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シルキー・ヴァニーユ・マカロン伯爵 2

「退かんか、邪魔だ!」

 アナナス、今度は怒号を以って前に出た軍隊長に向き合います。上からの攻撃は手甲で受け、重い刃を寝かせて突き出しました。斬るというより押し付けられた力に、ウォール軍隊長はバランスを崩し、馬の向こう側に消えました。

 すかさずミエールの方を振り向こうとしたアナナスの背に、どっかりと圧し掛かる重みがあります。ガラガラの唸り声と、倒れたアナナスの目の前に落ちてきた猫の足。乗り物そのものが攻撃を仕掛けてくるのです! 包丁ほどのツメと牙が、アナナスの鎧をかき毟ります。

『ええ……ええい猫め。煩い、汚らわしい、卑しい畜生が。この私に触れるでないわ』

 逆上したアナナスは不自由な身動きの中から、近寄る巨大な猫の顔に手を伸ばしました。

 その手が触れる前に、驚いた様子で雪猫は飛び退ります。火傷でもしたかのように、ベロで舐めた前足で二回ほど顔を擦り、クシャミをしました。

 一体どこから付いたのでしょう、ヒゲについていたらしい氷の欠片がふたつ、みっつ、地面に落ちて壊れます。

 ゆらりと立ち上がるアナナスが、恨みがましい声で情念を吐き出します。おんおんと響く声が、さきほどからどうも、女性のもののように聞こえるのです。

『獣臭い妖魔風情が! 無礼者! 目障りだ、消えうせろ!』

 斧を振り上げ、縦にまっすぐ落として地面を叩きました。ごろた石も含んでいただろう地面に、斧は広刃の真ん中辺りまで易々と埋まります。吹き上がる衝撃に、一緒に叩き割られた空気が動き、波のように襲い掛かって、大猫の顔面を真正面から打ちすえました。

「ギャン!!」

 背を丸めて飛び上がった猫は、ポン! 耐え切れなくなった風船のように弾けました!

 弾けた後に中空に放り出されたのは五匹の真っ白な猫です。小さい、といっても家猫レベルではかなり大きめの五匹に分離してポタポタと降り、それぞれ地面に足が付くと一目散に逃げていきました。

 一緒に吹き飛ばされたミエールは猫のように受身は取れません。ドサリ、固い地面に投げ出されます。

 背中からの衝撃に、さすがに目が眩みました。頭を振って視界をはっきりさせると、まず見えたのはすぐそこに迫る、斧を構えたアナナスです。ミエールは息を飲み、起き上がろうと腕を泳がせました。

「ミエール!」

 その手を掴み、引っ張り起こしてくれた者があります。身を翻した直後に間一髪、斧は今まで寝ていた場所をざっくりと耕しました。

 斧はまだ追ってきます。追撃を避けて手を引き合い、お互いを数度振り回した後に助けてくれた相手の顔をようやく見てみれば、これは驚いた。

「アラザン王子……まあ、今日は悪くないダンスを踊られるのね」

「ねえミエール、私も連れて逃げておくれ、私は騙されたんだ、わかるだろ」

「私は脅されたけど」

「それはひどい」

「あなたによ、あーなーたーに」

「あの……私は子供の頃から不器用で好きな子はイジメちゃうクセが……ねえ頼むよ怖いんだよあいつら」

「伏せて!」

 伏せてと言いながら膝の裏へ的確な蹴りを入れて、邪魔なアラザン王子を倒します。

 障害物がなくなったお陰で金鎧が大きく視界に入り、ミエールは剣を横に薙ぎました。

 相手も攻撃をよく見ています。踏み込むタイミングをずらし、避けた動作から反撃へと移行してくる強かさ。ミエールは次に来る斬撃に備え集中しました。充分に引きつけて、振りかぶった斧の下を潜り、それから。

 ……ひっくり返った目の前で、あっという間に触れれば切れるような激しい戦いが始まってしまいました。せいぜい気配を消しながら、アラザン王子はぐりぐりと背中で地面を這いずり、少し離れた場所で体を転がして、カメのように丸くなりました。

 伏せてって言われたもんな。言うこと聞いておいたほうがいいな。まだかな。もういいのかな。

 鋭い剣戟の聞こえる中には、もう手を貸したくありません。貸せる力もありません。すっかりビビリきっていますもんね。

 今どうなっているんだろう。ビクビク顔を上げかけていたアラザン王子は、背中に強い衝撃を受けて、今度こそ地面につぶれました。

 何事かと必死で顔だけ上げると、空に浮かぶ女王の鎧が見えました。髪を豪奢なマントのように翻し、大きく跳ねた、躍動感を感じる肢体が、やけに脳裏に焼き付けられます。

 どうやらこの美しい瞬間を作るため、自分の背中は踏み台にされたらしい。きっと自分の背中には、クッキリと足跡が付いていることでしょう。

 でも、威張りんぼのアラザン王子にしては、不思議と怒りも湧きませんでした。

 芸術に犠牲はつきものだと何故か冷静に思っています。恐ろしげな水牛の角を持つ魔物の巨躯に物怖じせずに、飛びかかっていくミエールを見ながら。

 それは、アラザン王子には出来なかった事でした。

 だから彼女は勇者なのです。意義ある剣を振るう者がそう呼ばれるのならば、確かに彼女は勇者なのです。

 シュクルの細く白い刃が鎧の隙間を見事に縫います。深く刺さったそこは左胸、これは心臓まで届いたに違いありません。

 アナナスはビクリと体を震わせました。お、やったか? と、アラザン王子はちょっと立ち上がりかけました、が。

「っきゃあ!!」

 丸太のような太い腕がミエールを振り払います。危うく身を翻し、半ば転がるように飛んできたミエールを見て、アラザン王子はまた急いでガバリと伏せました。もう恥も外聞もありゃしませんね。

「なっ、何で効いてないの」

 ミエールの声に焦りが入ります。間違いなく、手応えはあったはずなのに。

 がしゃん、がしゃん。大鎧が動きます。よろめく様子もなくこちらに向かう様に、ミエールは戸惑いを押し隠して立ち上がり、でも気持ちのせいで二歩、三歩、下がります。どうすれば。

(ああ……ボクも似たようなのとやりあった事があるな)

 ぐるぐると考える頭に、ふとよみがえる声がありました。何でしたっけ、これ。若い男の声です。

(確かに手強かった。外側が堅い、カニみたいな奴だった。中まで通せば問題ない。そう思ったけれど、それだけじゃ倒れなかった)

 あっ、とミエールは思いました。ヴァニラ……ヴァニーユ王子の声ではなかったでしょうか。

 そうそう、あれは舞踏会の日、こともあろうに舞踏ではなく武道の話をしたのでした。

 それで、それから何と言いましたっけ、あの時確か……

(逆だったんだ。そいつは体が)

「逆!?」

 もう考えている暇はありません、見上げるほど近くに寄ったアナナスは斧を振り上げています。

 白刃の通り過ぎる軌道ギリギリのところで踏ん張り、ミエールはもう一度、鎧の懐に飛び込みました。シュクルの剣先が光ります。流星のように飛んでいった切っ先が貫いたのは……今度は、鎧の右胸でした。

「ぐっ」

 びくりと跳ねたのを最後に、アナナスの動きがはっきりと止まりました。

「心臓が右にある人の話は聞いた事があったけど。あなたもだったなんてね」

 シュクルを残して、ミエールは飛び退ります。腕を天に掲げ、それを短い詠唱と共に振り下ろしました。

「ライ!」

 キーワードで発動した魔力は、空から一筋の稲光を呼びました。真っ直ぐ落ちるは術者の示す先、狙い違わず、避雷針のような真っ白い剣にです!

 シュクルに落ちた雷は小さいながらも割れるような音を立て、金鎧を駆け巡り、その中身を焼きました。

 断末魔の叫びを上げて、アナナスは倒れます。

 どう、と重い地響き、そして舞い上がる埃。目を閉じてそれらをやり過ごしていたアラザン王子は、降ってくる砂が収まるのを待って、そうっと立ち上がりました。

 勇者は倒れた獲物から突き出た剣を抜いています。美しい彼女の恐ろしい背中に、はじめて素直に謝罪の言葉をかけようという気になりました。まあ、ワガママ坊やの王子にしては、珍しい事ですね。

 敵わない相手だったと認める気持ちが整ったようです。この国の王になるには、少しばかり荷も重そうですし。ケンカすればきっと負けますもんね。ああ、やだやだ。もうこんな国、これっぽっちも欲しいとは思えません。

「助かった、な……」

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