第2話 夜の温度
夜の街は、思っていたよりも静かだった。
店内に一歩足を踏み入れると、外の喧騒が遠ざかる。やわらかく落とされた照明、低く流れる音楽、そしてグラスが置かれる小さな音だけが、空間を満たしていた。
カウンターに座ると、目の前には琥珀色のグラス。
それをただ見つめているだけで、時間がゆっくりと流れていく。
「……おひとりですか?」
隣から声がかかる。
振り向くと、さっきまで向かい側にいた男性が、少し距離を詰めてこちらを見ていた。
「ええ……。今日は、たまたま」
そう答えると、彼は軽く笑った。
「ここ、よく来るんですか?」
「いえ、初めてです」
「初めてでここ選ぶの、なかなか勇気ありますね」
その言い方には、押しつけがましさがなかった。
私は少しだけ視線を落とし、グラスを指でなぞる。
「……そうかもしれません」
彼はグラスを軽く持ち上げた。
「じゃあ、今日は記念日ですね」
「記念日……?」
「初めての場所に来た日って、あとで思い出すことが多いんですよ」
その言葉に、少しだけ考え込む。
ここに来た理由は、ただひとつ。
一緒に飲んでいた友人たちが、それぞれの生活で忙しくなり、私はひとりになった。
家に帰るだけの夜。
何も変わらない日々。
それを少しだけ変えたくて、この場所に来た。
「……確かに、思い出すかもしれませんね」
そう言うと、彼は静かに頷いた。
「名前、聞いてもいいですか?」
一瞬、間が空く。
けれど、逃げる理由はなかった。
「……りょうです」
「りょうさん」
彼はその名前を、ゆっくりと繰り返した。
「自分は、しょうたろうって言います」
名前を交わしただけなのに、空気が少しだけ変わる。
警戒していたわけではない。
けれど、心の奥にあった壁が、ほんの少しだけ低くなった気がした。
「しょうたろうさんは、よくここに?」
「まあ、仕事帰りにたまに」
彼は肩をすくめるように笑う。
「エンジニアやってるんですけど、会社と家の往復ばかりで」
「一人で来ることが多いんですか?」
「はい。その方が気楽なので」
その言葉には、慣れがあった。
無理をしている様子はない。
けれど、その奥に何かを隠している気配も感じる。
「でも今日は、少し違うみたいですね」
「え?」
「話してるから」
彼は少しだけ目を細めた。
「そうですね……」
私はグラスを揺らす。
氷が静かに音を立てる。
その音が、妙に心地よかった。
「……りょうさんは、どんな仕事を?」
少しだけ迷ったあと、私は口を開いた。
「仕事と、介護をしていました」
「介護?」
彼の声が、少しだけ静かになる。
「母の」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がわずかに締めつけられる。
「最近……終わったんです」
「……そうですか」
彼はそれ以上、深くは聞かなかった。
その距離が、ありがたかった。
無理に踏み込まない優しさ。
その沈黙が、今の私にはちょうどよかった。
「大変だったんですね」
ただ、それだけを言ってくれる。
「……少し、疲れていたかもしれません」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「でも今は?」
「……少し、自由です」
その答えに、彼は頷いた。
「いいですね、それ」
その一言が、不思議と心に残る。
「しょうたろうさんは……どうなんですか?」
「自分ですか?」
少しだけ間を置いてから、彼は答えた。
「……あまり変わりないですよ。仕事して、帰って、寝るだけです」
「恋とかは?」
その問いに、彼は一瞬だけ視線を落とした。
「……縁がないですね」
少しだけ苦笑する。
「意外です」
「そう見えます?」
「はい」
そのやり取りに、彼は小さく笑った。
「じゃあ、少しはうまくやれてますね」
その言い方に、思わず笑ってしまう。
店の空気が、少しだけ柔らかくなる。
「……りょうさん」
「はい」
「こういう店、たまには来てもいいと思いますよ」
「……どうしてですか?」
「一人の時間も大事ですけど」
彼はグラスを見つめながら言う。
「誰かと話すと、少しだけ世界が広がる気がするんです」
その言葉が、静かに胸に残る。
「……そうですね」
グラスを置く。
氷の音が、ゆっくりと消えていく。
店の外では、冷たい風が吹いている。
けれど、この空間だけは少しだけ温かかった。
「……そろそろ帰りますか?」
彼が言う。
「ええ……」
会計を済ませ、席を立つ。
扉を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。
一瞬で、現実に戻される。
それでも、不思議と心は軽かった。
「また、来ますか?」
その問いに、少しだけ迷ってから答える。
「……来るかもしれません」
彼は小さく笑った。
「じゃあ、また」
その一言が、やけに優しく響いた。
私は扉の外へ出る。
冬の夜。
けれど、さっきまで感じていた冷たさは、もうそれほど強くはなかった。
胸の奥に残る、ほんの少しの温もり。
それが、これから始まる何かの気配のように思えた。




