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あすかの幸せについて第一章題「白いマフラーの冬」  作者: こうた


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第5話 ほどける影

あの店に通うことが、当たり前になり始めていた。

特別なことではない。

ただ、仕事の帰りに立ち寄るだけ。

それなのに、その時間があるだけで、心のどこかが軽くなる。

その夜も、いつものように扉を開けた。

カラン、と鈴の音。

「いらっしゃいませ」

店員の声に軽く会釈をして、カウンターへ向かう。

そこには、すでに彼が座っていた。

「……来ると思ってました」

そう言って、少しだけ笑う。

「……そうですか」

自然と隣に座る。

距離が、少しずつ当たり前になっていく。

グラスが置かれる。

その動作すら、前よりも落ち着いて感じる。

「最近、よく来ますね」

彼が言う。

「……そうですね」

少しだけ間を置いてから、続ける。

「ここに来ると、落ち着くので」

その言葉に、彼は小さく頷いた。

「自分もです」

同じ感覚を共有している。

それが、少しだけ嬉しい。

しばらくして、店内の音が静かになる。

人が減り、会話の声も小さくなる。

自然と、少しだけ深い話になる。

「りょうさん」

彼が、少し真面目な声で呼ぶ。

「はい」

「前に少しだけ話してくれたこと……」

一瞬、空気が変わる。

「介護のこと」

その言葉に、胸がわずかに締めつけられる。

「……はい」

「聞いてもいいですか」

その問いは、慎重だった。

無理に踏み込むものではなく、ただ確認するような問い。

少しだけ考えてから、私は頷いた。

「……大変でした」

静かに、言葉が落ちる。

「毎日、同じことの繰り返しで」

「でも……母は、好きでした」

その一言を口にするまでに、少しだけ時間がかかった。

「ただ……」

言葉が詰まる。

「少しだけ……逃げたかったんです」

その瞬間、自分でも驚く。

こんなこと、誰にも話したことがなかった。

彼は何も言わない。

ただ、静かに聞いている。

その沈黙が、責めるものではないことが分かる。

「……母が亡くなって」

一度、息を整える。

「正直、ほっとした自分もいました」

その言葉を出した瞬間、胸が痛む。

「最低だと思います」

そう言いかけたとき――

「そんなことないです」

彼が、静かに遮った。

はっとして、彼を見る。

彼は、真っ直ぐこちらを見ていた。

「りょうさんは、ちゃんと向き合ってたんですよ」

「……」

「逃げたかったって思うのも、それだけ一生懸命だったからじゃないですか」

その言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。

否定ではない。

責めでもない。

ただ、受け止めるような言葉。

「……ありがとうございます」

それだけしか言えなかった。

けれど、その一言にすべてを込めた。

しばらく、沈黙が続く。

けれど、その沈黙は重くなかった。

むしろ、心地よい。

「自分も……」

彼が、ゆっくりと口を開く。

「昔、あまりいい思い出がなくて」

その言葉に、少しだけ驚く。

「いじめられてたんです」

その一言は、静かに落ちた。

「男子校だったんですけど……」

少しだけ苦笑する。

「人との距離の取り方が、よく分からなくなって」

「今でも、少し苦手なんです」

その言葉に、胸が少しだけ痛む。

「でも……」

彼は少しだけ視線を上げた。

「こうして話せるのは、嬉しいです」

その言葉に、心が揺れる。

この人も、同じように傷を抱えている。

そして、それでも前に進もうとしている。

気づけば、外は静かになっていた。

そろそろ閉店の時間が近い。

「……今日は、少し話しすぎましたね」

彼が言う。

「いいえ」

私は首を振る。

「……話してくれて、よかったです」

その言葉に、彼は少しだけ驚いた顔をして――

すぐに、優しく笑った。

「ありがとうございます」

店を出る。

冷たい風が吹いている。

けれど、今夜はそれほど寒く感じなかった。

隣を歩く彼の存在が、どこか心強い。

「りょうさん」

「はい」

「また、来ますか」

その問いに、少しだけ考えてから答える。

「……来ます」

はっきりと。

今までよりも、少しだけ強く。

彼は満足そうに笑った。

「じゃあ、また」

その言葉が、自然に次の約束になる。

夜道を歩く。

ふたりの間には、確かな距離がある。

けれど、その距離は少しずつ縮まっている。

お互いの過去を少しだけ知ったことで。

見えない何かが、確かに変わり始めていた。

冬の夜は、まだ長い。

けれど――

その先に、何かが待っている気がした。

あの夜から、また数日が過ぎた。

日常は変わらない。

仕事をして、帰る。

ただ、その中に小さな変化が生まれていた。

――彼に会う時間。

それが、少しずつ自分の中で特別になっていく。

その日も、私はあの店に向かっていた。

扉を開けると、いつもの音。

カウンターに視線を向ける。

彼は、まだ来ていなかった。

少しだけ、肩の力が抜ける。

そのまま席に座り、グラスが置かれるのを待つ。

やがて、店の扉が開く音。

振り向くと――

彼が入ってきた。

そして、こちらに気づくと、少しだけ驚いたような顔をする。

「……早かったですね」

「……はい」

自然と、そう返してしまう。

彼は軽く微笑みながら、隣に座る。

その距離が、当たり前になっていることに気づく。

「今日は、どうでしたか?」

彼が聞く。

「いつも通りです」

そう答えながらも、少しだけ考える。

「でも……」

「でも?」

「少しだけ、会うのが楽しみになってました」

その言葉を口にした瞬間、自分でも驚く。

正直すぎる。

けれど、もう隠す理由が分からなかった。

彼は一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ笑った。

「それは……嬉しいです」

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

しばらくして、店に別の客が入ってくる。

若い女性が、彼の近くに座った。

「隣、いいですか?」

軽い声。

彼は一瞬だけ戸惑いながらも、「どうぞ」と答える。

その様子を、私は何気なく見ていた。

特に意味はない。

ただの光景。

そう思おうとする。

けれど――

なぜか、少しだけ胸の奥がざわついた。

彼が、その女性と軽く会話を始める。

自然なやり取り。

笑い声。

それを見ていると、どこか落ち着かない。

(……どうして)

理由が分からない。

ただ、視線がそこに引き寄せられる。

彼は、私の方を一度も見ない。

当たり前のことなのに、それが少しだけ引っかかる。

やがて、その女性は店を出ていった。

会話が途切れ、静けさが戻る。

「……すみません」

彼が、少しだけ申し訳なさそうに言う。

「いえ……」

私は首を振る。

「大丈夫です」

本当に、そう言いたかった。

けれど、なぜか少しだけ声が固くなる。

彼は、その変化に気づいたようだった。

「……何か、ありましたか?」

その問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。

何でもない。

そう答えればいいのに。

口を開いた瞬間、思ってもいなかった言葉が出た。

「……少し、気になりました」

「……え?」

「さっきの人と、楽しそうに話してたので」

言ってしまってから、後悔する。

けれど、もう引き返せなかった。

彼は少しだけ驚いた表情をしたあと――

すぐに、優しく微笑んだ。

「りょうさん」

「はい」

「それ、ちょっと嬉しいです」

「……え?」

予想外の言葉に、思わず顔を上げる。

「自分に、少しでも興味持ってくれてるってことですよね」

その言葉に、胸が一瞬強く揺れる。

「……そういう意味では……」

「でも」

彼は少しだけ真剣な表情になる。

「さっきのは、ただ話してただけです」

その言葉は、どこか落ち着いていて。

そして、少しだけ距離を詰めてくるような響きだった。

「りょうさんのこと、ちゃんと見てますよ」

その一言が、心の奥に深く残る。

沈黙が落ちる。

けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。

さっきのざわつきは、少しずつ消えていく。

代わりに残るのは、確かな感情。

(……これは)

気づいてしまう。

これまで感じたことのないもの。

誰かを気にするということ。

誰かに、特別でいてほしいと思うこと。

「……りょうさん」

彼が、静かに呼ぶ。

「はい」

「今日、少しだけ……」

言葉を選ぶように、彼は続ける。

「近くに感じました」

その言葉に、胸が静かに揺れる。

距離が縮まる。

その感覚は、怖さと同時に、確かな温かさを持っていた。

「……私もです」

そう答えると、彼は少しだけ安心したように笑った。

店を出る時間。

外は冷たい風が吹いている。

けれど、今夜はさっきよりも寒さが弱く感じた。

並んで歩く。

会話は少ない。

けれど、その沈黙が心地よい。

「……さっきのこと」

彼がぽつりと言う。

「はい」

「気にしてくれて、嬉しかったです」

その言葉に、少しだけ顔が熱くなる。

「……気にしすぎたかもしれません」

「いいえ」

彼は首を振る。

「ちゃんと見てもらえてるって、分かるので」

その言葉が、深く心に残る。

冬の夜。

空気は冷たいまま。

けれど、ふたりの間には、確かな温度が生まれ始めていた。

それはまだ恋と呼ぶには、少しだけ曖昧で。

けれど――

確かに、そこにあるものだった。

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