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台所のシルキー・ヴァニーユ 5

 黒い世界の白い宝石。カンディーレン城に帰ったヴァニーユは、緞帳で区切られた狭い一室に向かいました。

 そこにはひっそりと収められた、銀盆のような魔法の鏡がありました。

 鏡は自ら輝いているようです、闇の中でも綺麗に向かい合うヴァニーユの黒猫姿を映します。

「鏡よ鏡、おまえが一番綺麗だょ」

 魔法のキーワードでしょうか。やけにプライドの高い鏡のようです。

 その一言を置いてから、中空に掲げられた鏡にヴァニーユは問いかけました。考えるように魔法の鏡は明滅し、やがて答えを下しました。

 ふむふむ。あそこか。

 ヴァニーユは示された場所の地図を頭に描きました。鏡は、失せ物探しが一番得意なのです。

 早速、目的の場所へ行こうと急ぎ足で緞帳から出たところで、猫の背中に話しかける者があります。

「おや……魔王様。お元気そうで何より」

 足を止め、ヴァニーユは振り向きました。垂らした尻尾がパタパタと、二回だけ左右に振れます。

 さっきまで何もなかったはずの柱の影から、するりと横顔が出てきました。

 とても背の高い、青白い肌の女性です。黒いローブの裾を引きずって、女性はヴァニーユに向き直りました。美人ですが、とても冷たい顔をしています。夜空ほどにも青い唇が、ニッと釣り上がり笑みを作りました。

「いつもお忙しい事。こちらにもなかなか滞在されないと聞きますが、今日はご在宅でしたのね。相見まえました幸運、嬉しく思いますよ」

「奥方様も、お久しゅう」

 改まった声でヴァニーユも言いました。ですが、体の向きは変えません。

「お元気そうで何よりです。残念ながらもう行きますが、奥方様はどうぞごゆっくり」

「今日は愚弟の様子を見に参ったのですよ。全く世話のやける子ですこと。魔王様にもご迷惑をおかけいたしますことね」

「いえ、気丈に振る舞っておられたので、何も迷惑などは」

「迷惑なんですよ」

 女性は語尾を被せて、明るい声を張り上げました。あくまで、笑顔に。

「あの人間どもときたら、本当に迷惑な存在ですこと。そうお思いにはなられませんか? 私の弟に。なんと魔界将軍に。傷を追わせる仕打ち、迷惑と言わず何と。魔王様。この落とし前、つけていただけるんでしょうねぇ?」

「落とし前……?」

 三角の猫耳が、神経質そうにピクリと動きました。

「つけたい者がつけるといいだろう。本人がそうしたいと言ってるなら止めはせんぞ」

「あら、いやですわ。部下の受けた屈辱、晴らしてくれるのが筋じゃあないかと申し上げておりますの。そうじゃありませんこと?」

 アルトな女の声が、誘うように流れてきます。気の緩い人間なら、何も考えられなくなりそうな静かな音程ですが、ヴァニーユには効きません。

「屈辱を受けたんじゃあない、弱さに負けたのだ。叱りこそすれ、褒められたものではにゃぁい」

 あえての猫発音で、長めに鳴きました。尻尾をもう一振り、歩き始めます。

「そこはあなたに免じて、奥方様。あえて不問にしている。……今日も自室に閉じこもっている様だぞ。行ってみるといい。では、これで」

 猫の後ろ姿が見えなくなると、女性の笑顔は消え始めました。冷やされた水に氷が張っていくように、ピシリ、ピシリと冷たく凍りついて。

 やがて氷の顔が表情の全面を覆いました。これが彼女本来の姿です。

 氷の女は、ようやく瞼を僅かに動かし、ローブを引いてその場を立ち去りました……


 青ざめた白と、光を吸い込む黒で作られた淑女。

 彼女の名前はアマンダ。

 魔界のその下、地底の鍋底。地獄を統治する冥王の娘で、地底の世界でも由緒正しい血筋の一人です。

 そして、前魔王、クグロフの妻でもあります。つまり、魔王妃です。しかし、ヴァニーユの母親ではありません。

 魔界の昔、むかし。

 戦後処理に忙しく働いていた魔王クグロフは、一般に言うところの「晩婚」というやつでした。

 悪の総帥、魔王という肩書きではありますが、さりとて恋愛と無関係ではないのです。魔王なりに愛した人はいました。

 それが猫又のジェリーです。任務に疲れた魔王には、あの明るさが新鮮だったのでしょう。それにもうひとつ。甘いもの。ジェリーは不思議と、大層美味しいおやつを、ふんだんに持っていましたからね。

 彼女がいれば癒されます。魔王様にとっては無くてはならない存在になっていきました。

 ジェリーにとっても魔王は憎からず思えた相手だったようで、お疲れの魔王にせっせとお世話を焼きました。

 ですが、結婚となるとすんなりいきません。周りの反対があったからです。

 曰く、魔界を統べる魔王様の伴侶として発表するに、妖怪族では釣り合いが取れませぬ。せめて悪魔の中から血筋の良いものをお探しください。

 妖怪は悪魔と違って、生粋の魔界の生き物ではありません。地上にいるものが魔と混じって異形になったものです。お化けや妖精に近い立ち位置なのですね。要は、身分違いだと言っているのです。

 そこで連れて来られたのが冥界の姫、アマンダです。

 なにぶん、家柄血筋は有難いほどで文句はありませんから、二人はすぐに娶されました。

 正妻が決まったので一安心と、早速……と言っていいのかどうか。王妃に配慮して一時遠ざけられていたジェリーは、頃合いを見て呼び戻され、側室として城に留まる事となりました。

 クグロフという魔王、どうも根が真面目なタイプのようで、アマンダの事も大切に扱っていたようです。でも、アマンダとの間に子供はできませんでした。妊娠したのはジェリーの方です。そこで生まれた子供がヴァニーユ。以降に子は出来ず、ヴァニーユは魔王の一人息子であるまま、魔王の崩御を迎えたのです……

 魔王様の葬儀が終わってすぐアマンダがやったことは、ジェリーの追放でした。

 本当は母子揃って追い出したかったのですが、ヴァニーユは城を退く事を拒否しました。

「ちちうえは、魔王の座をボクに、いや、余に譲ると仰せだった。ははうえはさしたる用もなくなったゆえここを去ったが、余が出て行く理由はないぞ」

 こまっしゃくれたガキよ、どうしてくれよう。

 さあ、ここで政権争いの一幕が上がりました。

 何より直系であることだし、先代の勅命のままにヴァニーユを魔王にとようとする派、それだと次の魔王は妖怪とのハーフになる、ここは今の権力も強大であることだし奥方に力添えして血筋で選ぼう派、前者が多数ではあったが奥方の取り巻きも少なくはなく、しばしの睨み合いは続きました。

 アマンダが新魔王に推したのは、彼女の弟であるアナナスでした。

 アナナスは姉の縁で地位を得て悪魔将軍として魔界に配属され、日々魔界を纏めるべく頑張っていましたが、元を辿れば地獄の魔物なのでした。

 ヴァニーユにとって義理の叔父にあたるのならば、あの態度の横柄さ、なるほど、不思議ではなくなりますね。

 さて睨み合っても決着がつくわけではありません。そして決着は、意外なほどあっさりとつきました。

 だって魔物たちですもの。平和的解決より、もっと早い手の方が得意ではありませんか。

 そう、実力行使です。

 こうなったれば、力づくで出て行かせるしかあるまい。子供相手に無体をするも気が引けるが、元々ここは力が全ての魔界なのだ。恨むならば己が境遇を恨め。

 確かにその時ヴァニーユはまだ子供、中肉中背とも言えない今よりも、もっと小っこくて細っこい、子猫のような頑是無さです。

「魔物の世界は弱肉強食、決して温くはないのだ!」

 アナナスは対峙したヴァニーユにそう言い放ち、掴みかかったのです……!

 結果は、まあ、今の魔王がヴァニーユである事が全てを物語っていますが、打ち負かしてしまったのです。ヴァニーユが。

「ネコの世界も、弱肉強食なのだ」

 倒れたアナナスを見下ろし、若いヴァニーユは薄く笑みました。

「しらなんだのか、おじうえ」

 当時はまだ片手とは行かなかったし、アナナスも階下まで派手に吹っ飛ぶ事は無かったのですが、それでも魔王の血を引く魔力は強力無比でした。

 力が全て。アナナスが自ら言った通り、魔界は力ある者が偉いのです。

 反対派は黙りました。アマンダはこれを機に、冥界に帰ってしまいました。アナナスは今も悪魔将軍の座に居続ける事を許されていますが、腹の中にはやはり、含むところがあるようです。

 今のところはこれで、滞りなく回っています。周りも口を噤み、一見穏やかに過ごしていたのです。数日前までは。


 思いがけない遊覧飛行を体験したアナナスは今、ビスクヘルムの城から帰ってきて以来、ヴァニーユが言ったように自室に引き篭もって溜息なぞついています。

 まあ、どうしたのでしょう、あの猪突猛進タイプの悪魔将軍が。

 鬱々としているのならば心配ですが、何やら溜息の合間にグフフ、などと思い出し笑いが含まれています。……きっと大丈夫ですね。

「……弟よ」

 声だけの先行した存在から、どこからともなく靄のようなものが吹き出し、渦をかきながら集まって暗闇へと変わりました。その中に白い顔が浮かびます。

「アナナス」

 もう一度声をかけられましたが、呼ばれた方はまだ物思いに耽っていたので気づきません。

「アナナス!」

「ふおっ!」

 ようやく飛び上がり、自分の背後に現れた闇に気が付きます。

「姉上か、驚いた」

「気が緩んでいる証拠でしょう」

 さっきと違って微笑みひとつ、媚ひとつありません。

 闇は実態になり、黒いローブと化しました。ドアも開けずに入ってくるのですから、驚く要素がありはするのですがね。魔法使いはまったく、これだから。

「こんなところでぼうっとして。何をしておる。軍議も欠席して篭っていると聞いておりますよ」

「む……療養中だ。出られなかった」

 角を撫でながらアナナスはボソボソと言いました。角には鉄板を巻いた継ぎ目がありますが、さしあたっては復元できたようです。

「もう良いように見えるけれど。大丈夫なのでしょう?」

「う、うん、まあ……」

 あまりの歯切れの悪さに、アマンダの声は簡単に尖りました。

「何を腑抜けている。シャキッとしなさい! すぐにでも軍務に戻って早くあの人間の世界に進撃を……」

「いや……姉上……もういいではないか」

 その尖りも、あまりに予想だにしていなかった返事がきて勢いが落ちます。詰まった言葉をようやく吐いて、溜息のようになりながら問い返しました。

「もういい……とは」

 いかつい顔を、どこかうっとりとした表情に緩めて、アナナスは遠くを見ています。

「甘かったんだ……」

「甘かった」

「ケーキがさ……」

 完全に絶句したアマンダは置いてけぼり。ここ数日かけて反芻した己が思いを語ります。

「美味しいものっていいな。魔界がどうひっくり返っても、ああいうものは作れないと思う。地上をそのままにしておけば、変装さえすればあれがまた食べられるんだって思ったら、何だか、それでもういいかもしれん、と思ってしまって……」

 息をするのも忘れていた様子のアマンダは、やっとのことで言うべき言葉を探し出しました。

「……そなた、本当に我が弟か。偽者ではあるまいな」

 話は到底理解しえないのですが、察せられるのは、どうも地上で美味しい思いをしてすっかり宗旨替えをしたらしい、という事です。

「愚弟愚弟と表に向かっては言うてきたが、本当にそうだったとは。嘆かわしいこと……一体何の世迷い事なの」

「それに……フフ……ピンクだし」

「全く何を言っているのか解らないわ」

 呆れ顔だったアマンダの眉目が、溜息の後に氷の表情を取り戻します。

「アナナス」

 骨抜きの悪魔将軍は、何も考えず呼ばれた方に顔を向けました。

 と、頬にひんやりと触れる氷の指を感じます。冥界の婦人に、温かみなどないのです。

 そのまま誘導されて、吸い込まれるように姉の目を見てしまいました。氷の炎が吹き荒れる瞳を。

「怒りを忘れたわけではあるまいに。不遇の目に会う怒りを。この城の王座は誰のもの? 本来ならばお前にも権利のあった、あの地位を塞いでいるのは下賎なる妾の子、今も我が物顔にこの城を闊歩し、私を私とも思わぬ態度を取っている、見るも汚らわしい獣なのよ。お前だって見下されているのは許せまいに」

 怒りにあふれているのはこの声です。氷河にヒビの入るような重々しさ。

「姉上。そこが一筋縄ではいかんところなのだ」

 アナナスは困り果てた様子です。何しろ、昔も、今も、ヴァニーユに勝てないわけですから。

「いいから打って出なさい。何もあの獣をまともに相手にする事はない。地上を制圧すればその功績を以って正当に魔王の地位を迫ることができる」

「むう……それも、一筋縄ではいかんようなのだ、姉上」

 地上には勇者がいます。ミエール女王です。彼女と接見を果たしたアナナスは、人間恐るるにたらず、という意見を、今では変えています。

「やりようはあるわ」

「何」

 手指の先から冷気が立ち上り、触れた頬に霜がつきます。ピシリ、ピシリ。

 危険に膨らみはじめた姉の魔力に、ピクリとアナナスは痙攣しましたが、そこまでしか体が動かせません。握った拳が膝の上で、小刻みに震えはじめました。

 霜は這うように領土を広げ、耳をかすめ、こめかみを渡り、頭部へと伸びていきます。

「どっちも自分が相手にしなくていいのよ。そりゃあ、勇者は魔に強いでしょう。だったら倒せる相手に倒してもらえばいいの。いいから言う通りになさい。これなら持っている兵だけでも、きっと魔界が手に入る」

 うう、とアナナスは低く唸ります。

 氷が頭を広く覆うと、頬は水晶の表面のように尖ってひび割れ、歪みに同調した悪魔将軍の瞳にも、氷の意志が燃えはじめました。

「やるのよ。もう我慢がならない。あんな魔王ならいない方がマシ。私達の手によって、魔界を変えてゆきましょう。何も余計な事は考えず、あなたはただ、今から言う事を遂行して魔王になるの……いいわね」

 海に張った分厚い氷のように、アマンダの表情はピクリとも動きません。その代わりに、彼女の怒りは凍てつくオーラとなって辺りの空気をも静かに縮めこんでいくのです。魔力を含んだ声は吹きすさび、雪の礫となってそこかしこを打ちます。

「それができないのならば」

 アマンダの長い睫がすうっと伏せられました。

「命なんて無用だわ……そうでしょう?」


 ヒールの音が広間を横切ります。

 アマンダはふと足を止め、背面の壁を見上げました。

 奥の間では、大きく掲げられている肖像画の前魔王が、悠然と部屋を見下ろしています。

 その隣に飾られているのは同じく肖像画、対として描かれた妻アマンダの姿です。

 記憶にある亡夫と、細かに違う顔の造形を訂正しながら、アマンダは絵の中の夫婦をじっと眺めていました。

 長いこと無言でしたが、ふと、何かに気づいたように跳ね除ける仕草で腕を振りました。揃いの額縁の横に垂れていた緞帳が、触れられないままふわりとひらめきます。

 そこにもう一枚、隠されていた肖像画が姿を現しました。

 健康的な笑顔の女性です。モデルの名前を記す事も許されていない、無記名の絵姿。でも知っている名前は浮かんでしまいます。愛妾ジェリー、本当はそう札の付けられる女。

 アマンダはもう一度指を上に向けました。ぽ、と咲くように青い炎が爪の先に揺らいで灯ります。

 炎は手を振るとすぐに消えました。揺れる炎は場所を移し、絵の中にいる妾の足元に纏わりつくと凍りながら燃え上がりました。

 青かったそれは絵の具と混じり、赤い色と煙に変わりながら、ぺろぺろと上に向かって伸びていきます。

「卑しい者共に魔界は好きにさせない。許さない。早くあの女の息子に代わるのよ、アナナス」

 隣より一回り小さな額縁はもう人物を全て焼き、アマンダの睨めつける視線を受けてか、震えるように微かに軋み……真ん中から大きくひび割れて壁から外れ、砕けながら床に跳ねました……


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