スカートの中のシルキー・ヴァニーユ 2
昔むかし……とは言えませんね、ほんの二年前の事です。
いったいどこから現れたのか、この不思議な黒猫は二年前から女王の前に姿を見せ始めました。二年前ということは、女王は十五歳ですね。
あれは冬。ペチカの前に暖められたテーブルで、ミエールは泣いていました。
「ああ、さむぃさむぃ」
不意に聞こえた言葉に、ミエールは驚いて顔を上げました。部屋には自分しかいないと思っていたからです。
辺りを見回しても、やっぱり誰もいません。幻聴でも聞こえたのかしら。もともと悲しかった心に情けなさが加わって、もう一度べそべそと泣き始めてみたら。
「はぁ……温かい。こう寒いと温みはご馳走だにゃー。でもあまり近いとマユゲがカールになるから、気をつけなきゃいけない」
幻聴じゃありません。はっきり聞こえました。
ミエールは立って、声を探してペチカの前まで行ってみました。すると、テーブルの影で見えなかったところに黒猫が一匹、まるで百年前からそこが自分の定位置ですと言わんばかりに、デーンと寝そべって腹を温めておりました。どこから入ってきたのやら。
人間の姿を見ても全く動じずに「やぁこんにちは」と挨拶などしてきました。その目は、瞳としては珍しい真っ赤でした。
「あなたは誰?」
ミエールは思わず聞きました。猫が喋っている不思議も、自分が語りかけている様子も、その時には別段、おかしいとは思いませんでした。
いろんな生き物がいるこの世界でも、一応猫は喋らない事になっています。
それでも、まるでこの部屋が、今だけおとぎの世界になってしまったような、奇妙な錯覚に陥ってしまったのです。猫はシンプルに答えました。
「猫だ」
トタトタとテーブルに近寄り、断りもなしにヒョイと椅子に乗りました。
「火もいいが、ここに本物のご馳走があるな……おぉ、ビキチット。食べていい?」
伸び上がってテーブルに手をつき、皿の中身を見て嬉しそうにしています。
「食べないの? ねぇ食べていい?」
「いいわよ」
図々しいお願いでしたがそこに思い至らないほど、突っ込みどころは多いシーンですから。
手付かずのおやつを薦めながら、まずは小さな疑問から解消してみます。
「えと、ビキチット? って?」
「こういうお菓子のことだ」
猫は皿の上のチョコチップクッキーを取って、掲げてみせました。
「ビキチット……もしかしてビスケット? それはビスケットではなくクッキーよ」
「そう? まあ美味しければなんでもいい。平ためで焼いてるお菓子は全部ビキチットでもいい。大好き」
流暢にしゃべるだけでも驚きでしたが……何と猫は危なげない手つきでティータイムを始めています。
ポットからカップへ紅茶を注ぎ、砂糖とミルクを足してスプーンでしっかり混ぜ、一口飲んでからおもむろにチョコチップクッキーを口へ……
「あっ! ダメよ、猫はチョコレートは食べちゃいけないって聞いたことがあるわ」
「普通ならそうでしょうよ。ボクは特別な猫なのだー。チョコレート大好き。タマネギも大丈夫。セロリは嫌い、大嫌い。あの匂いがダメ」
それは……ただの偏食ですね? チョコチップも美味そうに噛み砕きながら、子供みたいなことを言ってます。
「うん、美味しい。だけど、ボクが探しているビキチットとは違うにゃー」
「何かお探しのビキ……ビスケットがあるの?」
「ある。なかなか見つからない。子供の頃に食べた、とても美味しいやつなのだ」
もぐもぐ、ごくごく。
大きいクッキーをペロリと平らげ、二枚目を食べる前に猫は少し手を休めました。
「こんなに美味しいものを前にして放置なんて。だいたい、何で泣いてたのさ」
聞かれて自分の悲しみを思い出したミエールは、おやつタイムの猫に向かい合って座り、あぁ、と深く溜息をつきました。
「私、この国の女王になるの」
「めでたい事じゃん」
「そうなんだけど。こんなに早くなるとは思わなかった。あのね。父上が亡くなったの。まだお若かったのに、母上が亡くなってからめっきりお力を落とされて……母上と同じ流行病で急に。冬を越せませんでしたねって、おじさまもおばさまも言うの……私」
はあ、ともう一度溜息をついて
「もう女王よ。今日から。葬儀が終わったから……でもそんな、終わったからって急に何でもやれるわけないわ。そんな気分じゃない。この国に王様が必要とされているの、わかるけど……私、まだ悲しいの。それに不安でたまらない。どうしよう、どうしていいか判らない、どうなるのかしら。そればっかり」
「なるようになるさ」
なんですかね。まあそうなんですけれど。美味しそうにクッキーをぽしぽし音を立てて食べる猫から言われるセリフとして、とっても無責任発言に感じます。ミエールもちょっとムッとします。
「簡単に言うけれど。あなたは今まで生きてきて、どうしよう、って思った事はない?」
野良猫の人生なんて苦労がいっぱいあるでしょうからね。でも、猫は言いました。
「どうしようかな。くらいならあるね。でもお悩みってほどじゃない。今日のゴハンはお肉にしようか。お魚にしようか。そんな程度の『どうしようかな』。ネコの人生は生まれた時から自己責任だもの。自分でやるしかないからね」
「なっちゃったのよ、私。流れで女王になっちゃったの」
「一緒だよ。流れでも、否定せずに受け入れたなら自分の選択だ。やるしかないね」
この肝の太さに、ミエールはちょっと感心したようです。
「……悩まないの?」
「深刻な顔して悩むネコなんて、見たことある?」
そういえばそうですね。人相の悪い猫なら時折見ますけれど……
「困ったことが起こったら、今、困ったなって思う。でもそれを未来の分まで嘆いたりしないょ。幸せな時と比べて、今後を嘆く人間だけが不幸になれるんだよ」
絶句の時間をたっぷり過ぎて、ようやくミエールは「確かにそうね」、とだけ言えました。
そんな事言ってくれる人は一人もいませんでした。当然猫も、一匹もいませんでした。
お悔やみの言葉かあるいは激励の言葉、今後の期待、そういったものはたっぷり貰いましたが、個人の悩みをざっくり斬ってくれる、適度に遠い立ち位置で、ある意味度胸のある事をやってくれる者はおりませんでした。要は、皆優しかったのです。幸せな事ですけれど。
「あなた、健気なコね」
「ネコなら標準だょ」
「あなたのご両親は?」
「父親は死んだよ、ボクが子供の頃に。母親は、さぁ、どこにいるやら。なにせネコだしね。元気なんじゃないのかな、どこかにはいるだろうけど探してないよ」
その言葉に同調して、ミエールは深く頷きました。
「そうね。探さない方が相手は幸せかもしれないものね」
「まだ悲しぃ?」
少し考えて、ううん、と首を横に振ります。
全く悲しみがとれたわけではありません。が、未来の悩みを一旦捨て置くと、まずは目の前にある問題を思いだしたのです。
「困ってはいるけれど。これから皆集まってね、私、即位の挨拶をしなきゃならないの。でも覚えておくようにって言われた挨拶文が、ちっとも頭に入ってこないの。さしあたって、今まさに困ってるところは、そこよ」
すんなり困ってるところも吐露しました。そこも賢い猫に相談してみる気になったのです。
ミエールは、既に強烈な目の色以外の見た目は何の変哲もないこの黒猫を、一個人として認識していました。
「思ったこと思ったように言えばいいんじゃない?」
「そんな適当な。最初なのよ、せめて立派な女王をやりたいわ」
「立派の定義がボクにはわかりにくいけど。まあ、それなら、ビキチットのお礼に、ボクが助けてやれなくもない」
泣いてばかりいて気も塞いでるなら、暗記なんかできそうにないですからね。
猫が提案したのは、アンチョコを隠れてこっそり読み上げる事でした。この猫、読み書きも出来るみたいです。本当に特別な猫なのですね!
「でも、どこから? どうやって?」
「お召し物はそのまま? だったらボク一匹くらい余裕で隠れるでしょ。スカートの中からの声を聞いてよ」
成程!
喜んだミエールは猫に挨拶文を渡しました。その時、女官がやってきて女王を呼びました。
ミエールが席を外した隙に、猫は挨拶文を広げてみます。
「えー、なになに。ふむふむ。……この度、父は神のご意思により天に召され……ふむふむ……私ミエール・ビスクがこの大任を……若輩者ですがどうか……皆様の……お力添えを……」
ふむふむ、ふんふん。などと言いながら、猫はそこに見つけたインク壺に自分の肉球を浸し、ペタリ、ペタリ、と紙に判を押していきます。大丈夫でしょうか。
果たして、時間になった広間には、神妙な顔の家臣一同、ずらっと勢揃いして待っていました。
そこに同じく緊張の面持ちで、新女王がしずしずと登場します。
王座の前に立ち、辺りを見回して、女王は背すじを伸ばしました。いよいよです。まずは挨拶から。
『オッス、おらミエール。女王だ、よろしくな!』
スカートからの声を聞いたミエールは吸っていた息を吐き出す事も忘れ、目を丸くして硬直しました。あまりに長い沈黙に、お言葉を待っている一同が何事だろう訝しげな顔をしている……気がします。
『挨拶だょ。ほら』
「ちょっと待って……何ですって?」
できるだけ顔は前を向いたまま(唇もあまり動かさないまま)小声で聞き返すと、頼もしいながらも明確ではない答えが帰ってきました。
『若い女王様なんだよ。元気に挨拶するだけでもう周りは八割がた安心できるよ』
本当かしら。
そう言われても、せっかく覚えていた出だしもふっ飛ばし、かえって真っ白になった頭をフル稼働させて、
「……ミエールです、よろしく……」
と、何とか頼りない紹介ができたばかりでした。
『立派な女王になりますので、その分、皆も頑張ってね』
「……」
『言わないの? なりたいんでしょ、立派な女王。名乗った後はやりたいことを言わなきゃ。大事なのは形式じゃない、伝えたいことを伝えられるかだょ』
そう言われると納得できる気もします……スピーチの極意。
『若輩者なんて解りきってることだし、それを盛り立てていくのは臣下の務めだ。当然なんで頑張れ。ただし自分も頑張る。そういう意思表示。無駄にへりくだる事ないでしょ』
「王の地位に座するかぎり、私はその義務に力を尽くします」
何となく受け入れられたスピーチの極意を反芻しつつ、話を続けてみます。
「この国を守り、ひいては世界を守ること……改めて口に出してみると、何て大仕事なんでしょう。硬い文面に惑わされて、私も気がつかないままになるところだった。私一人じゃ無理な話です。だからどうか一同、私に力を貸して欲しい」
家臣の頷く頭もちらほら見えます。言葉はしっかり伝わっているようです。
『それと、盛り立てられる側がどの方向に行きたいのか、ハッキリさせておくといいょ』
「この国の為、また世界の平和の為、より一層、国力の向上に励みたい」
『具体的にはお菓子作り』
「……具体的には各種産業、特に兵力の鍛錬を」
そこは訂正されました。猫は密かに、スカートの中で頬を膨らませます。
『それからあとは、えーとキミの望みは何? 即位最初のスピーチなら希望を述べてね』
「先人たちの守ってきた平和を、私も繋いでいきたい。それは、私の最もたる願いです」
言葉は大分すべらかに出るようになりました。
少しだけ質問の形で誘導してやれば、後はそれに答えていく形で、女王は今の思いを綺麗に吐き出し、気が付けば結構長くなったスピーチを締める事ができました。立ち上がりは不安でしたが、最後は大成功です。
つつがなく集会は終わりました。そして、宴会の時間になっても猫はまだスカートの中でした。
宴会の席では皆から祝福され、嬉しい女王はご馳走の欠片をいくつも転がしてやりました。
ご馳走はスカートから生えた黒い手にちょいちょいと掻き入れられて、綺麗になくなりました。
夜、ようやく寝室でドレスを脱いで、スカートの中から猫を出すと、猫も眠そうにアクビをしていました。おなかいっぱいだと眠くなりますもんね。
「……今日はここで寝る?」
「いい? ありがと」
猫は躊躇う素振りもなく女王のベッドに潜り込み、黒い手で布団をたしたし叩きながら「ボクの隣が空いてますよ」と言いました。いや、いささかフリーダムすぎますね。人のベッドで、ナンパまでお手のものとは。
ミエールは苦笑し、自身もベッドに入る前にまず、聞いておくべきものを聞きました。
「ねえ不思議な猫さん。今日はすごく助かったわ、始めはどうなるかと思ったけれど。よかったらまた遊びに来てくれる?」
「勿論。女王とボクとの仲じゃない。おやつよろしくね」
「わかった。ねえ、それと……あなたにお名前はあるの? 教えてくれない?」
「通りすがりの猫に名前などないょ。あっちではタマちゃん、こっちではクロちゃん。真っ当なノラなら名前はいっぱいあるのです。でも、ボクはキミが好きだから、毎日だって来たいと思う。何か名前をつけてょ。それでボクは、ここを巡回ルートにしよう」
名前を。
ミエールはじっと不思議な猫を見て、イメージを探りました。赤い目の黒い猫に、相応しい名前を。ふっと浮かんだのは
「ヴァニーユ」
言った瞬間、猫は目がまんまるになりました。耳もピンと伸びて、驚いたような顔をしています。
「どうしてその名前?」
「うーん? なんとなく……そんな気がした。撫で心地のいい毛並みだから、シルキー・ヴァニーユ。どう?」
ヴァニーユの名を貰った黒猫は頷きました。
「わかった。それで。ボクはヴァニーユ。キミの前では、ずっとヴァニーユだよ」
甘いもの好きで、もの言う不思議猫。
こうして、女王と黒猫はすぐ仲良しになりました。今でも一番の友達同士です。お城のどこにでも入っていいという特権を首にかけたメダルで表し、神出鬼没、いつのまにか側にいます。
友達はいつしか相談役も兼ねました。女王様が十七歳になった今でも、猫は頭を撫でてもらいながら、事件の問題点を話し合っているのです……