さすらい人
「実は……今初めて明かすんだけど、実は……僕は売春婦の子供なんだよ」
妻はキョトンとしている。そしてひと呼吸置いてから、
「バイシュンフって、あの売春婦のこと?」
「うん」
「ええっ、うそー!」
「申し訳ない。今まで黙っていて」
「えーっ! そんな、どういうこと? あなたの、あのお母さんが、売春婦だったってこと?」
「そうなんだ」
「えーっ、うそでしょう?」
「いや、本当なんだ。っていうか、どうも本当らしい。最近勇気を出してお袋に確認したんだけどね、本当にお金がなくて立ちんぼをしていたことがあったらしい」
今年25になったばかりの妻は、しばらく言葉を失って、手元のノンアルレモンサワーをじっと見つめていた。妻はアルコールが苦手だ。
粉雪が舞い始めた夕刻、ちょっと一杯飲みたいんだけど付き合ってくれない? と妻を誘い、喧騒の溢れる居酒屋で、私は酒の力を借りて妻にこんな話をした。
妻が驚くのは当たり前だ。いや、誰だって驚くだろう。当然自分だって、その事実を知った時のショックといったら並大抵ではなかった。
まだ結婚して2年、子供もいない。今なら妻に本当のことを打ち明けて、今まで黙っていたことを許してもらえるかもしれないと思った。これ以上長いこと夫婦をやって、まして子供でもできてからこんなことを打ち明けたら、妻も自分の身の振り方に困るだろう。
今なら、どうしても許せなければ離婚でもできる。
私も、間違いであってくれればとずっと思っていた。私が高校生の頃、母と離婚して家を出て行った時の実の父親の言葉を、怒りに任せたウソだと思いたかった。
『お前の母さんはな、元売春婦なんだぞ! しかもお前は一夜の過ちでできた息子だ。オレは仕方なく結婚したんだ! だからきょう、おれはもう出ていく! せいぜい母さんと仲良くするんだな』
あんなに心に響いた言葉は後にも先にもない。地獄に突き落とされたような気分だった。そしてそれをずっと胸に抱えたまま生きてきて、お袋に確認した時は、嘘でもいいから否定してほしかった。しかし……。
泣いた。心の底から号泣した。悲しいとか、辛いとか、そういう問題ではない。アイデンティティの根本の問題だった。
「ごめんね、今まで言えなくて。でも、もう言ってしまった。本当は墓場まで持って行った方がよかったのかもしれない。…君がもし許せなければ、どうか僕を捨ててください」
妻は泣いた。声を出して泣いた。
周りの客はどうしたんだろうという表情で妻を見ている。しかしもちろん、私は恥ずかしさなど感じなかった。妻に、ただただ申し訳ないという気持ちだった。妻は泣きながら、
「本当に間違いない話なのね?」
と私に尋ねた。
「そうなんだ。つい最近、もう一度確認したばかりなんだ」
妻は再びテーブルに肘をつき、両手で顔を覆って泣いた。
そしてひとしきり泣いたあと、案外あっさりと言った。
「今さらそんなこと言ったって、どうしようもないじゃない。私はあなたを愛してしまったのだもの。おなかにはあなたの子がいるんだもの」
「本当か」
「もちろん。私に黙ってたあなたも、あなたのお母さんも、許すしかないじゃない!」
私も妻もポロポロと涙を流した。2人がようやく落ち着いてきた頃、しばらくの沈黙があった。私は妻に言った。
「行こうか……」
「うん」
勘定を済ませ、妻にコートをかけると、私は妻のおなかに触れてみた。
妻が微笑んだ。
粉雪はいつの間にか大きな牡丹雪に変わっていた。
(完)