第4話 近づく距離
あの夜から、また少し時間が流れた。
仕事は変わらない。
朝は来て、夜は訪れる。
ただ、その繰り返し。
けれど、その中にひとつだけ変化があった。
――あの店に、また行くこと。
それが、いつの間にか習慣のようになっていた。
その日も、仕事を終えた帰り道だった。
空気は一段と冷たく、吐く息が白くなる。
冬が、少しずつ深まっている。
足は自然と、あの店へと向かっていた。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
カラン、と音を鳴らして中へ入る。
「いらっしゃいませ」
その声に、少しだけ安心する。
カウンターを見ると――
彼がいた。
グラスを手に、こちらを見ている。
「……やっぱり、来ましたね」
そう言って、少しだけ笑う。
「……来てしまいました」
自然と、そんな言葉が出る。
前回よりも、少しだけ距離が近い気がした。
席に座ると、いつものようにグラスが置かれる。
「今日はどうですか?」
彼が聞く。
「……いつも通り、です」
そう答えながら、私は少しだけ考える。
「でも……少しだけ、来るのが楽しみになってます」
その言葉は、自分でも少し驚くほど素直だった。
彼は一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。
「それは、嬉しいですね」
その笑顔が、やけに自然で。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
しばらくして、私は彼の手元に目を向けた。
「それ……よく飲むんですか?」
彼のグラスを指して言う。
「これですか?」
彼はグラスを少し持ち上げる。
「まあ、いつも似たようなものですね」
「好きなんですね」
「好きというより……落ち着くんです」
その言葉に、どこか既視感を覚える。
「私と同じですね」
そう言うと、彼は少しだけ目を細めた。
「……そうかもしれません」
会話は、ゆっくりと続いていく。
無理に話題を作るわけではない。
沈黙があっても、不思議と気まずくならない。
むしろ、その静けさが心地よかった。
「りょうさん」
彼が、ふと名前を呼ぶ。
「はい」
「手、冷たくないですか?」
突然の問いに、少し戸惑う。
「……少し」
そう答えた瞬間――
彼が自分の手を軽く差し出した。
「少しだけ、あっためます?」
一瞬、時間が止まったように感じる。
躊躇する理由はいくつもある。
けれど、それ以上に――
断る理由が見つからなかった。
そっと、手を重ねる。
触れた瞬間、彼の手の温度が伝わってくる。
思っていたよりも、ずっとあたたかい。
その温もりに、胸の奥が少しだけ揺れる。
「……温かいですね」
「はい」
彼も静かに答える。
それだけのやり取り。
それなのに、言葉以上の何かがそこにあった。
しばらくして、彼が手を離す。
ほんの少しだけ、名残惜しさが残る。
「……すみません」
「いえ」
私は小さく首を振る。
「……ありがとうございます」
その一言に、彼は少しだけ照れたように笑った。
店を出る時間になった。
いつものように会計を済ませる。
扉に手をかける前に、少しだけ振り返る。
「……また来ます」
自然と、そう言葉が出ていた。
彼は笑って頷く。
「待ってます」
その一言が、少しだけ嬉しい。
外に出ると、冷たい風が頬を打つ。
けれど、心の中は不思議とあたたかかった。
さっき触れた手の温度が、まだ残っている。
人と触れること。
誰かと時間を共有すること。
それを、ずっと避けてきたはずなのに。
今は、それを少しだけ受け入れようとしている自分がいる。
歩きながら、ふと思う。
このまま進んでいいのか。
それとも、どこかで止めるべきなのか。
答えはまだ出ない。
けれど――
止まりたいとは、思わなかった。
冬の夜。
二人の距離は、確かに少しだけ近づいていた。




