着き。
そして――
離したくない、という感覚。
「……温かいですね」
彼が小さく言う。
「はい」
短く答える。
それだけで十分だった。
少しだけ、距離が近づく。
触れている時間が、前よりも長い。
誰も何も言わない。
けれど、それでよかった。
「りょうさん」
彼が、少しだけ真剣な声で言う。
「はい」
「こうしてると……」
言葉を選ぶように、少しだけ間が空く。
「落ち着きます」
その言葉に、胸の奥が強く揺れる。
「……私もです」
それは、自然に出た言葉だった。
しばらくして、手がゆっくりと離れる。
けれど、さっきまでとは違う。
ただの接触ではなくなっている。
そこに意味がある。
理由がある。
店を出る時間。
外に出ると、冷たい風。
思わず、白いマフラーを巻き直す。
そのとき――
「それ、似合ってますね」
彼が言う。
「……これですか?」
「はい。前から思ってましたけど」
少しだけ、照れくさくなる。
「……ありがとうございます」
並んで歩く。
距離は、もうほとんどない。
少しだけ手が触れそうな距離。
けれど、触れない。
その微妙な距離が、逆に意識を強くする。
「……また、来ますよね」
彼が言う。
確認するような声。
「……はい」
私は、迷わず答える。
「来ます」
その言葉に、彼は小さく頷いた。
夜道を歩く。
冷たい空気の中で、心だけが少しずつ温かくなっていく。
触れた手の感触が、まだ残っている。
(……これは)
もう、分かっている。
ただの安心じゃない。
ただの居心地の良さでもない。
これは、きっと――
恋のはじまりだった。




