逃げる市木と、追いつめる市木③
翌朝。僚と市木は遅い時間まで飲んでいたらしく、朝9時になってもまだ起きていない。
蛍は7時にパッと起きて、朝から全力全開だ。
「けーいー。パパたち起こしにいこっか?」
「ぱぱ!ぱぱ!」
「蛍はパパ大好きだもんねー?」
「ん!ん!」
蛍はパパという単語にすぐ反応するため、早く連れて行けとせがむ。
2人は夜遅くまで飲んだ後、1階の和室でそのまま寝てしまったようで、襖の向こう側からは、2人分の寝息が聞こえている。
明日香がそーっと襖を開けると、その隙間から蛍が突進していき、ボフッとそのままダイブした。
「グエッ.......!」
蛍がダイブして急に起こされ、布団をめくって顔を出したのは市木だった。
「ぱぱ!」
「ゔぅっ.......蛍くん......パパ.....だよ.....」
「市木くんっ、大丈夫?」
蛍の身体が鳩尾にクリーンヒットしたらしく、市木は苦しみ悶えている。
その蛍は、目の前にいるのが僚でないとわかると、パパはどこ?と探すようにキョロキョロしている。
「蛍......おはよう」
後ろからにゅっと腕を伸ばし、蛍の小さい体を抱きしめると、それに気づいた蛍が寝ている僚に抱きついて思いっきり甘える。
「わかった、わかった。もう起きるから......」
僚の身体の上で、早く遊んでほしくて暴れる蛍を抱っこしながら、僚は上半身を起こす。
「葉山......蛍くんは毎朝こんなに元気なのか......?」
「そうだな。男の子だし、こんなものだと思っているけど」
「......次は女の子で頼む」
「はぁ?人に言わずに、自分が頑張れよ」
「くくっ......そうだな」
そこでなんだかおかしくなって、2人で笑い合ってしまった。
それから起きてきた僚と市木は、明日香が作ったシジミの味噌汁で体を癒し、2人がかりで蛍と遊んだ後、昼過ぎに市木が「そろそろ帰るね」となり僚と明日香が見送りのため玄関へと向かう。
「あっ、元木さんから電話だ」
僚も一緒に外に出るつもりが、元木からの電話でまた家の中に戻ってしまった。
市木と蛍を抱っこした明日香は、先に出て僚が来るのを待っていた。
「あの子、また来るかな?」
「んーーー。その時は、ちゃんと話して、諦めて帰ってもらうよ」
市木は、昨日は突然のことで鈴乃から逃げてしまったが、腹を括ると決めたので、もう逃げずにはっきりしようと決めた。
明日香と市木が話していると、遊び疲れて眠くなってきた蛍が、ちょっとぐずっている。すると、寝ぼけているのかなんなのか市木に、
「ぱぁぱぁ......」
と言って抱っこをせがむ。市木も、蛍にせがまれて「はいはい」とついつい抱っこしてしまう。
「颯太さん......その子は颯太さんの子なんですか?」
そう声を掛けられて、市木と明日香が振り返ると、そこには昨日と同じように白い日傘を差して、今日は薄いピンクのワンピースを着ている、白井鈴乃が立っていた。
「......白井さん」
「颯太さん、答えてください。その子は颯太さんの子なんですか?」
鈴乃にそう言われた市木は、はぁ......とひとつため息を吐く。
「この子は俺の子じゃないよ」
「でも、さっきパパと言ってました」
「このくらいの子は誰にでもそう言うでしょ」
「それに、そちらにいらっしゃるのは、藤堂明日香さんですよね?颯太さんはずっと彼女に好意を寄せていたんじゃありませんか」
「それがどうしたの?過去の話でしょ。いまは普通に友人として付き合っているし、明日香ちゃんは結婚して旦那さんもいるし、この子もいるんだ。自分の思い込みで失礼なことは言わない方がいい」
市木に冷たく言われた鈴乃は、持っていた日傘を両手でぎゅっと握る。
「悪い、市木。待たせた......」
元木との電話が終わった僚が玄関から出てくると、なぜか人が1人増えていて、しかも空気が悪い。
明日香を見ると、どうしていいかわからないという顔をしている。
「葉山、蛍くん寝ちゃったみたいなんだ」
「あ....ああ....すまん」
市木は抱っこしていた蛍を僚に預けて、再度鈴乃に向き合う。
「白井さん。君は俺の家だけでなく、なんで葉山の家まで来るの?葉山と明日香ちゃんが、どんな仕事をしているのかわかってる?そうでなくても、君がしていることは非常識なことだよ」
市木は冷たく突き放すように鈴乃に言い放つ。
「だけど、わたくしは.......!」
「それに、俺は最初から君と君のご両親に、お見合いの断りを申し入れたはずだよ」
「それは存じております。それでもわたくしは、颯太さんのことをずっと思っているのです!」
「それと、前にも言ったと思うけど、俺にはいま、大切に思っている女性がいるんだ。だから、君とは結婚できない」
市木はとどめを刺すように、きっぱりと言い切った。
「今日のことは、君のご両親にも伝えておくから。あと、ここにも、俺の家にももう来たらダメだよ。わかった?」
まるで小さな子供に言い聞かせるように言われて、鈴乃は恥ずかしくなってしまった。それと同時に、自分が全然相手にされていないことを思い知った。
ポロポロと涙を流す鈴乃を見て、僚も明日香も可哀想だと思ったが、でもやっぱり大切な親友の幸せを考えると、ここで同情するわけにはいかなかった。
「......葉山様、藤堂様。ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません。颯太さん、おっしゃる通り、もう颯太さんの家にも行きません。ですが、鈴乃はずっとあなたをお待ちしています。それだけはお許しください。それでは、失礼いたします......」
鈴乃はそれだけ言うと、踵を返して行ってしまった。
近くに家の車が止まっていたようで、エンジン音が聞こえたと思ったら、すぐに遠くへ離れて行った。
「はぁ......葉山、明日香ちゃん、ごめんな」
「いや、いいって、気にするな」
「そうだよ、市木くん」
いまは、この2人の優しさが嬉しかった。すると今度は、逆の方から声を掛けられた。
「市木、葉山、大丈夫?」
隣の家に住む木南だった。
「悪い、木南。騒がしくして」
木南は部屋着にサンダルと、ラフな格好で3人の元へとやってきた。
「なんか、ただ事ではなさそうだったから」
「ははっ......休みの日に変なもん見せてごめんな」
「まぁ、それはいいんだけどさ。それにしても久しぶりだね、市木」
「久しぶりって言っても、1か月くらいだろ?」
木南は整形外科の専攻医となり、市木とは別の病院へ異動していた。
なので2人が顔を合わせるのも、以前より少なくなっていた。
それから僚、市木、木南の3人で軽く立ち話をして、また時間を見つけて食事に行こうと約束をし、その日は別れた。
それからしばらく経った週末。
市木は美乃梨に約束を取り付け、久しぶりに食事に行くことになった。
この日市木は当直明けだったため、朝帰ってきて16時に目を覚ますと、そこから準備をし、17時前に家を出た。
いつもなら店で待ち合わせをするのだが、今日は美乃梨を少し驚かそうと思い、美乃梨の会社まで内緒で迎えに行くことにした。
(美乃梨さんどんな顔するかな......)
美乃梨の反応が楽しみで、市木は内心ウキウキだった。
美乃梨の会社は、さすが大手企業だけあって、勤務時間などがしっかり管理されている。
特に週末金曜日は『NO残業デー』と会社で決められており、平社員からたとえ社長であっても、定時の18時には全社員一斉に退勤することが義務づけられていた。
なのでこの日も、18時過ぎには確実に美乃梨が会社から退勤することを、市木は知っていた。
オフィスビル正面入り口のガードレールにもたれかかり、市木は美乃梨が出てくるのを待っていた。
18時15分を過ぎた頃、正面入り口から人込みに紛れて、ひと際美人で存在感のある女性が歩いてきた。少なくとも、市木の目にはそう見えていた。
美乃梨を見つけると、市木はすぐに駆け寄っていく。
「美乃梨さんっ」
美乃梨は緩いウェーブのかかったロングヘアを揺らし、市木の方を振り返る。
「え?あれ、市木くん?」
「びっくりした?」
「だって、待ち合わせはお店だったでしょう?」
「うん。でも、美乃梨さんに早く会いたかったから」
市木は美乃梨の隣に立って、ニコッと微笑む。
その笑顔を見て、美乃梨はため息を吐く。
「市木くん、何を企んでいるのかわからないけど、そんな笑顔を向けてもムダよ」
「え~、人聞き悪いなぁ。何も企んでないよ~」
「わたしの会社の女の子を紹介しろ、なんて言わないでよねってこと」
「そんなこと考えてもないよ!」
市木は全力で否定する。そして、続けて聞いてみる。
「なんでそんなこと思ったの?」
「あなたのことは、あの6人からいろいろ聞いているからね」
店に向かって歩きながら美乃梨にそう言われて、市木はギクッとなる。
「別に、何もやましいことはしてないし......」
「そう?確かあなた、明日香のことがずっと好きで、僚と取り合ってたんでしょ?それ以外にも、女遊びが激しいとか......」
「美乃梨さんっ!それは誤解だよ!あ、明日香ちゃんのことはホントだけど、女遊びなんてしてないし......」
自信を持って言えばいいものの、最後の方は声が小さくなってしまう。
「まぁ別に、30の大人なんだから、それなりにいろいろと経験しているわよね。それに加えて、イケメンで医者で背も高いから、さぞモテるでしょう?」
美乃梨のその言葉を聞いて、市木はふと立ち止まる。
それに気づいた美乃梨も一緒に立ち止まり、市木の顔を見上げた。
「......美乃梨さん、俺のことイケメンだと思ってくれてるの?」
「?......まあ、普通に見てあなたはそうなんじゃない?」
そっけない言い方だが、それでも市木は嬉しかった。それはもう、スキップしたくなるくらいに。
それなのに、その思いを打ち砕く声が聞こえてきた。
「よお、美乃梨。新しい男か?」
市木と美乃梨が振り返ると、そこにはグレーのスーツに紺のネクタイの男が立っていた。
「佐伯......」
美乃梨はその男の名前を苦々しく呟く。
「俺と別れて3か月で次の男なんて、お前も二股かけてたんだな?」
美乃梨に佐伯と呼ばれたこの男は、ニヤニヤしながら市木と美乃梨を見ていた。
「......彼はそんなんじゃないわ。あんたなんかと一緒にしないで」
市木は、明らかに美乃梨のことを見下している佐伯に反吐が出そうだった。
「しかもそいつ絶対若いじゃん。チャラチャラしているし。美乃梨お前、ホストにでも貢いでいるのか?」
「あんたも、相変わらず外見でしか人を判断できないみたいね。人の本質も見抜けないくせに、そんなんで出世できると思ってるの?」
「はあ?お前みたいな鋼の女に何がわかるんだよ。お前の方こそ人の心なんか持ってないだろうが!」
「その鋼の女に負けたのは誰よ?笑わせないで。あんたがいま言っていることは、ただの負け犬の遠吠えよ!」
「.....んだとっコラァ!」
佐伯が美乃梨に手を上げた瞬間、その手を市木が止める。
「ガキがっ!引っ込んでろっ!」
「いいんですか?もし、美乃梨さんが怪我をして病院に行くと、医者から絶対に怪我をした理由を聞かれますよ?その理由がケンカなどの傷害であるならば、医者は警察に届ける義務があります。まぁ、そもそも、医者に行く前に警察に行きますけどね。それでもあなたは人を殴りますか?」
市木はあくまでも冷静に、佐伯に言い放つ。それを聞いた佐伯は、ますます逆上する。しかし、騒ぎが大きくなりすぎて、周りには人だかりが出来てきた。
それに気づいた佐伯は、市木に掴まれていた腕を振りほどき、美乃梨に向かってまたも暴言を吐く。
「お前っ!俺に相手にされないからってホストに手を出すなんて、みじめな女だな!別れて清々したよ。お前は一生仕事と結婚でもしてろっ!」
そう言うと佐伯は人込みに向かって「どけっ!」と言い、去って行った。
「美乃梨さん......行こう」
市木は美乃梨の手を取って、近くにいたタクシーに飛び乗った。
美乃梨の目からは、また涙が溢れていた。
市木は自分のマンションの近くでタクシーを降り、すぐそばのコンビニに入る。そこで、おつまみといろいろな種類のお酒を大量に買い込んで、美乃梨を自宅に招き入れた。
「すいません。当直明けで散らかってるけど......」
「......お邪魔します」
あんなことがあったので、とても楽しく食事が出来る雰囲気ではなく、結局予約をキャンセルし、市木は美乃梨を自宅へ連れてきた。
あのまま帰すなど、市木には出来なかったからだ。
市木の自宅マンションは新興住宅地にあるため、ファミリー向けになっていた。間取りは2LDKになっており、1人暮らしには十分すぎるほどの広さだ。
リビングには二人掛けのソファとテーブルが置いてあり、そのテーブルの上に買ってきたおつまみなどを広げる。
「美乃梨さんどうぞ」
市木は美乃梨が好きな銘柄のビールを持たせる。でも、それを受け取っても、美乃梨は開けようとしなかった。
「......美乃梨さん。あの人のことまだ好きなの?」
市木は思い切って聞いてみた。
「そんなわけないじゃないっ!あんなクソ野郎のことなんかどうでもいいわ!」
「じゃあ、なんでそんなに涙を流しているの?」
市木にそう言われて、美乃梨は市木に向かって言った。
「あなた、あんなこと言われて悔しくなかったの⁉チャラチャラしてるとか、ホストだとか!あんな人の足を引っ張って蹴落とすことしか能がないクソ野郎に言われて、わたしは悔しすぎるわよっ!」
市木は、美乃梨が涙を流した原因を聞いて、不謹慎だが嬉しくなった。
「美乃梨さん......ありがとう......」
「はあ⁉市木くん、わたし怒ってるのよ⁉」
「うん。でも、それって俺のために怒ってくれてるんでしょ?」
自分のために涙が出るほど怒ってくれた美乃梨のことが、愛しくて愛しくてたまらなかった。
それに気づかない美乃梨は、
「なんなのよ......もう......」
と言って呆れてしまった。




