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台所のシルキー・ヴァニーユ 2

 目的地について、ヴァニーユはやっと下に置かれました。

 首が自由に動くようになったので、喜んで辺りを見回します。

 ここは、どうやら台所です。大鍋、小鍋、おたま各種。野菜かごに冷蔵庫。ものがいっぱいです。物珍しそうにしていると、上から何かが降ってきました。

「ママはね、昔ここにいたことがあるの」

 棚の上を移動している、ジェリーの尻尾が見えます。

「ネズミを捕って感謝されたりしてたけど、本職としては味見役よ。言わなかったっけ、ママは昔遠い国から船にのってこの国に来たの。前いた国はとても綺麗なところでね。ここのコックに色々教えてやったら、とーっても感謝されてたの。住み心地よかったけどねえ、ホラ、あたし愛され猫だから。パパに熱烈プロポーズされてさ、魔界に嫁に行ったでしょ。ねー、それはそれで良かったけど。うん……美味しい。あたし居なくてもちゃんと精進してるじゃない。お食べよ」

 ヴァニーユは、落ちてきたものに目をやりました。鼻を近づけてみると、甘い匂いがします。どうやらお菓子のようです。

 首を落として何気なく口に入れ……その瞬間、もう本当にヴァニーユは全身の毛が膨らみました。美味しい! 魔界では食べたことのない味、驚きの味です。新たな扉を開いた気すらします。

 タマトリドリのねだり声としばしの沈黙、そして急に、ビュンビュン飛び回る音がしました。

 オイシイネエ! オイシイネエ! の連呼です。きっと同じ思いをしたんでしょう。

「これ、なあに?」

 驚くのは先をこされたので、ヴァニーユは母のいる辺りを見上げて重要な問題を聞きました。

「なんだろ。正確には……名前、何ていうのか……まあ、ビスケットよ」

「ビキチット! ビキチット!」

 適当な母の答えに飛ぶタマトリドリが唱和します。

「ビキチット……」

 かみ締めるように呟く息子の様子には気づかず、ジェリーは何やらに奮闘しているようです。

「あん。ダメだわ開かないわ。人間にならなきゃ」

 次の瞬間、ヴァニーユの目の前に人間のナマ脚がぬっと降りてきて(下から見ているヴァニーユにはわかりませんでしたが、そこは流し台でした。とてもよくないお行儀です)人間の女性がヒールの踵を揃え、床に立ちました。

 スカート短くボディラインぴったりなドレスを纏う体はグラマラス、大きなキャッツアイとくるくるよく変わる表情を、たっぷりとした赤毛でふわふわと飾った、健康的な肌を持つなかなかの美女です。

 これが魔王を虜にした女、猫又ジェリーの化け姿。夏の蜜柑のような明るさを湛えた、魔界には珍しいタイプの美しさです。

 さてどうやらこのお転婆さんはキャンディバーの入った瓶を開けたかったようです。小脇に抱えていた瓶の蓋をようやく捻って横に置き、極彩色の中身を一本、口に咥えました。

「あんたはネギもチョコもそのまま食べられていいわね、ヴァニーユ。純粋な猫ではないものね。あんたも味見役になったらいい仕事するだろうに。おいで」

 呼ばれて寄ってきたヴァニーユを抱え上げ、ジェリーは窓辺に立ちました。

 窓を開けると風が吹き込みます。朝の大気が、野菜の香りの篭った部屋の空気を一掃していきました。

 ヴァニーユもヒゲを揺らし、母の腕の中で風に顔を向けました。ああ、その時の風景といったら。

 太陽はもう顔を出していました。ただの石壁も日の光に線を浮かばせて輝き、影はくっきりと濃く朝日の強さを示していました。今日も暑くなりそうです。

 来るときに見た朝日のほの赤みは消え、景色はくっきりと色を塗られていました。

 空は青く、雲は白く。

 そして空よりなお青い鳥の鮮やかさ。木に成る実の赤さ。

 芝の薄緑、立木の濃緑。ざらざらとした石壁の表面も、目に面白い。

 掲げた旗はこの国の紋章が描かれ、突き出された棹から空にぽかりと浮かんでいます。

 起き出した世間を歓迎して、鶏たちが挨拶を交わします。木に隠れているのか、それに小動物の声も混じり、どこからか、羊の鳴き声までも聞こえてきました。

「ご覧、世界はこんなにも美しい」

 ジェリーの声を肌で感じながら、ヴァニーユはただただ眼前の風景を眺めていました。

「私はこの世界に生まれた。あんたも半分、この世界の命を持っている。魔界に生まれた純粋な闇の連中は、ここじゃ生きられないだろうに、この世を手に入れて何がしたいんだろう。どうせ住めない世界をやつらも住める世界にすれば、この色など枯れているだろうに。自分の世界で生きればいいのにねえ。無駄に苦労しなくて済む」

 その時は気付きもしなかったのですけれど。

 後になって思い返せば、その頃、魔界では魔王クグロフが病床についたところでした。

 毎日のように母の元を訪れる高官がいたし、そいつらの携えてくる用件は安穏なものだけではありませんでした。

 結果的に魔王は、それから始まる闘病生活が明ける事なく臨終を迎えましたが、思うに、それを見越した部下たちが、次期魔王の座についてざわめいていたのかもしれません。

 母はその対応に追われ、どうにか子供を守ろうとしていたのではないでしょうか。

 魔王は亡くなり、母は魔界から姿を消しました。確執の結果な事は知っています。そしてつい確かめないまま今に至るわけですが……

 思い出の人間世界の社会化見学は、そのあとすぐ終わっています。

「あんたも望むなら、この太陽の世界でも生きられるわ」

 ジェリーがそう言った瞬間、起きてきたコックのやってくる足音が聞こえたのです。急いで猫の姿に戻ったジェリーに首根っこを噛まれ、開けた窓から逃走しました。

 あれからずいぶん時間が経ちました。

 今は自分ひとりでも魔法を使い、人間界をうろついています。それでも、最初の冒険はヴァニーユにとって、とても大切な思い出になりました。




 暖められた湯気に茹でられた野菜の香りが混じります。

 今も昔も変わらず、ビスクヘルム城の台所はいつもいい匂い。朝餉が終わったばかりのこの時間、ちょっとまったりしたところです。昼の下ごしらえは済んでいます。

 鍋をかき回しているのは料理長です。見てください、あの背の高い帽子が、身分を表しているんですよ。

 料理は愛情。気は心。

 隠し味に愛情を囁くべきここで、でも、料理長は溜息をつきました。スープを混ぜる手も、必要上というより、物思いに耽ってただ動かしているだけのようです。

「晩御飯は何にしようかしら」

 それに答えるのはゴロゴロまじりの声。

「その鍋は何。なにか作ってるんじゃにゃーの?」

 猫声で人の言葉をしゃべる猫は多くはありません。当然、この声、ヴァニーユです。

 調味料の棚に、特別にしつらえてある猫様クッションにどっかり座り、濃厚ミルクをせしめていたところなのです。

 まあ、確かに王室御用達の首輪をしていますけれどもね。どこに入ってもいい許可は取っていますが、その居場所は実はほとんどが女王のスカートの中か、この台所なのです。

「これはブイヨン。スープの素よ」

「そうか、じゃあポトフにしよう。ソーセージ食べたい」

 なるほど。それはいいわね、と料理長は頷きました。

「ヴァニーユちゃんがいるとメニューがラクね。ヴァニーユちゃんが考えたのは女王様のウケもいいしね。ちょっと大量にメニュー考えてたら頭ぼやーっとしてて、今日の晩御飯の事忘れていたわ。よし、ポトフ決定」

 かなりアテにされているようです。猫に緩い台所ですね。

 ところで、ここでちょっと言っておきますが、料理長は男性です。

 先端を綺麗にカールさせた口髭までしっかり蓄えています。男性です。ただ、ちょっと口調がエレガントなだけです。乙女チックエレガント。

「猫に緩いのは伝統なのよね」

 と料理長。

「ホラ、この国は元々軍事国家だったから、むくつけき男どもの楽園だったのね。アタシにとってはそれもパラダイスだわって思えるんだけど、三代前の王様が方向転換しようとしてね。ゴージャスエレガントを目指したワケよ。建物やら衣装やら、その折に随分と洗練されたみたい。アタシのひいおじーちゃんが本当に苦労したってよく言ってたらしいわ、料理も変わってきたからね。アタシのひいおじーちゃんも、このお城のコックだったの」

 ほら、観光ガイドの勇者さんがちょっと言ってた事、思い出してください。あれです。

 三代前の王様というと、女王から見てもひいおじーちゃんですね。その時代の話です。

「昨日まで熊鍋作ってたのに、突然オシャレしろって言われてもさっぱりよね。あちこちの国を回って勉強して、おっきなお皿に一口で終わるような料理のっけてソースかけたヤツに『ふむふむ、これがオシャレというものかー』なんて感心してたような頃よ」

 この台所に、一匹のどデカイ猫がふらりと現れたんだそうです。

 この猫、なんと堂々と皿の中身のつまみ食いをはじめました。当たり前ですがひいじーちゃんコックは怒り、何しやがるこのにゃんチクショウぶん殴ってくれるとお玉を振り上げ詰め寄ったのです。

 すると猫はくるりと振り向き、落ち着き払ってこう言ったといいます。

「これ、レモンを使いなさい。酸味が足りないわ」

 驚きに毒気を抜かれたひいじーちゃん、材料もあったことだしとそれを試してみたところ、何と、これが格段に美味しい出来上がりになったのです。

 それから、猫はたびたびやってきてレシピの修正をしたんだそうです。

「塩が足りないわ」とか「このソースはもう少し甘い方がいい」とか「薄切りにして揚げてみるといいわ」とか。

 言われたとおりにしてみれば格段に美味しい。あらあらどうしたことかしら。あっという間に、宮廷レシピは完成され、今の食文化の基礎となりました。

「だからね、ひいじーちゃんのレシピ本には最後にこう書いてあるのよ。『猫の意見は聞いておけ』ってね」

 うん。どこかで聞いた話ですね。

 ひいじーちゃん伝聞だと、見た目からして普通の猫ではなかったそうです。長毛種のフッサフサでとても大柄。色味が三毛でなかったら、別の動物かと思ってしまいそうな……

「三毛? ああ。それボクのママだ」

「まさか! ひいじーちゃんの代よ? すっごく昔の事なのよ。いつからか、ぱたりと来なくなったっていうから……ね。猫だからそんな事もあるって、ひいじーちゃん、諦めたみたいね」

 実際がとこ、魔界にお嫁に行ったわけなんですが。

 まあそうですね、人間に言ってもそうそう信じはしないでしょう。

「美味しいものがあるなら、ボクは来るぞ。そういえば、ミルクの付け合せがないにゃ」

 お猫様の横柄な態度にも料理長はただ笑って、リーフパイを二枚出してあげました。

 もうこの料理長も、ヴァニーユとの付き合いは長くなっています。シャクシャクとパイを食べるヴァニーユに、

「今日のはどう? ヴァニーユ」

 と聞きました。

「うん、うまい。でも、やっぱりこれじゃない」

「そう。一体どんなのかしらね、あなたの言うビキチットは」

 ヴァニーユの探して求めているお菓子がある事、当然知っています。子供の頃ここで食べた、あのビキチットです。

 ビスケット……ヴァニーユはビキチットといいますが、薄めのサクサクしたお菓子は皆、ヴァニーユにとってはビキチットになる事、当然料理長も知っています。アバウトに、揚げせんべいまではビキチットに入るらしいと、今までの料理長調べで明らかになりました。

「これじゃなくてもっと厚い……シャクっとしてない……ビキチットなのだ」

 思い出のビキチットの話は料理長も聞いていました。だからここに来るたびに色々食べさせてみるのですけれど、まだ正解に当たっていません。

 美味しさに思い出補正もあるでしょう。その上、ヴァニーユの言うビキチットの範囲が広いものですから、捜査は難航しています。

「もうちょっとヒントがあればねえ」

「あの時ボクはちっちゃかったし、まだ食べ物に知識がなかった。曖昧な記憶だ。しかも暗かった……よく見てないし。ママと一緒に食べたけど、ママも知らないっぽかった」

「あら、そう。ヴァニーユちゃんには、ビキチットは思い出のママの味なのね。まあ、仕方ないわ。また探せばいいだけね。シャクっとしてないなら、パイじゃないのかしら。ああ……お菓子もいっぱい考えないといけなかったわ。ヴァニーユちゃん、頼りにしてるわよ」

「何かあるの?」

「パーティよ。でっかい舞踏会を催すの。その献立を考えててもう今から大変。いやあ。でも、姫様が生まれて十七年かぁ、時の流れは早いわねえ。あの頃、アタシはまだペーペーで、毎日ジャガイモの皮ばっかり剥いてたわ。誕生パーティの時はそりゃもう、朝から晩まで忙しく野菜の皮を剥いたもんよ。それが姫様、いつのまにか大っきくなって。女王になって」

 そりゃアタシも育つはずだわ、と料理長は頷きました。

「気をつけてはいるけれど、若い頃と同じように食べると、すぐ育つのよね。腹が」

 なんて言ってますけれども、美しさにこだわる料理長はまだまだスリムです。細マッチョです。

「ねえ、ヴァニーユちゃん知ってる? うちの女王様ね、赤ん坊の頃に天使にプロポーズされたのよ。生まれて間もなく、寝ている間にやってきた天使が、愛の証にこっそり薔薇の花を握らせてくれたんだって。ステキじゃない? 神秘的じゃないワクワクしちゃうじゃない? 天運を持っている人ってやっぱり違うわね」

「薔薇? ああ、それボクだ」

「なぁに言ってるのよ、さっきから! 十七年前の話だって言ってるでしょ? ……でも、ねぇそれがもう結婚話だなんて、本当に早いわねえ」

 小腹も塞いで満足して、そろそろ香箱を組もうかと思い弛緩していたあたりだったので、ヴァニーユは反応が遅れました。

「結婚?」

「そ。そんな話が出ているの。十七なら、そう早いってもんでもないわ。だから、近隣の王子様を集めて大掛かりな夜会を開こうって言うことなのよ。だから大量のメニューを考えてるワケ。ねえヴァニーユ、何かいいアイデア、ない?」


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