第20話 幸せについて
冬が、終わろうとしていた。
朝の空気は、少しだけやわらかい。
冷たさの中に、ほんのわずかな温度が混ざっている。
あすかは、いつものように歩いていた。
仕事へ向かう道。
変わらない景色。
けれど――
どこか、違って見える。
白いマフラーを、軽く整える。
あの冬の記憶が、自然とよみがえる。
出会った夜。
ぎこちない会話。
触れた手の温もり。
初めてのキス。
そして――
別れ。
(……短かったな)
ふと、そんなことを思う。
長い人生の中で見れば、ほんの一瞬。
それでも。
確かに、そこにあった時間。
あすかは、立ち止まる。
空を見上げる。
薄い青。
どこまでも、静かな色。
(……幸せって)
ゆっくりと、考える。
ずっと、分からなかった。
母の介護をしていた頃。
自分の時間はなくて。
それでも、どこかで満たされていた。
けれど同時に――
どこかで、解放されたいと思っていた。
その気持ちに、少しだけ罪悪感を抱いていた。
母を失ったとき。
大きな喪失と。
そして、少しの自由。
そのふたつが、同時に押し寄せた。
(……あのときも)
幸せだったのかもしれない。
苦しさの中にあった、何か。
そして、この冬。
誰かを好きになること。
誰かと時間を過ごすこと。
それを、初めて知った。
(……あれも)
確かに、幸せだった。
ずっと続くものじゃなくても。
形が変わっても。
終わってしまっても。
その瞬間に感じたものは、本物だった。
あすかは、小さく息を吐く。
胸の奥に、静かな温もりが残っている。
寂しさも、ある。
けれど――
それだけじゃない。
(……ちゃんと、残ってる)
あの時間が。
あの気持ちが。
自分の中に、確かにある。
それが、少しだけ嬉しかった。
歩き出す。
前を向いて。
少しだけ、背筋を伸ばして。
「……書こうかな」
ふと、そんな言葉がこぼれる。
この冬のこと。
この気持ちのこと。
誰にも見せなくてもいい。
けれど――
残しておきたいと思った。
それは、あすかにとって初めての感情だった。
ただ生きるだけじゃなく。
何かを、自分の言葉で残すということ。
それが、少しだけ楽しみに思えた。
風が吹く。
白いマフラーが揺れる。
もう、あの人の温もりはない。
けれど――
それでもいいと思えた。
(……これで、よかった)
心の中で、静かにそう思う。
冬は、終わる。
そして――
新しい季節が、始まる。
あすかは、歩き続ける。
ひとりで。
けれど、前よりも少しだけ軽く。
少しだけ、強く。
「幸せについて」
その答えは、まだ途中かもしれない。
けれど――
もう、探すことは怖くなかった。
第一章 完




