「水面に浮かぶ大輪の花の絵」 13 赤い瞳と金魚と
水穂の赤い瞳が微動だにしないまま数分が経ったのち、凪いでいた水面に波紋が広がった。
『えっ?』
声が出そうになった千尋だったが、水穂の集中を見出すまいと慌てて言葉を飲み込んだ。
今まで静寂を保っていた水穂が器を手にしている方の腕を差し出した瞬間、一匹の金魚がプールから飛び出し、引き寄せられるようにして器へと入っていった。
「……これは、獲ったという認識でいいのかしら」
至極冷静に呟いた水穂の言葉に、狐面の店主が首を横に振る。
「まだポイも破れてないし、もう一回挑戦してみたら?」
千慧の提案に、今度は水穂が首を振った。
「私には少し、難しいみたい。この子たちも可哀想だし、やめておくわ」
そう言った水穂が珍しく困り顔をしていたので、千慧も特に何も言わなかった。
「それじゃあ、私が掬った金魚をなっちゃんにあげる!迷惑でなければ、だけど」
「迷惑ではないけれど、千慧はそれでいいの?」
「うん!実は、前に金魚を飼った時に、水槽の掃除とか水の入れ替えとかが大変で。お母さんに『もう金魚掬いはやめてね』って言われてたの。だから、今日私が獲った金魚も返すつもりでいたんだ」
「そうだったの……。そう言うことであれば、私が引き取らせてもらうわね。ありがとう、千慧」
「いいえ!こちらこそ」
話がついたところで、店主が水と金魚が入った袋を手渡してくれた。
「ありがとうございました!」
「ありがとう」
丁寧な手つきで金魚を受け取った千慧と水穂は、そのまま雑踏の中へと戻っていった。
*
「金魚掬い楽しかったー!なっちゃんはどうだった?」
上機嫌で感想を口にした千慧に、水穂が柔らかな視線を向ける。
「そうね。私は上手くできなかったけれど、雰囲気は味わうことができたから楽しかったわ。」
手元の袋を見ながら、水穂が答えた。
細く白い指から垂れ下がった袋の中には、水中で優雅にヒレを舞わせる一匹の赤い金魚の姿があった。
「金魚って可愛いよね。さっきもちょっと話したけど、私がもっと小さい頃に、金魚掬いの屋台で掬ってきた金魚を飼ってたことがあったんだー」
小袋の中の金魚を観察しながら話している千慧の脳裏に、ふと、とある感想が浮かんだ。
「この金魚、なっちゃんの浴衣に描かれている子と似てるよね」
「そうかしら」
自身が身に纏っている浴衣の袖を広げながら、水穂が答える。
「うん、何となくだけど似てる気がした。__なんて、きっとただの気のせいだけどね。絵の金魚と生きてる金魚じゃ、全く別の存在だし」
千慧の言葉を聞いた水穂が、妖しげに笑う。
「案外、的を得ているかも知れないわよ」
「え?」
「いいえ、何でもないわ。さあ、そろそろ花火も始まるでしょうし、一緒に見る場所を探しに行きましょう」
「そうだね」
言葉を交わしながら、屋台列の終わりへと向かって歩いていたので、出口は目と鼻の先にあった。
二人並んで最後の屋台の前を通り過ぎようとした時、すっと横から千慧に向かって伸びてくるものがあった。
なんだろう、と思いながら千慧が横を向くと、そこにはガラス瓶に入ったラムネがあった。
「もしかして、くれるんですか?」
千慧が猫のお面を被った差し出し主に尋ねると、差し出し主はコクリと頷いた。
「やったー!ありがとうございます!」
お礼を言い、千慧が受け取ろうと伸ばした手を、水穂が掴んだ。
水穂は千慧の手をぎゅっと握ったまま、千慧の前に立つ。
「見ない顔だけれど、何処の方かしら。この子に渡そうとしたもの、まさか指定外のものではないでしょうね。もしそうなら____」
そこで言葉を切り目を細めた水穂の視線は、とても冷たいものだった。
猫のお面の主は何も言わず、慌てたように暗がりの中へと走り去っていった。
その後ろ姿を冷ややかに見送った水穂が、ふうっと息を吐き、千慧を振り返る。
「千慧、悪いことは言わないから、見ず知らずの存在から差し出されたモノ__特に、食物を受け取るのはおやめなさい。何が入っているかわかったものではないわ」
普段よりも少し強い語気に、千慧は水穂が本気で自分の身を案じてくれていることがわかった。
「ごめんなさい。忠告ありがとう、なっちゃん。これからは受け取らないようにするね」
千慧が素直に頭を下げると、水穂はふっと柔らかく笑った。
「わかってくれればいいのよ。さあ、階段の方へ戻って花火を見ましょう。私は少し用があるから、先に戻っていてちょうだい」
「私も一緒にこうか?」
「大丈夫よ。すぐに済むから」
「わかった。じゃあ、先に戻ってしっかり場所確保してるね!」
「ええ、お願いするわ」
そう言って、水穂はキラキラと輝く雑踏に向かっていった。