台所のシルキー・ヴァニーユ 6
船町ラスクの繁華街を歩く頃には昼を回っていました。
どこの食事処も忙しそうに、昼時間のお客を捌いています。
区画の奥まったところは比較的静か。ここは喫茶店だから、なお静かな方です。コーヒーが飲みたくなるのは食後ですからね。
今日のランチは白身魚のフライか。ヴァニーユは一瞬、足を止めて匂いをクンクン嗅ぎました。が、喫茶店の前を逸れ、横道をのしのしと通ります。
すぐ裏通りに出ました。狭い通路に溝と、ゴミバケツと、隣の建物の壁。
その壁の隙間から、猫がぬるりと出てきました。ほどよく丸い灰色さん、白靴下。ヴァニーユをギロリと睨みましたが、同じようにこちらも目を向けると、少し下がってお座りしました。悔しそうな耳が、ピリピリと動きます。
その先に行こうとしたら、今度は二匹出てきました。どちらも人相、いや猫相の悪い牛ぶちさんとサビさんです。道を塞ぐように立ちはだかります。唸り声さえあげていましたが、構わず通ろうとするヴァニーユを止めることは出来ません。近寄るヴァニーユの纏うオーラに、一匹は尻尾を丸め、もう一匹は逃げ出しました。
無敵のヴァニーユを止めたのは、足でした。歩くヴァニーユの前に、建物の勝手口と思しきドアがガチャリと開いて、カツリ! ヒールの音も高く人間の女の伸びやかな足が、狭い行き道に降ろされました。
「どちら様かしら」
人間の言葉で話しかけられます。ヴァニーユは形の良い足を目で辿り、見上げていきました。
キャッツアイ、赤毛、健康的な肌。そしてオッケー、グラマラス。
思い出に残る母、そっくりそのままの姿です。思わず懐かしさがこみ上げます。
でも、違う。声が記憶とはちょっと違う。こっちの方がもっと若々しい感じです。
「ボクはヴァニーユ。魔王だ。ボクのママに会いに来た」
気負いなく、素直にヴァニーユは答えました。
母に似た女は驚いたように目を丸くし、続けて猫の仕草で細めました。
「御用は?」
「お話がしたい」
「ママはここを気に入ってる。どこにも行く気はないわ」
「お話がしたい、それ以外の用事はないぞ」
ようやく女は表情を緩めました。
「……ついてきて」
背中を向け、二歩も進むと倒れるように手を下に付きます。人の手指が地面に付いた瞬間にはもう、全身を毛が覆い、猫の姿に変化しました。三毛猫です。長毛種ではありませんでしたが。
走り去る二匹の後ろで店の勝手口のドアが開き、「おーいキッカちゃーん。あれ……いない」という人間の声が聞こえましたが、どちらも足を止めません。
行き過ぎる細道は、ほどなく急に広くなりました。どうやら、何棟分かの家や倉庫に囲まれて、中庭のような空間が出来上がっているようです。建物が高くはないので、青天井も広く感じます。
狭い隙間があちこちに開いていますが、それも通路とも言い難いところ、人間はなかなか通ってはこないでしょう。それをいいことに、物置きだかゴミ捨て場だか、いつ置いたか分からない粗大ゴミが不法投棄されているのです。
ということは、猫にとっては快適空間ですね。だって、ほら。
あちこちから視線を感じます。広場に入ってきた二匹に注目しています。視線と同じ数だけの瞳が瞬いて、物陰からぞろぞろと這い出てきました。全員、猫です。
大きいの、小さいの。尻尾の長いの、短いの。赤いの青いの、黒いの白いの、あらゆる柄のあらゆる顔。まだ物陰に隠れて、半分だけ顔を出してるのもいます。あちこち、びっしり。ヴァニーユと、案内役の三毛を取り囲んでいます。
「ママ」
三毛が声を上げました。と、正面に積まれた木材の上に乗せられた、色褪せてあちこち綿の出たソファから、もそもそと何かが動く音がしました。
ソファに嵌っているのは、どうもソファと一緒に打ち捨てられたファーの座布団などではなかったようです。
動いて回転することで見えてきた、三色の毛色。耳が立ち顔が浮かび、ようやく形がつかめるようになりました。とっても巨大な猫が寝そべっている様を。
「ママ」
今度はヴァニーユが呟きます。
長毛種の三毛猫は、そうそういるものではありません。ましてや、野良ではね。
それにしてもこの貫禄、ただものではありません。大ぶりのクッションを三つも寄せて、上に三毛ムートンを被せたらこのくらいになるでしょうか。人が両腕で抱えても余るでしょう。流れ出る肉を持つ小山のような三毛猫は、ソファの上から細い目でヴァニーユを見下ろし、ゆったりとした口調で言いました。
「百人は子も産んだし、もう曾孫も玄孫もたんといるけど。また、忘れられない子が来たねェ。ヴァニーユなの?」
そう、ヴァニーユの母。ジェリーです。かつて魅惑のボディで魔界に君臨した女の、今の姿であります……時は無常です。
「そうだよ、ママ。久しぶり……」
でも、ヴァニーユには見た目は関係ありません。言葉よりも気持ちが募って、止めていた足がつい前に出ました。
「ママ!」
ソファに飛び乗って、巨大猫の腹によじ登って、首のあたりに鼻をすりつけ、思いっきり抱きついて押し揉みました。ダルダルに折りたたまれた肉のひだに腕がズボズボと嵌まりますが構いません、うれしさ全開の懐きです。
この熱烈な張り手攻撃にも、ママは動じません。少しばかり顎を上げて、ますます目を細めるだけです。
「本当に久しぶりだねぇヴァニーユ。元気にやってるの?」
「うん、元気だよ。ちゃんと魔王してる」
「そうかい。私もなんとかやってるわ。ここの生活は安定してるし、子供たちが私の面倒みてくれる。ここにいる子らはね、みんなあんたの兄弟さ、ヴァニーユ。それとその子孫たち。化け猫の能力を持ってる者は少ないけどね。キッカと、その他数匹くらいだ」
ヴァニーユを案内してくれた三毛が、ちょっと誇らしそうに胸を張りました。
確かに、さっきの化けっぷりはなかなか堂々としたものでした。若い頃のママにそっくりなところも、能力を濃く引き継いだ証のようなものかもしれません。
「だからまあ、私は大丈夫。あんたは今日はどうしたの? 長年黙っていたのに、にわかに会いに来るなんて。よっぽどな事なんでしょ」
「長年だねえ。何年だろう。あれは、ボクが十歳の時だった」
「十歳だったら猫なら還暦近いわ、もう大丈夫だと思ったの。でも考えてみたら、あんたハーフだったわね」
母上、猫らしいアバウトさで大物っぷりを見せつけます。そうですね、ジェリーと別れた時はまだ、ヴァニーユはほんの子供でした。
ヴァニーユもこれを「まあネコだし」で片付けてきたのですから、化け猫の血はなかなか濃いようです。
「まあいいじゃない。実際、魔王の座は防衛できているわけだし。後も追いかけて来なかったから、魔王でいることが出来たんだろうとは思っていたわ」
「うん。おかげさまでってやつで、ボクもお変りなくな毎日が送れてるよ。ああ、いや……今日は奥方に会ったりしたかな」
「そうかい。元気にしてるのか、あの女」
「今日は、たまたま会っただけ……ママが追い出されて、ボクが魔王になったら、地獄に帰っていったんだよ。今は城にはいない」
「追い出されたんじゃあないわ。出て行ったのさ、自主的にね」
そうでした。そこは、当時出て行く際に、ジェリー本人の口からも聞いた事でした。
それでも、ちょっとだけヴァニーユは顎を引きます。思い出に薄っすらと残るのは、妾を追い出そうと怒鳴り散らすアマンダの剣幕です。
「まだ怒ってる?」
「怒ってない。私はあの女に恨みなんか無い。真っ当な猫なら向けられた悪意なんか気にしないものよ。私は私なりに旦那を愛してた。あの女も同じ男を愛してた。あの女はヒューマンタイプだったから、私と同じようには考えなかった。つまり私が憎かった。それだけでしょ」
それだけ、と言ってのける逞しさは、猫だからというより、ジェリーの持つ性格も大いに作用しているようです。
「猫の寿命はわりと短いからねぇ、猫又にまでなった私が言うのもなんだけど。寿命が短い分、細かいことに関わってるヒマなんかないんだ。クールでドライに行かなきゃ。ねぇヴァニーユ。解るでしょ」
「昨日は昨日、今日は今日。明日なんて遠い未来は知らない。昨日なんて、そんな昔の事は忘れた」
そういう事でしょう? とヴァニーユは思慮深げな丸い目をジェリーに向けました。ヌガーにも言ったセリフでしたが、元々は母の教えです。バッチリ遺伝してます。
「わかるよ」
「あんなに愛されたのは初めてだったわ。だから私も愛で応えた。あんなに愛した男はいなかった……だから尽くしたの。猫も燃えるような恋をするのさ……短い命で一生懸命にね。ただ、理解されないだけよ……」
魔王がいなくなったからって、悲しんでみせる間もなくすんなり出て行ったジェリーの事を、冷たいと言って非難する者も当然おりました。ヴァニーユもその三角耳で直接、何度も聞かされた事があります。
「旦那は居なくなったのに、ズルズルとあそこに居座って、あの女の敵意を受けなきゃならないなんて、ちっとも面白くないじゃない。そんな決まりなんてないわ。私は私の人生を大事にしたいの。だから出て行った。でもそれと、旦那の事を愛してなかったっていうのは、全然繋がらない事だわ」
人間は、効率の悪い生き方が好きなのね、とジェリーは笑います。
うん、と相槌を打ったヴァニーユは、どこかホッとしたようでした。
「それが、聞きたかったの」
ジェリーはじっとヴァニーユを見つめ、優しく二、三度、額を舐めてやってから聞きました。
「好きな人でも出来た?」
「……多分?」
「燃えてる?」
「それを知りたい」
「恋、か」
ジェリーは遠い目をしました。
「クグロフ……いい男だったわ」
バーでウイスキーのグラスを揺らしながら言っても差し支えないくらいの、ハスキーなしんみり加減です。
「愛してたわ。本当よ。子供は星の数だけど、あの人との子はあんただけ。だから、あんたの事も愛してるわよヴァニーユ。あんたもいい男になって、好きな人ととろけるような恋愛しなさい」
「とろける」
「そう、とろける。クグロフはね、実は体があまり強い方ではなかったのに仕事は忙しくてね。長生きした方だと言いにくいのは、そのへんも原因なんだろうけど。あの人は私によく甘えてきたわ。お疲れのところ帰ってきてね。私は台所猫だったから、料理は得意なの。美味しいゴハンを用意して、それが終わったらくっついて寝て。どっちもスイートで素敵なことよ」
「とろける?」
「とろけるわ。魔王なんて厳しい肩書のあの人だって、私の横じゃあ正体もなく眠りこけて、よく溶けてたわ。可愛いもんよ」
「溶けるはわかる。好きな人にくっついてクンクンもみもみすると、すーっと力が抜けて、液体になるの」
「それは、恋よ」
「恋!」
ヴァニーユのヒゲが、ちょっと立ちました。
「恋!」
「ええ、そう。猫はすぐ液体化するんだから。好きな人の前だとなおさらよ。触れてるところからゆったりしていくの。それは好きだからよ。幸せだからよ」
「人は恋をすると夜も眠れなくなるんだって。ドキドキしたりジリジリしたりするんだって」
「寝ない猫は猫じゃないわ。猫の恋なら眠くなるのよ」
「こう……おっぱいを揉んで……」
必死に柔らかさを表現しようと肉球をうごめかしながら
「いい匂いで……気持よくて、撫でてもらってふわっとなるのはそれは」
「恋よ」
「恋!」
教えてもらった答えを溜息のように吐き出します。
ヴァニーユの輝く顔を見て、ジェリーは笑いました。
「納得した?」
「した! ありがとママ」
おじゃましていたソファからひょいと飛び降り、ヴァニーユは嬉しそうに一声鳴きました。
「またおいで、ヴァニーユ」
「そうする。じゃあ、元気でねママ」
通りに続く場所には来た時に連れてきてくれた三毛……確かキッカと呼ばれてましたっけ。キッカが待っていて、同じように、やってきたヴァニーユを先導して喫茶店の前まで歩きました。
「ねえ」
ついた先で足を止めたキッカは待ちかねたように声をかけてきました。何か言いたいことがあるようです。
「魔王様。あんた、世界を滅ぼす気?」
何を言ってるのかわからず、ヴァニーユは一瞬ぽかんとしました。
「何で?」
「……あんたが魔王だから聞いてるのよ。代替わりした今度の魔王様は戦争する気があるのかどうか、って。ママは幸せだし、あそこはあんなで平和だし、アタシも人間の生活があるわ。良からぬこと考えてるんなら、こっちにも考えがある。それを伝えたかっただけ。魔王は世界を破滅させるのが仕事だからね」
「魔界だけじゃなくて、こんな所でもそれ聞かれるなんてにゃー」
いやはや。魔王という肩書きというものは、本当に。
「神様は成したいことがあったから神様になったのか? 違うだろ? 生まれた時から神だろ。ボクも生まれた時から魔王だよ。成したいことが無ければ、いいんだよ猫で。スカートの中でエビ食ってて、成したいことが出来た時にそれがやれるかどうかだけの違いだよ。で、今のところやる気はない」
「……ま、確かにそんな感じだけど」
今までの言動を見ていたからか、わりとあっさり引き下がってくれました。本当に、一応クギを刺しておくつもりだけだったようです。
「いいわ、信じる。仲良くやってる限り、アタシ達は兄弟よ。アタシはママを大事にしたいの。アンタもそうなら良かったわ。話のわかる魔王様もいるのね。逆に平和のために必要なんなら呼んで。出来ることなら兄弟は力を貸すから。アタシはキッカ。ここの喫茶店で働いてるか、いなけりゃこの姿で裏にいるわ」
「うん、ありがとうキッカ」
思いがけない出会いも果たして、二匹の猫は別れました。
しかし、端くれとても、ヴァニーユは魔王です。今のところ、戦争をしたいなどとは思っていませんが、平和な世の中を作りたい、というぬるい事も、望んでいるわけではないのですけれど……ね。
ヴァニーユは嘘は言っていません。基準はあくまで好きな人と好きな食べ物です。
いつも優しく抱っこしてくれるミエール。ヴァニーユの名前を覚えていてくれたミエール。
「そもそも、女王を誰かにくれてやるのは気に入らなかったんだ。恋なんじゃ仕方がないな」
人の悪そうなチェシャ猫笑いをニィっ、と見せて、ヴァニーユは密かに決心しました。
「邪魔するか」
月の変わりまであと僅かです。




